モネ(読み)もね(英語表記)Claude Monet

日本大百科全書(ニッポニカ) 「モネ」の意味・わかりやすい解説

モネ(Claude Monet)
もね
Claude Monet
(1840―1926)

フランス印象派の代表的な画家。11月14日パリに生まれる。5歳のころ一家はル・アーブルに移住し、彼はこのセーヌ河口の港町で少年時代を過ごす。初め町の名士たちを描いたカリカチュアで評判を得たが、風景画家ブーダンと出会い、決定的な影響を受ける。モネはブーダンから油絵を学ぶとともに、戸外で風景や海景を描くよう促され、以来、風景画が彼の第一の関心事となる。1859年にパリに出、1862~1864年シャルル・グレールCharles Gleyre(1806―1874)のアトリエに通う。ここでバジールJean Frédéric Bazille(1841―1870)、シスレールノワールといった後の印象派の画家たちと知り合い、4人はときおりフォンテンブローの森で制作をともにした。また1862年にはル・アーブルの近くでオランダの風景画家ヨンキントと出会い、水や大気や光の描写に関して大いに感化を受けた。1865年のサロンに2点の海景画が入選、翌1866年のサロンでも2点の作品が入選する。彼はまたこの時期、戸外に人物を配した構成にも関心を抱き、大作『庭の女たち』を直接戸外で仕上げようとさえした。この作品は1867年のサロンに落選の憂き目をみる。モネはますます光の効果や水の反映に敏感になり、色調も1860年代末にはいっそう明るさを増した。1870年プロイセン・フランス戦争が勃発(ぼっぱつ)すると難を避けてロンドンに渡り、同じくこの地にきていたドービニーを介して画商デュラン・リュエルPaul Durand-Ruer(1831―1922)を知る。

 1871年末、フランスに戻ったモネは、パリ郊外のセーヌ河畔の行楽地アルジャントゥイユに居を構え、いまだ田舎(いなか)じみた様相をとどめると同時にしだいに近代化・工業化の波に洗われつつあったこの地のさまざまな情景を、自発性に富んだ筆致と光に満ちた色彩で描き、印象派の一つの典型的なありようを示した。彼は自然を変化する相のもとに記録しようと、あるときはアトリエ仕立ての舟をセーヌに浮かべて描くこともあった。1874年にはピサロらとともにサロンに対抗して独立のグループ展(いわゆる印象派展)を組織し、そこに出品した作品の一つ『印象―日の出』から印象派なる呼称が生まれた。彼は続く4回のグループ展に作品を送るが、残る3回の印象派展には出品を見合わせている。1878年の初頭までアルジャントゥイユにとどまったモネは、同年セーヌを下ってベトゥイユに移り住み(1878~1883)、1883年にはさらに下ってジベルニーに居を構え、ここが彼の終焉(しゅうえん)の地となる。

 1880年代、モネはノルマンディーや地中海沿岸、中部フランスやブルターニュベリール島など各地を盛んに旅行し、劇的な構図を好んで描いた。またこの時期から経済的安定を得、成功への道を歩むようになる。1890年代に入ると頻繁に旅行することはやめ、同一のモチーフを扱いながら時間の推移につれて描き分ける連作に取り組み、「積み藁(わら)」(1890~1891)、「ポプラ並木」(1891)、「ルーアン大聖堂」(1892~1894)のシリーズが生まれた。また1893年にはジベルニーに睡蓮(すいれん)の池を造成し、1895年ごろから「睡蓮」の連作を開始する。モネはつねに自然を前に、その移ろいゆく瞬間の様相をとらえようとした。しかし、彼の後期の作品では、現場のみならずアトリエでの制作もしだいにその重要度を増してゆく。彼はすばやく容易に達成できるものにもはや満足せず、自らの意図する瞬間の効果を求めて幾度となく絵に立ち戻り、アトリエでその仕上げを行った。また連作では個々の作品の相互の関係がアトリエで調整され、全体が一つの統一あるものに仕立て上げられる。最晩年、友人で政治家のクレマンソーの勧めで睡蓮の大装飾画に着手し、それはやがて国家に寄贈され、パリのオランジュリー美術館に設置された。1926年12月5日没。ジベルニーの家と庭園は1980年からモネ記念館として、春から秋に公開されている。

[大森達次]

『黒江光彦編『現代世界美術全集2 モネ』(1970・集英社)』『G・ジェフロワ著、黒江光彦抄訳『クロード・モネ――印象派の歩み』(1974・東京美術)』『木島俊介編『現代世界の美術1 モネ』(1985・集英社)』『W・ザイツ著、辻邦夫訳『モネ』(1994・美術出版社)』



モネ(Jean Monnet)
もね
Jean Monnet
(1888―1979)

フランスの経済テクノクラート。フランス南西部コニャック市の生まれ。酒造業者の子として早くから海外での売り込みに従事した経験を買われて、第一次世界大戦中のフランスの海外物資買付けを担当して活躍した。戦後は国際連盟事務局次長(1919~1923)を務めたほか、多くの国際機関に経済専門家として参加した。第二次世界大戦に際してはふたたび英仏のため軍需物資買付けに奔走する一方、ドゴールの国民解放委員会に参加し連合国間でのドゴールの地位向上に寄与した。大戦後は「モネ計画」ともよばれたフランス経済近代化計画の立案と実施に貢献した(1947~1953)ばかりでなく、ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体創設を目ざして1950年に発表された「シューマン計画」の立案にも参画し、共同体の初代議長(1952~1955)を務めた。ロベール・シューマン仏外相と並んでヨーロッパ統合の最大の功労者。著書に『回想録』(1976)がある。

[平瀬徹也]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「モネ」の意味・わかりやすい解説

モネ
Monnet, Jean

[生]1888.11.9. フランス,シャラント,コニャック
[没]1979.3.16. フランス,パリ西郊モンフォールラモリ
フランスの財界人,政治家。コニャック酒取引商の子として生れ,第1次世界大戦中,連合国海運委員会のフランス代表。 1919~23年国際連盟の事務局次長としてオーストリア経済復興計画の実施にあたった。第2次世界大戦が始るとイギリス,フランス間の経済問題調整委員会議長に就任。フランスの降伏後は自由フランス運動に参加,戦時物資購入のためイギリス政府からワシントン D.C.に派遣され,F.ルーズベルト大統領の「勝利計画」の作成に参加。 43年アルジェで国民解放フランス委員会 CFLNに参加。戦後はフランスの近代化委員会長官としてモネ・プランを提案,フランス経済の復興に努力。 50年シューマン・プランの作成に決定的な役割を果し,ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体 ECSCの設立に寄与し,52~55年初代委員長。 55年ヨーロッパ合衆国行動委員会を結成,56~75年同会委員長。 58年ヨーロッパ原子力共同体 EURATOMの発足にも尽力,R.シューマンとともに「ヨーロッパ統合の父」といわれた。 76年ヨーロッパ共同体 EC首脳会議から,「ヨーロッパ名誉市民」の称号が贈られた。

モネ
Monet, Claude

[生]1840.11.14. パリ
[没]1926.12.5. ジベルニー
フランスの画家。父は食料品商。5歳のとき両親とともにルアーズ近郊サンタドレスに移住。幼少年時,同地の画家 E.ブーダンに風景画の手ほどきを受けた。 1859~60年パリのアカデミー・スイスでピサロとともに学ぶ。 60~62年アルジェリアで兵役を終えたのちパリに戻り,ルノアールシスレーらとフォンテンブローの森に居を構えた。普仏戦争当時はロンドンに逃れ,71~72年オランダに滞在。 74年パリで開かれた展覧会に『印象・日の出』など9点の作品を出品し,印象派形成の中心となる。その後も終生,自然の光の効果の描出に努めた。 83年以降ジベルニーに隠棲。 1922年白内障の手術を受ける。主要作品『積みわら』 (1891頃) ,『ポプラ』 (90~91) ,『ルーアンの大聖堂』 (94) および『睡蓮』の連作 (99以降) ,『テムズ河畔』 (99~1904) 。作品の多くはパリのオルセー美術館,マルモッタン美術館,オランジュリー美術館,日本では東京の国立西洋美術館などに収蔵されている。 (→印象主義 )  

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