ナチス・ドイツによるユダヤ人大量虐殺。ヒトラー率いるナチスは1933年に権力を握り、欧州のユダヤ人絶滅を計画した。5年後、ユダヤ人の商店や礼拝所などに対する一斉襲撃事件「水晶の夜」を引き起こし、取り組みを本格化。アウシュビッツやマウトハウゼンなどの強制収容所で毒ガスや銃などを使って推計600万人を虐殺した。
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1933年から45年までのナチス・ドイツによるユダヤ人大虐殺をさす。600万人が殺されたといわれる。1933年にナチス党がドイツの政権を握ると、非アーリア人の定義を行い、ユダヤ人は生活のあらゆる面で差別を受けた。35年には反ユダヤの法律「ニュルンベルク法」が施行され、ユダヤ人は公民権を否定され、ドイツの市民生活から強制排除される。38年、オーストリアにおいても同様の法律が成立した。第二次世界大戦以前の段階では、ドイツやオーストリアのユダヤ人は国外脱出もまだ可能で、およそ23万人がドイツ、10万人がオーストリアから出国したが、大戦勃発(ぼっぱつ)とともに、ユダヤ人の大量虐殺がポーランドなどから始まった。ヒトラーの指揮の下に「最終的解決」、すなわちユダヤ民族の絶滅計画が策定され、実施に移された。この政策は、42年1月にベルリン郊外のバンゼーで行われた会議で決定された。
初期の段階(1941年まで)は、ユダヤ人をゲットー(ユダヤ人居住地区)に隔離し、極度に劣悪な環境に閉じ込めて、飢えと病気で絶滅を強いた。次の段階になると、強制収容所をつくり、ヨーロッパ各地からそこにユダヤ人を貨物列車で大量移送し、消毒室と称されるガス室で毒ガス(チクロンB)を浴びさせ殺害したのち、死体を焼却炉で灰にした。殺人は冷酷かつ能率的であった。代表的な強制収容所は、ポーランドに集中し、アウシュウィッツ、トレブリンカ、マイダネクなどが有名。初期には健康なユダヤ人は強制労働に使役されたが、のちに彼らもガス室に送られた。43年には、ゲットーや収容所で反乱が起きたが、残酷に鎮圧された。ユダヤ人の逃亡者もいて、ヨーロッパ各国の善意の市民に匿(かくま)われたが、大部分の市民はドイツに協力し、ユダヤ人を見殺しにした。ドイツ敗戦が決定的になっても、45年4月に最後の強制収容所が連合軍に解放されるまで、虐殺は中止されなかった。
ホロコーストは、ユダヤ史上でも、また人類の歴史上でも前例のないもっとも残虐なできごとである。その背景には、長年ヨーロッパ社会に反ユダヤ主義による偏見と憎悪の伝統があり、ホロコーストを暗黙に容認したともいわれる。戦後、主要な責任者は厳罰に処され、犯罪者は国境を越えて徹底的に追跡された。たとえば、アルゼンチンにひそんでいたアドルフ・アイヒマンは、イスラエル秘密情報機関に誘拐され(1961年)、イスラエルで裁判に掛けられた。
また、ホロコーストの実情は体験者による記録文学で世界中に知られている。たとえば、心理学者V・フランクルによる『夜と霧』、ノーベル文学賞作家エリー・ビーゼルの作品群、アンネ・フランクの『アンネの日記』などである。ホロコーストを世界に知らしめたのは、記録文学だけではない。イスラエルのエルサレムにはホロコーストの博物館「ヤッド・バシェム」があり、虐殺の実情を生々しく訴えている。同博物館には虐殺の記録のほか、ユダヤ人を救った人々の記念の植樹もある。日本人では杉原千畝(すぎはらちうね)が名前を連ねている。杉原はユダヤ人難民にビザを発給し続けたことで知られている。
[河合一充]
『ヴィクトール・エミール・フランクル著、霜山徳爾訳『夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録』(1985・みすず書房)』▽『アンネ・フランク著、深町真理子訳『アンネの日記』(1994・文芸春秋)』▽『マイケル・ベーレンバウム著、石川順子・高橋宏訳『ホロコースト全史』(1996・創元社)』▽『渡辺和行著『ホロコーストのフランス――歴史と記憶』(1998・人文書院)』
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出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報
ナチス・ドイツによるユダヤ人の大量殺戮(さつりく)をさし,ナチス側の用語では「最終解決」である。原義はユダヤ教神殿への焼いた羊などの供物のことで,1978年に放映されたナチ時代のユダヤ人家族の運命を扱ったアメリカの同名テレビ番組からこの言葉が広まった。ホロコーストはナチス,特にヒトラーの反ユダヤ主義思想の直接的帰結であるとする解釈もあるが,現在ではナチスの反ユダヤ政策の行き詰まり,第二次世界大戦の推移,占領地行政当局の意向など複合的要因の集積の結果とする見解が有力である。ホロコーストはアウシュヴィツなどの絶滅収容所での「工場式」殺害のイメージと結びついているが,600万人といわれる犠牲者の半数近くは銃殺などの「伝統的」方法で殺害された。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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… イギリスのアラブ側に対する約束にもかかわらず,パレスティナは第1次大戦後イギリスの委任統治下に置かれ,しかも国際連盟とイギリスとの委任統治協定にはバルフォア宣言の趣旨が盛り込まれてユダヤ人のパレスティナ移住と建国への基礎固めが着々と進められることになった。とくに第2次世界大戦中,ナチス・ドイツによるユダヤ人の大量虐殺(ホロコースト)が行われたことは,ユダヤ人に対する世界的同情を呼び,ユダヤ国家の樹立を促進させる結果を生んだ。しかし,ユダヤ人のパレスティナ移住が増大するにつれてアラブ・ナショナリズムとの対立が激しくなり,パレスティナでは1920年代後半以降,ユダヤ人とアラブとの衝突事件がしばしば繰り返された。…
…いずれにせよ,1933年に50万弱を数えたドイツの〈ユダヤ人〉の大多数をはじめ,ヨーロッパ全域で510万人から650万人と推定される人びとが殺害された。このホロコーストholocaustが,単にナチスの非人道性,戦争下の狂気などに帰せられるべきものではなく,ヨーロッパがその胎内から生み出したユダヤ教徒,そして〈ユダヤ人〉に対する対応のひとつの帰路であったと言えるであろう。ただし,こう言うことは,それが必然的・不可避的な帰結であったと考えることではないし,またいかなる意味でもナチスとその支持者の免罪を意味するものでもない。…
※「ホロコースト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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