1920年代に古典バレエに抗して生まれた芸術舞踊。ドイツにまず発生し、ついでアメリカ、日本で盛んになった。20世紀初めアメリカ出身のI・ダンカンが、当時唯一の芸術舞踊であったバレエに反発し、トーシューズを履かずはだしで、自由な動きができるゆったりした衣装で、体系化されたバレエのステップを使わずに踊った。その影響を受けた新しい傾向の舞踊はドイツでノイエ・タンツNeue-Tanz(新しい舞踊)といわれた。その後、アメリカのモダン・ダンス、ドイツのモデルヌ・タンツ、日本のモダン・ダンス、新舞踊、創作舞踊などが生まれた。
なお、モダン・ダンスということばは、ポスト・モダン・ダンスなども含めた現代の前衛舞踊全体をさす広義の場合と、1920年代から1960年代までの、今日からみればスタイルの完成された、ある特定の舞踊をさす狭義の場合とがあり、人によって異なる使い方がされている。
[市川 雅・國吉和子]
1920年代のドイツのノイエ・タンツを代表するのは、R・V・ラバンとM・ウィグマンであった。彼らは人間の内面を表現する舞踊を指向したが、ラバンは群舞に非凡な力を発揮し、ウィグマンは『魔女の踊り』『墓標』など、第一次世界大戦後のドイツ人の死や絶望に傾く感情を舞踊によって表現した。キャバレーを中心に活躍したV・ゲルトは大胆な構成でウィグマン以上といわれ、パルッカGret Palucca(1902―1993)は天才的なダンサーといわれた。G・ワイトはコミュニスト・ダンサーとして社会批判的な作品を上演し、K・ヨースもまた代表作『緑のテーブル』にみられるように戦争を批判する作品をつくっている。そのほか第二次世界大戦後バレエに転向したY・ゲオルゲ、来日したことのあるH・クロイツベルクなど多くの優れたダンサーがいた。この時代のドイツ新舞踊を総称して、表現主義舞踊Ausdruckstanzともいう。
1930年代の終わりに彼らの舞踊は、ヒトラーによって退廃芸術といわれ、公演活動が困難になり急速に衰退した。第二次世界大戦後、ドイツ・モデルヌ・タンツは絶滅したかにみえたが、ヨースが1949年エッセンのフォルクワング芸術学校に復帰し、その教え子のなかから1970年代になってP・バウシュ、ホフマンReinhild Hoffmann(1943― )、リンケSusanne Linke(1944― )など、タンツ・テアターとよばれる新しい傾向の舞踊が出現してきた。
バウシュ以降、1990年代からはW・ゴロンカ、U・ディートリヒ、D・ゴールディン、H・ホルンなど、フォルクワング出身者のほか、S・ワルツ、S・トス、I・フェンフハウゼン、S・ゲラバートらが活躍した。都市の市立劇場に所属しながら新しい作品を発表する作家のほかに、フリーの小グループが林立している。作風はさまざまで、一括することはできないが、いずれも振付けを重視し、日常的なささいな動きも含めて、動きが生まれる根拠を探求する傾向が特徴的である。
[市川 雅・國吉和子]
R・セント・デニスとT・ショーンのエキゾチシズムを強調した舞踊団から、M・グレアム、D・ハンフリーが1920年代の終わりごろ独立し、自身のダンス・コンサートを開いた。グレアムは現代の人々の苦悩や恐怖を舞踊によって表現しようとし、ギリシア悲劇を題材とした『クリタイムネストラ』やオイディプス王に取材した『夜の旅』などを上演、クリタイムネストラの嫉妬(しっと)やオイディプスの母親の苦悩などに焦点をあわせ、グレアム・メソッドによる身体表現を使ってみごとに感情の表出に成功した。グレアム・メソッドは、絶望と歓喜に対応する「コントラクション&リリース」(緊張と解放)という技法や、逡巡(しゅんじゅん)を示す螺旋(らせん)状の動きなどによってできている。
グレアム以後、表現主義的、心理主義的なモダン・ダンスに反対するM・カニンガム、A・ニコライなどが抽象的な作品を発表し、アメリカのモダン・ダンスのもう一つの流れをつくった。とくにカニンガムはポスト・モダン・ダンスの興隆に大きな影響を与え、L・チャイルズ、レイナーYvonne Rainer(1934― )、フォルティSimone Forti(1935― )、ブラウンTrisha Brown(1936―2017)などのミニマルな空間を志向するダンサーを生んだ。ポスト・モダン・ダンスの特徴は、劇的なドラマツルギーをもたないこと、時間的にも空間的にも平板であることだが、サープTwyla Tharp(1941― )、ディーンLaura Dean(1945― )、K・アーミタージュなどはこうした性質にスピードとタイミングのよさを付け加えている。そのほか重要な振付家として、軽妙な作風のP・テーラー、黒人舞踊を芸術に高めたA・エイリーの名前も落とすことができない。
1970年代末から1980年代にかけて、ポスト・モダン・ダンスが一応の成果をあげたころ、アメリカ、とくにニューヨークの舞踊状況が財政的に厳しい時代を迎えたことも原因して、ダンスの中心はヨーロッパに移った。1975年にカールソンCarolyn Carlson(1943― )がパリ・オペラ座と契約し、現代舞踊研究グループを創設したことは、その後のフランスのヌーベル・ダンス興隆のきっかけといえるだろう。1990年代はカニンガムやブラウンのヨーロッパでの公演活動が続き、パクストンSteve Paxton(1939―2024)が1970年代に考案したコンタクト・インプロビゼーション・テクニックもまた、ヨーロッパの新しいダンスに大きな影響を与えた。この技術は、重力や弾みなど身体の動きを通して、ダンサーが互いに接触しあいながら身体的交感を深めていくことを目的としたものである。
[市川 雅・國吉和子]
モダン・ダンスということばは第二次世界大戦後、アメリカ文化センターを介して来日したアメリカのモダン・ダンサーからもたらされた。しかし、アメリカやヨーロッパのモダン・ダンスと同じような主張に基づいた新しい舞踊が、大正時代から日本でも石井漠(ばく)、高田雅夫(まさお)(1895―1929)、高田せい子らによって上演され、創作舞踊といわれた。日本舞踊の分野では、藤蔭(ふじかげ)静枝(藤蔭静樹(せいじゅ))、五條珠実(ごじょうたまみ)などによる新舞踊の運動が大正から昭和初期にかけておこったが、これも広義には歌舞伎(かぶき)舞踊を基本にしたモダン・ダンス(近代舞踊)といえよう。また、昭和の初期には江口隆哉(たかや)、宮操子(みさこ)(1907―2009)、邦正美(くにまさみ)(1908―2007)、執行正俊(しぎょうまさとし)(1908―1989)、津田信敏(のぶとし)(1910―1984)らがドイツに留学し、帰国後それぞれ独自な作品を発表して後進を育てた。とくにベルリンで一時ウィグマンに師事した江口、宮が移入したドイツの表現的舞踊は、その後の日本のモダン・ダンスに大きな影響を与えた。
第二次世界大戦後、自由主義的な空気のなかでモダン・ダンスの活動は活発になされた。1948年(昭和23)に日本芸術舞踊家協会がモダン・ダンサーを中心に組織され、1956年に全日本芸術舞踊協会となり、現在の現代舞踊協会(1971年結成)の前身となった。その後は藤井公(こう)(1928―2008)、折田克子(かつこ)(1937―2018)、庄司裕(しょうじひろし)(1928―2008)、正田千鶴(しょうだちづ)(1930― )、西田尭(たかし)(1926―2014)など表現的な傾向の強いモダン・ダンスと、アメリカのポスト・モダン・ダンスの影響を受けている厚木凡人(あつぎぼんじん)(1936―2023)、石井かほる(1932― )、加藤みや子、菊地純子(1948― )、江原朋子(ともこ)(1946― )らが活躍している。1997年(平成9)に新国立劇場が開場して以来、一般の観客の目に触れる機会が多くなり、新たな展開が待たれている。
[市川 雅・國吉和子]
『市川雅著『アメリカン・ダンス・ナウ』(1975・パルコ出版)』▽『ジョン・マーチン著、小倉重夫訳『舞踊入門』(1980・大修館書店)』▽『西宮安一郎編『モダンダンス 江口隆哉と芸術年代史』(1989・東京新聞出版局)』▽『市川雅著『ダンスの20世紀』(1995・新書館)』▽『海野弘著『モダンダンスの歴史』(1999・新書館)』▽『外山紀久子著『帰宅しない放蕩娘――アメリカ舞踊におけるモダニズム・ポストモダニズム』(1999・勁草書房)』▽『片岡康子編著『20世紀舞踊の作家と作品世界』(1999・遊戯社)』▽『ダンスマガジン編『ダンス・ハンドブック』改訂新版(1999・新書館)』▽『シンシア・J・ノヴァック著、菊池淳子他訳『コンタクト・インプロヴィゼーション――交感する身体』(2000・フィルムアート社)』▽『市川雅著、國吉和子編『見ることの距離――ダンスの軌跡1962~1996』(2000・新書館)』▽『邦正美著『舞踊の文化史』(岩波新書)』
古典的なバレエ技法(ダンス・クラシック)に反発し,まったく新しい考え方に基づいて生まれたダンスの一様式。I.ダンカンを祖とし,1920年代のドイツで確立され,その後アメリカで発達をみた。〈モダン・ダンス〉という言葉は33年にアメリカの評論家マーティンJohn Martinが,ダンカンのフリー・ダンスfree dance(ニュー・ダンスともいう),ドイツのM.ウィグマンらのノイエ・タンツNeue-Tanz(のちにモデルネ・タンツといわれた)やアメリカのM.グラームらのダンスを総称し定義づけたことに由来がある。しかし,その後の発展にともない,現在欧米では〈コンテンポラリー・ダンスcontemporary dance〉,日本では〈現代舞踊〉の名称で呼ぶことが多くなっている。
ダンカンは,幼児期から学んだ古典的なバレエ技法に満足せず,ダンス・クラシックの形式やパ(ステップ)を無視して自然で自由な表現により〈人間〉を賛美する踊りを創造した。薄いギリシア風のチュニックを身にまとい,音楽により触発される肉体のおもむくままを素足で踊った。バッハ,ベートーベンなどの交響楽曲を多く用いた最初の踊り手でもある。彼女は,1899年シカゴでデビューするが,失敗に終わり,その後ヨーロッパに渡り,パリやベルリンで称賛を受ける。1905年にはロシアを訪れ,フォーキンやパブロワにも影響を与えたといわれる。しかし,各地に学校をつくったにもかかわらず,そこからダンカンを継承するすぐれた舞踊家を生むことはできなかった。
ドイツにノイエ・タンツが生まれるのは1920年代に入ってからだが,それに先行するものとして,1905年にI.ダンカンがベルリンに開いた学校や11年にÉ.ジャック・ダルクローズがドレスデン郊外ヘレラウに開いたリトミックの学校がある。ウィグマンはノイエ・タンツの祖といわれるが,最初リトミックを学び,のちR.vonラバンに師事した。14年のデビュー作《魔女の踊り》にみるように,仮面をつけ,ゴングや太鼓,シンバルなど打楽器のみの伴奏による東洋的な表現に新しい境地を開いた。20年にはドレスデンに舞踊学校を開き,ここはドイツのノイエ・タンツの中心になった。30年の《トーテンマール》はその代表作。このテーマは戦争による死者の霊を慰めるものだが,こうした主題がバレエに採り上げられること自体が新しく,さらに打楽器,ピアノなどにコーラスを加えた伴奏,出演者も歌いかつ踊るという形式は画期的であった。またラバン門下のK.ヨースは32年に《緑のテーブル》で反戦的な色彩の濃い作品をつくった。ウィグマン門下のクロイツベルクHarald Kreutzberg(1902-68)は31年にベルリン国立歌劇場で《惑星》(ホルスト作曲)を振り付け,みずからも出演した。しかしナチスの時代になるとウィグマンの学校は閉鎖され,多くの舞踊家も四散し,ノイエ・タンツは一時死滅した感があった。
アメリカにおいて最初にモダン・ダンスの火をつけたのはR.セント・デニスであった。彼女はインドなどの東洋の踊りに自然な踊りの源を求めた。1906年の《ラダ》の発表後,ヨーロッパで活躍し,09年アメリカに戻りT.ショーンと結婚。ともに15年デニショーン舞踊学校を創立し,ここではフランスの音楽教育家デルサルトFrançois Delsarte(1811-71)のジェスチャー(身振り)を重視する理論を根底にした舞踊教育を行った。この門下からグラーム,D.ハンフリー,ウェードマンCharles Weidman(1901-75)ら今日のアメリカのモダン・ダンスを形成する先覚者たちを生んだ。とくにグラームはその後最も大きな影響力をもった。彼女はデニショーンを離れ,1930年代に入るとしだいにその独創性をあらわし,舞踊テクニックの体系化をはかり,創作の上では内面の情感を鮮明にあらわすフォームをみせた。そこではもはや愛や喜びや美しさだけが創作の対象になるのではなく,憎しみや苦悩,醜いものも重要なテーマとして踊られねばならなかった。そのためには新しい動きの開発が必要となり,グラームはコントラクション(収縮)とリリース(解放)の技法を生み出し,それをマーサ・テクニックの基本にした。作品には黒人や東洋人ダンサーを多く登場させ,アキコ・カンダ,浅川高子ら日本人も活躍している。その門下からはM.カニンガム,P.テーラーを生んだ。そのほかニコライAlwin Nikolais(1912-93),A.エイリーらがアメリカのモダン・ダンスをリードする形で活動している。
アメリカではニューヨークを中心にポスト・モダン・ダンスの活動が1950年代から始まったが,ハルプリンAnn Halprin(1920- )は,ダンス・ハプニングの開拓者の一人である。ヨーロッパでもヨースに学んだバウシュPina Bausch(1940-2009)がアメリカで学んだ後73年からブッパータール舞踊団で活躍し,実験的な作品を発表している。日本のモダン・ダンスはウィグマンの影響から始まり,グラームやさらに新しいアメリカから多くを吸収している。
執筆者:桜井 勤
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(鈴木晶 舞踊評論家 / 2007年)
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報
…サンフランシスコに生まれる。クラシック・バレエのがっちりと組み立てられた体系に反旗をひるがえし,モダン・ダンスというジャンルが誕生するきっかけを作った。彼女は〈自然に帰れ〉をモットーとし,バレエのタイツや靴を用いず古代ギリシアのゆるやかなチュニック(貫衣)をまとい,感情のおもむくままに肉体を動かした。…
…それゆえクラシック・ダンスをそのままバレエといっても,さして不都合でなかったわけである。しかし20世紀前半から,とくに第2次世界大戦後は,バレエで踊られるダンスがクラシック・ダンスに限らず,クラシック・ダンスに対立するモダン・ダンスをも含むようになったので,バレエを必ずクラシック・ダンスによって踊られるものと考えることは不可能になった。要するに現在ではバレエに使われるダンスはどんなものであってもかまわないので,劇場的なもの,演劇的なダンスであるなら,すべてがバレエである。…
※「モダンダンス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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