ドイツ,ドレスデンに近いマイセンの地で焼成される磁器。ヨーロッパでは,18世紀初めまで軟磁しか存在せず,中国から清代初期以降盛んに輸出された五彩磁器や日本の伊万里焼(有田焼)の模倣を行っていた。東洋の磁器の収集家で知られるザクセンのアウグスト2世はJ.F.ベットガーに命じて,1709年ヨーロッパで最初の硬質磁器焼成を成功させた。翌年王はマイセンのアルブレヒト城内に王立マイセン磁器製作所を創設,ベットガーのもとで朱泥手の炻器(せつき)の生産を始め,3年後にはカオリンを用いて白磁器を焼成した。ベットガーの死後,20年に絵師ヘロルト,31年ころ陶彫家ケンドラーを工房に迎え入れたことにより,マイセン磁器工房は最初の黄金時代を築いた。ヘロルトは白地を生かしてシノアズリーや伊万里風の〈柿右衛門手〉,後には西洋的な風景を多彩な色を用い細密画のような繊細な絵付を特徴とした。またケンドラーは熊,ヤギ,クジャク,ペリカンなどの1mに及ぶ白磁の大彫像を制作,さらに40年代からはイタリア喜劇役者を主題とした一連の小彫像を制作して磁器の造形性を発展させた。このようなマイセン磁器の絵皿やテーブル・ウェア,置物はロココ時代の典雅な趣味に受け入れられて花開き,ヨーロッパ各地に輸出された。マイセン窯は七年戦争(1756-63)やアウグスト2世の死去などにより一時衰退する。64年ドレスデン美術アカデミーの校長ウィルヘルム・ディートリヒを迎えたが,このアカデミー期(1764-74)の様式は概して前代の踏襲にすぎなかった。その後マイセンはカミロ・フォン・マルコリーニ伯を総監督に任命して工場の再建を図った。このマルコリーニ期(1774-1815)にはグルーズ風の感傷的な人物や風景,あるいはセーブル窯の影響を受けた新古典主義的な作品が製作された。1864年工場をアルブレヒト城からトリービッシュタールに移し,以後最盛期の様式を踏襲しながら今日に至るまでヨーロッパ第一の磁器窯として高級磁器を製作している。
執筆者:前田 正明
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ドイツのマイセンで焼成されたヨーロッパで最初の硬質磁器。1709年ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世(強健王)のもとでベットガーJohann Friedrich Böttger(1682―1719)が硬質(真性)磁器の焼成に成功し、翌年マイセンのアルブレヒトブルク城内に王立磁器製作所が開設された。マイセンでは開窯当初は主として朱泥手の炻器(せっき)を焼成していたが、1713年以降は中国の白磁、染付(そめつけ)、日本の柿右衛門(かきえもん)写しの色絵磁器を模倣した磁器が製作された。この初期にマイセンで活躍したもっとも著名な作家は絵付師でシノワズリーの名手ヘロルトJohann Gregor Herolt(1696―1775)と磁器彫像のケンドラーの2人で、彼らによってマイセンは最初の黄金時代を迎えた。
しかし、その秘法もやがてウィーン、ミュンヘン、ベルリンへ流出し、ヨーロッパは18世紀中ごろより陶器から磁器の時代に移行した。マイセンは東洋磁器の熱烈なコレクターであった強健王の死去とともにしだいに衰退の兆しを示し、加えてヨーロッパの宮廷趣味は当時フランスのロココ様式の洗礼を受け、マイセンでもその模倣に追従した。しかし、18世紀末から19世紀初めにかけてマルコリーニ伯が工場を受け継いでから活気を取り戻し、ヨーロッパ第一を誇る名窯としての今日的繁栄に導いた。
マイセン磁器製作所では開窯当初の1720年代ごろまでは中国・日本の磁器を模した作品が焼成されたが、以後はしだいにヨーロッパ的な器形や装飾のものが主流となり、2200点に及ぶケンドラーの「白鳥のディナー・セット」はマイセンの名器のなかでももっとも著名な作品である。ちなみに、英語のザクセン・チャイナ、ドレスデン・チャイナはこのマイセン磁器をいう。
[前田正明]
『オクタゴン編『陶芸の美2 マイセン(東ドイツ)』(1984・京都書院)』
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