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ホロコースト ほろこーすとholocaust

翻訳|holocaust

知恵蔵の解説

ホロコースト

ユダヤ教」のページをご覧ください。

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朝日新聞掲載「キーワード」の解説

ホロコースト

ナチス・ドイツによるユダヤ人大虐殺。ヒトラーが1933年に政権を握ると、ユダヤ人迫害を開始。第2次大戦開始後に大量虐殺が始まった。占領下のポーランドのアウシュビッツやソビブルなどの収容所にユダヤ人を移送し、ガス室などで殺害した。45年までに約600万人が殺されたとされる。移送の責任者アイヒマンは戦後、南米に逃亡。60年にとらえられ、エルサレムで死刑判決を受け、62年に執行された。

(2012-10-11 朝日新聞 朝刊 2外報)

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デジタル大辞泉の解説

ホロコースト(holocaust)

大虐殺。とくに、ナチスによるユダヤ人の大虐殺。

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百科事典マイペディアの解説

ホロコースト

ギリシア語起源の言葉で,ユダヤ教で神に供える犠牲に由来する。転じて全滅,大虐殺の意となり,とくにナチスによるユダヤ人の集団的虐殺をさす。ヘブライ語では〈ショアーShoah〉という表現も使われる。
→関連項目歴史修正主義

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大辞林 第三版の解説

ホロコースト【holocaust】

大虐殺。特に、ナチスによるユダヤ人の大量殺戮さつりくをいう。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ホロコースト
Holocaust

ナチスによるユダヤ人大量虐殺。もとはユダヤ教の供犠(燔祭)を意味する。ドイツのユダヤ人に対する迫害は,1933年1月のアドルフ・ヒトラーの首相就任 1ヵ月後に始まり,ユダヤ人の商店は不買運動にさらされ,破壊され,公職者は地方政府,裁判所,大学から追放された。1933~38年の一連の立法措置や財産の没収,暴行,略奪により,ドイツのユダヤ人社会の政治的・経済的基盤は崩れた。1935年のニュルンベルク法によりユダヤ人は市民権を完全に失い,1938年11月のいわゆるクリスタル・ナハト(水晶の夜)の結果,ドイツにあるすべてのユダヤ教会がその他のユダヤ関連施設とともに破壊された。その後,数千人のユダヤ人が強制収容所に入れられ,ドイツのユダヤ人資産の主要部分は,巨額の罰金やその他の取り立てによって没収された。1939年,第2次世界大戦が勃発する頃には,ユダヤ人はもはや市民でなく,公立学校に通えず,実際いかなる商売,職業にもつけず,土地を所有できず,非ユダヤ人と一切交際できず,公園や図書館,博物館への出入りも禁じられ,ゲットーに住むよう命令された。
1938年までに,ファシスト政権下のイタリアはドイツをモデルに,反ユダヤ法を発布した。1938年のオーストリア,1939年のチェコスロバキアに対する征服,併合は,両国のユダヤ系国民の隷属へとつながった。反ユダヤ主義的社会背景をもっていたハンガリーは 1938年,ヒトラー方式をモデルにハンガリー初の反ユダヤ主義立法を行なった。ルーマニアでは 1939年末までに,ユダヤ人人口の 3分の1以上が公民権を剥奪された。さまざまな社会的,政治的勢力は,ユダヤ人やその他ヨーロッパの被抑圧マイノリティの支援に立ち上がると期待されたが,彼らは行動に出なかった。中部・東部ヨーロッパの学生団体は,自由主義者との共闘を拒否し,自由主義的諸政党はみずからが粉砕もしくは弾圧の対象にされていた。教会の抵抗はゼロではなかったが,無力で,一部の聖職者は明らかにその当人が反ユダヤ主義者であった。ユダヤ人の多数派は移民を希望し,1931~41年にかけて,約 16万人がアメリカ合衆国へ移り,イギリス支配下のパレスチナへも数万人が脱出している。大戦初期にドイツ軍が連戦連勝した結果,ヨーロッパのユダヤ人の圧倒的多数はナチスとその衛星国の支配下に置かれ,人権は剥奪され,資産も没収され,大半がゲットーや強制収容所へ移動させられた。
ドイツ軍がまずポーランド,次いでバルカン半島,ソビエト連邦へと東方に向かうにつれ,ナチス親衛隊によって,「ユダヤ問題」の解決が恐るべき方法ではかられた。征服された村や町,都市のユダヤ人が狩りたてられ,射殺され,近くの共同墓地に埋められた。また,犠牲者を密閉したトラックなどに押し込め,排気ガスを荷台に引き込み,共同墓地に向かう途中で死にいたらしめるという方法もとられた。しかし,あまりにも効率が悪いために,人里離れた「絶滅収容所」で殺人と火葬を行なうという計画が提案された。1942年1月のワンゼー会議で「ユダヤ人問題の最終的解決」につき,ヨーロッパの占領地全体からユダヤ人を東部の収容所に組織的に移送し,「しかるべき扱い」に処するという決定がなされた。一部はすぐさま処刑され,他の者は大規模な労役部隊に組織されたが,過酷な労働や乏しい食事のため結果的に最後は殺される側に選別されてしまった。大量処刑の最も効果的な方法は,特別に建設されたガス室(シャワー室に偽装)で,ガス室から運び出された遺体は隣接する火葬場へと移された。ガス室やその他の方法により,おそらく 400万人ものユダヤ人がアウシュウィッツ収容所など各地の絶滅収容所で命を落とした。戦争中,ナチスに処刑されたユダヤ人の総数はおよそ 570万人と推計されている。ユダヤ人に加えて,40万人ものロマ(→ロム)もホロコーストで殺された。
ジェノサイド(集団殺害)計画は効率的に実施され,犠牲者はしばしば毒ガスで殺される最後の瞬間までそのことに気づかなかった。国民がユダヤ人に対し好意的だったデンマーク,フランス,イタリア,ブルガリアのような国々では,ユダヤ人をかくまったり,偽造文書を提供したり,中立国に脱出させるなどの措置がとられた。しかし東ヨーロッパでは,農民の伝統的反ユダヤ感情もあって,ほとんど支援は寄せられず,逆に絶滅運動の担い手となった非ドイツ人も少なくなかった。このような絶望的状況のもとでも,数千人のユダヤ青年がポーランド,ソ連,ユーゴスラビア,フランス,イタリアのさまざまな地下抵抗運動やパルチザンに参加している。特筆すべきは 1943年4~5月のポーランドの主要ゲットーにおけるユダヤ人蜂起で,ワルシャワではドイツの強制移送命令に抵抗して,ドイツ正規軍を相手に 1ヵ月近くもちこたえた。しかし連合国は有効な支援を行なわなかった。また大戦期を通じて,大部分の国はひと握りの難民を除くと,門戸を閉ざしたままだった。イスラエルでは現在,ユダヤ暦のニサン月27日(西暦では 4月19日もしくは 20日)にホロコーストの日の記念式典が行なわれている。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ホロコースト
ほろこーすと
Holocaust

1933年から45年までのナチス・ドイツによるユダヤ人大虐殺をさす。600万人が殺されたといわれる。1933年にナチス党がドイツの政権を握ると、非アーリア人の定義を行い、ユダヤ人は生活のあらゆる面で差別を受けた。35年には反ユダヤの法律「ニュルンベルク法」が施行され、ユダヤ人は公民権を否定され、ドイツの市民生活から強制排除される。38年、オーストリアにおいても同様の法律が成立した。第二次世界大戦以前の段階では、ドイツやオーストリアのユダヤ人は国外脱出もまだ可能で、およそ23万人がドイツ、10万人がオーストリアから出国したが、大戦勃発(ぼっぱつ)とともに、ユダヤ人の大量虐殺がポーランドなどから始まった。ヒトラーの指揮の下に「最終的解決」、すなわちユダヤ民族の絶滅計画が策定され、実施に移された。この政策は、42年1月にベルリン郊外のバンゼーで行われた会議で決定された。
 初期の段階(1941年まで)は、ユダヤ人をゲットー(ユダヤ人居住地区)に隔離し、極度に劣悪な環境に閉じ込めて、飢えと病気で絶滅を強いた。次の段階になると、強制収容所をつくり、ヨーロッパ各地からそこにユダヤ人を貨物列車で大量移送し、消毒室と称されるガス室で毒ガス(チクロンB)を浴びさせ殺害したのち、死体を焼却炉で灰にした。殺人は冷酷かつ能率的であった。代表的な強制収容所は、ポーランドに集中し、アウシュウィッツ、トレブリンカ、マイダネクなどが有名。初期には健康なユダヤ人は強制労働に使役されたが、のちに彼らもガス室に送られた。43年には、ゲットーや収容所で反乱が起きたが、残酷に鎮圧された。ユダヤ人の逃亡者もいて、ヨーロッパ各国の善意の市民に匿(かくま)われたが、大部分の市民はドイツに協力し、ユダヤ人を見殺しにした。ドイツ敗戦が決定的になっても、45年4月に最後の強制収容所が連合軍に解放されるまで、虐殺は中止されなかった。
 ホロコーストは、ユダヤ史上でも、また人類の歴史上でも前例のないもっとも残虐なできごとである。その背景には、長年ヨーロッパ社会に反ユダヤ主義による偏見と憎悪の伝統があり、ホロコーストを暗黙に容認したともいわれる。戦後、主要な責任者は厳罰に処され、犯罪者は国境を越えて徹底的に追跡された。たとえば、アルゼンチンにひそんでいたアドルフ・アイヒマンは、イスラエル秘密情報機関に誘拐され(1961年)、イスラエルで裁判に掛けられた。
 また、ホロコーストの実情は体験者による記録文学で世界中に知られている。たとえば、心理学者V・フランクルによる『夜と霧』、ノーベル文学賞作家エリー・ビーゼルの作品群、アンネ・フランクの『アンネの日記』などである。ホロコーストを世界に知らしめたのは、記録文学だけではない。イスラエルのエルサレムにはホロコーストの博物館「ヤッド・バシェム」があり、虐殺の実情を生々しく訴えている。同博物館には虐殺の記録のほか、ユダヤ人を救った人々の記念の植樹もある。日本人では杉原千畝(すぎはらちうね)が名前を連ねている。杉原はユダヤ人難民にビザを発給し続けたことで知られている。[河合一充]
『ヴィクトール・エミール・フランクル著、霜山徳爾訳『夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録』(1985・みすず書房) ▽アンネ・フランク著、深町真理子訳『アンネの日記』(1994・文芸春秋) ▽マイケル・ベーレンバウム著、石川順子・高橋宏訳『ホロコースト全史』(1996・創元社) ▽渡辺和行著『ホロコーストのフランス――歴史と記憶』(1998・人文書院)』

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世界大百科事典内のホロコーストの言及

【イスラエル[国]】より

… イギリスのアラブ側に対する約束にもかかわらず,パレスティナは第1次大戦後イギリスの委任統治下に置かれ,しかも国際連盟とイギリスとの委任統治協定にはバルフォア宣言の趣旨が盛り込まれてユダヤ人のパレスティナ移住と建国への基礎固めが着々と進められることになった。とくに第2次世界大戦中,ナチス・ドイツによるユダヤ人の大量虐殺(ホロコースト)が行われたことは,ユダヤ人に対する世界的同情を呼び,ユダヤ国家の樹立を促進させる結果を生んだ。しかし,ユダヤ人のパレスティナ移住が増大するにつれてアラブ・ナショナリズムとの対立が激しくなり,パレスティナでは1920年代後半以降,ユダヤ人とアラブとの衝突事件がしばしば繰り返された。…

【ユダヤ人】より

…いずれにせよ,1933年に50万弱を数えたドイツの〈ユダヤ人〉の大多数をはじめ,ヨーロッパ全域で510万人から650万人と推定される人びとが殺害された。このホロコーストholocaustが,単にナチスの非人道性,戦争下の狂気などに帰せられるべきものではなく,ヨーロッパがその胎内から生み出したユダヤ教徒,そして〈ユダヤ人〉に対する対応のひとつの帰路であったと言えるであろう。ただし,こう言うことは,それが必然的・不可避的な帰結であったと考えることではないし,またいかなる意味でもナチスとその支持者の免罪を意味するものでもない。…

※「ホロコースト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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