改訂新版 世界大百科事典 「ミヤオ族」の意味・わかりやすい解説
ミヤオ(苗)族 (ミヤオぞく)
Miáo zú
中国の西南部,およびベトナム,タイ,ラオスなどに居住する種族。中国では少数民族の一つにかぞえられる。ミャオ族,メオ族とも呼ばれる。ミヤオ族の分布範囲は,清末の厳如煜(げんじよいく)編《苗防備覧》の苗疆(びようきよう)全図によれば,今日の沅江(げんこう)(湖南省)以西,酉水(ゆうすい)以南,辰水以北および湘(湖南省)・黔(けん)(貴州省)交界以東の地域に広がりを見せ,その地の北部・東部・南部3面は河川でかこまれ,西面は高山に覆われて一つの自然的環境が形成されているという。すなわち,その原郷である今日の湖南省の湘西トゥチャ(土家)族ミヤオ族自治州(ミヤオ族人口約76万)をはじめとして,貴州,四川,雲南,広西チワン(壮)族自治区など周辺諸省に分布し,さらにベトナム高地山岳地帯,ラオス,タイ,および雲南・タイ・ミャンマー国境周域にまで移住している種族集団ethnic groupをさしてミヤオ族という。近年の人口統計によれば,中国在住のミヤオ族は738万余にのぼり(1990),この他ベトナムに約40万人(1986),タイに4万3000人(1979),ラオスに約30万人(1968)居住しているものと推定される。中国の史書の中には南方に住む種々の種族に対する汎称としてしばしば〈苗〉と呼んでいるものも多いが,このような広義に用いられているミヤオ族とは別に,狭義の〈純苗〉とみなされているミヤオ族があり,その自称は通常モンmuŋ(またはムンHmung,モンHmong)として知られ,〈人〉または〈人間〉を意味するという。これまで〈純苗〉と考えられるものに貴州省における紅苗・黒苗・白苗・青苗・花苗の5種の〈苗〉があげられるが,彼らはまたそれぞれ独自の名称をもっており,黒苗はモン・ローHmong-tlo,花苗はモン・ドウHmong-dou,白苗はモン・ベアHmong-bea,などと称している。鳥居竜蔵の《苗族調査報告》によれば,青岩の花苗や安順近辺のミヤオはそれぞれムーmuまたはムンmúnと称しているといわれる。なお筆者が調査した西北タイのビエンパパオの白苗村およびチエンマイ州ホッド地方に住む黒苗村の場合では,彼らの間では,ただモン・ドゥHmong Doew(またはH'moong Doew)とモン・デュアHmong Dyuaの2種のミヤオしか知られていない。モン・ドゥとはミヤオ語で〈白いミヤオ〉,モン・デュアとは〈青いミヤオ〉を意味するということであった。
ミヤオ族の起源またはその歴史についてはまだ明らかにされていない問題が多いが,すでに早くは《湘西苗族調査報告》(1947)にものべられているように,ミヤオ族の歴史は古くは三苗の名称をもって《書経(尚書)》の〈益稷〉あるいは〈舜典〉,または《左氏伝》,《国語》楚語,《戦国策》の秦策と魏策,《山海経》海外南経等に現れてくる。《戦国策》魏策の記載によれば,古代三苗の居住地は左は洞庭(湖南省),右は彭蠡(ほうれい)(江西省)の地とされる。上記諸文献に見える三苗が今日のミヤオ族とどのような関係があるかはまだ明らかにされておらず,これまでの学者には両者の関係を否定する人も多い。しかしそれが必ずしも無関係であると断定するだけの確実な論拠も示されてはいない。事実,史上に現れるミヤオ族の記載には上述のほか《後漢書》西羌(せいきよう)伝に見える〈三苗〉,唐代樊綽(はんしやく)撰《蛮書》などに見える黔,涇,巴,夏四邑苗衆の例,南北朝時代の《梁書》武陵王伝に見える〈武陵王自九黎侵軼,三苗寇擾〉などの例がある。さらにミヤオの名称は宋代の朱輔撰《渓蛮叢笑(けいばんそうしよう)》,または《元史》世祖本紀などに〈猫〉または〈貓〉として現れる。明代には,《明実録》や《明史》土司伝に土司上官あるいは反賊の頭目としてミヤオ族の動向が多く記述されている。明・清時代のミヤオに関する文献,たとえば《苗防備覧》《黔苗(けんびよう)図説》《皇清職貢図》《黔南職方紀》《黔書》などを見ると,前記のように純苗といわれている5種のミヤオ族集団の間でも,それぞれ衣装や文様を異にするばかりでなく,その民族性,風俗慣習をはじめ方言や生業,形態,生活様式なども趣を異にしていることがわかり,白苗と黒苗との間には通婚も行われていないという報告もある。《黔書》上巻の白苗,青苗についての記述を見ると白苗は性格が温和で勤勉,従順な民で,農耕にも従事しているのに対し,青苗は性強悍にして戦いを好み山苗,高坡(こうは)苗,黄洞苗などと呼ばれ,主として丘陵地帯に住む焼畑耕作民で,その性格もシナ・チベット語族チベット・ビルマ語派系の民族であるイ(彝)族に似ているという。このように等しく苗と呼ばれていても白苗と青苗との間にはその様相を大いに異にするものがあり,同様なことは紅苗,花苗,黒苗についても指摘しうるものと考えられる。すなわち苗とは厳密に分析すればいくつかの系統属種を異にする複合的種族集団であるということができる。
それならば彼らがなぜ苗という名称によって統合されているのであろうか。今日のミヤオ族集団が往昔より漢民族からなぜ苗という名称で呼ばれるにいたったかという歴史的原因を突き止めることは容易ではない。しかし彼らはみずからを〈モン〉などと称しており,したがって,もし苗と称されるものを一個の種族集団と考えるならば,みずから〈モン〉と称して種族の連合を保っている結合集団について,本末にわたり,その系譜をたずねてみる必要がある。華南ではしばしば種族の名称の起源が同族出自の大首領の姓に由来する場合がある。例えば羅羅族(イ族の旧称)の名が廬鹿(ろろく)氏に,爨蛮(さんばん)の名が爨氏に,儂(ヌン)族の名が儂氏に出ていることを考慮すれば,華南の大族苗族の名称も必ずかつてその地に大勢力を有して周辺諸種族をも従属させた苗を姓とする大首領がいたに相違ない。このような想定に立って筆者は数度にわたり,苗族の集結する湖南の地に苗を姓とする大族がいるか否か調査を行ったところ,はたして今日の湖南の地には苗を姓とする大族のいることを確かめることができた。また,貴州省凱里の青苗を探訪してこの青苗にはイ族をはじめ通常チベット・ビルマ語系諸族の命名に現れる父子連名制のあることを採録できた。例えば〈燕宝-宝熊-熊史-史略〉〈銀海湖-海湖你-湖你急-你急冬……〉のごとく父子連名制の存在が青苗の中に発見できたのである。このことは,ミヤオ族の中にイ族によって代表されるチベット・ビルマ語系諸族との文化史的関連を指摘しうる重要な例証である。そして白苗の中には上記のごとき父子連名制は見いだされなかった。このイ族の民族系譜はまた広義のチャン(羌)族に関係するものであり,ミヤオ族集団を構成する主要民族の中にイ族やチャン族に系統をたぐれるものがあるということを今後いっそう研究していく必要があると思われる。現にこれまでミヤオ族の言語の系統について,あるいはモン・クメール語族,タイ諸語またはチベット・ビルマ語派,あるいは独立語であるという説もあって,そこに今日のミヤオ語の方言上の多様性を見いだすことができるし,現に青苗,黒苗の人々に白苗の方言は聞き取れないという事実が筆者自身の調査で確かめられたのである。ミヤオ族と汎称されている種族集団は,種族的にも言語学的にも複合的種族集団であるということができよう。
執筆者:白鳥 芳郎
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