モンドリアン

精選版 日本国語大辞典 「モンドリアン」の意味・読み・例文・類語

モンドリアン

(Piet Mondrian ピエト━) オランダ画家フォービスムキュビスムを経て抽象絵画創始。「デ‐スティールグループを結成し、純粋な幾何学的抽象美をめざす「新造形主義」を提唱、二〇世紀美術の流れに大きな影響を与えた。晩年はアメリカ移住。(一八七二‐一九四四

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デジタル大辞泉 「モンドリアン」の意味・読み・例文・類語

モンドリアン(Pieter Cornelis Mondriaan)

[1872~1944]オランダの画家。新造形主義を提唱し、水平線垂直線三原色無彩色により画面を構成した。ピエト=モンドリアン。

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百科事典マイペディア 「モンドリアン」の意味・わかりやすい解説

モンドリアン

オランダの画家。1912年以降はMondrianと署名。アメルスフォールト生れ。写実的な風景画から出発したが,神智学キュビスムの影響を受け,絵画における絶対性を追求して抽象へ進む。1917年デ・ステイル運動を興し,新造形主義理論を提唱。色彩も三原色と白黒あるいは灰色にほとんど限定し,直線と色面による純粋に幾何学的な秩序と比例の美を確立する。1940年の渡米後は,厳密な画面分割にリズム感を導入した《ブロードウェー・ブギウギ》(1943年)などの作品を生み出した。抽象芸術先駆者であり,デザインにも大きな影響を与えている。
→関連項目アプストラクシヨン・クレアシヨンクレーラー・ミュラー美術館ケルテスコールダーニコルソンニューヨーク近代美術館長谷川三郎ビルファン・ドゥースブルフラインハート

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「モンドリアン」の意味・わかりやすい解説

モンドリアン
もんどりあん
Piet Mondrian
(1872―1944)

オランダの画家。本名Pieter Cornelis M.。抽象絵画の創始者の一人で、新造形主義の主唱者。3月7日アメルスフォールトに生まれる。1892年アムステルダムの美術学校に入学し、かたわら敬虔(けいけん)なカルビニストの父親から精神的感化を受ける。初め印象主義、のちマチスの色彩に影響を受けたが、1911年パリでキュビスムに共鳴し、「樹(き)」の連作を始める。第一次世界大戦中故国でこの連作から抽象への探究を深め、15年水平、垂直の二線分による画面構成に達した。視覚を裏切らないこの二線分と、三原色および無彩色の配合とによって絵画からいっさいの再現的要素を追放し、生命力の根源を暗示する秩序と均衡を構成原理にしようとするのがその造形理論である。17年この理論(新造形主義)をもとにドースブルフらとデ・ステイルの運動をおこす。その単純明快な原理は抽象画の進展のみならず、建築、デザインの分野にも影響力をもった。19年パリに戻り、翌年理論書『新造形主義』を出版した。『赤、黄、青のコンポジション』(1921、デン・ハーグ市立美術館)はこの時代の代表作である。30年代にはさらに画面を単純化した『二つの線のコンポジション』(1931・アムステルダム国立美術館)を描く。38年ロンドン、40年ニューヨークに亡命。ここで従来の黒い線にかえて色面を細かく分節化したリズミカルな作品『ブロードウェー・ブギ・ウギ』(1942~43・ニューヨーク近代美術館)を描いた。44年2月1日ニューヨークで没。

[野村太郎]

『H・L・C・ヤッフェ解説、乾由明訳『モンドリアン』(1971・美術出版社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「モンドリアン」の意味・わかりやすい解説

モンドリアン
Pieter(Piet)Cornelis Mondriaan
生没年:1872-1944

オランダの抽象画家。1912年以降はMondrianと署名。アーメルスフォールト生れ。父と叔父から絵画を学び,いったん小学校の絵画教師となるが,画家になる夢を捨てきれず,アムステルダムに出て美術学校に入る。卒業後アムステルダム近郊の田園を描く風景画家として評価を受けたが,やがて不動のもの,絶対的なものの表現をめざすようになり,フランス近代絵画と神智学思想の影響を受けて,教会の正面や風車などの連作を描く。1912-14年パリで本格的にキュビスムを学んで帰国し,16年には神智学者で数学者のスフーンマーケルスM.H.J.Schoenmaekersの影響の下に無数の垂直,水平の短い線だけによって神智学的な精神状態を表現した抽象絵画《プラス・マイナスのコンポジション》に達する。18年以降,長い垂直線と水平線に囲まれた三原色の色面による独自の画風を確立したあと再びパリに出て,20年代には正方形の画面の中に大きな正方形を中心に配した画面分割の画風を,さらに30年代には色面よりも垂直,水平の直線に重点を置いた画面分割の画風を展開させる。ロンドンを経て,40年にニューヨークへ渡り,この線分にリズム感を付け加えた《ブロードウェー・ブギウギ》(1943)のような晩年の代表作を残した。彼の造形思想〈新造形主義Neoplasticisme〉は20年代以降《デ・ステイル》誌や著書《新しい造型》(1925)などを通じて,絵画はもちろん,現代の建築やデザインの世界にも大きな影響を与えた。
抽象芸術
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「モンドリアン」の意味・わかりやすい解説

モンドリアン
Mondrian, Piet

[生]1872.3.7. アメルスフォールト
[没]1944.2.1. ニューヨーク
オランダの画家。アムステルダムの美術学校で学び,初め伝統的な画風で風景画を描いたが,1908年頃からフォービスムのマチス,K.ドンゲンや,象徴主義の J.トーロプの影響を受け,11年末にパリに移住してからはキュビスムに興味をもち,線と面による独特の抽象的作風を確立した。この傾向はさらに強まり,14年オランダに帰国後は,対象をまったく除去し,多様な矩形の集合による美を追究した。 17年に T.ドースブルフらと「デ・ステイル」を結成,新造形主義を主唱した。 19年から再びパリに住み活躍したが,38年に戦火を逃れてロンドンに行き,39年ニューヨークに移住した。黒の水平線と垂直線と三原色で構成された彼の作品は,絵画のみならず建築,家具設計,商業美術などの各分野に影響を与えた。主要作品は『赤,黄,青によるコンポジション』 (1921,ハーグ市立美術館) ,『ブロードウェー・ブギウギ』 (42~43,ニューヨーク近代美術館) 。著書『新造形主義宣言』 (1920) はのちにバウハウス叢書の1巻として刊行された (25) 。

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世界大百科事典(旧版)内のモンドリアンの言及

【オランダ美術】より

…明快な合理性に支配されたこの建築はゼイルLambertus Zijl(1866‐1947)の彫刻によっても名高い。20世紀美術は本質的に国境のない美術であり,オランダにおいても各国の影響の下にさまざまな傾向の流派が成立したが,なかではオランダ的美意識と普遍性の稀有の結合とも評すべき純粋幾何学的抽象絵画を創始したモンドリアン,およびその同僚ファン・ドゥースブルフら〈デ・ステイル〉グループの意義が際だって大きい。同グループのリートフェルトやアウトはベルラーヘの路線を継いで機能主義建築を発展させた。…

【木】より

…シュルレアリストのエルンストは森の連作を描いたが,これはロマン派と中世神秘主義を継承したもので,文明に冒されぬ人間精神の根源を象徴する。モンドリアンも木の連作によって,木のもつ宇宙的シンボリズムを水平と垂直のバランスのうちに抽象化した。クレーとカンディンスキーはいずれも木を芸術創造のプロセスにたとえ,ブランクーシは《無限の柱》によって原初の宇宙軸を再現している。…

【デ・ステイル】より

…20世紀初めオランダに興った抽象美術運動。ファン・ドゥースブルフモンドリアンの絵画と造形思想に共鳴し,彼とともに〈新造形主義Neoplasticisme〉を成立させ,この思想を広めるために雑誌の発行(1917‐28)を中心とした新しい造形運動をライデンで起こした。〈デ・ステイル〉(オランダ語で〈様式〉)はこの雑誌の題で,やがて運動の名称ともなった。…

※「モンドリアン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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