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ユグノー戦争 ユグノーせんそうWars of Religion; Guerres de Religion

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ユグノー戦争
ユグノーせんそう
Wars of Religion; Guerres de Religion

フランスのバロア朝末期の内乱 (1562~98) 。宗教戦争とも呼ばれる。フランス王はプロテスタントに対し長く曖昧な態度をとり続けてきたが,国王フランソア1世の治世末期からしだいに反プロテスタントの態度を明確にし始め,1551年シャトーブリアンの勅令でプロテスタントの集会を禁止した。貴族の党派が新旧両教徒の対立を政策的に利用し始めるに及んで,にわかに王国の政治問題と化し,1562年にはカトリック側によるバシーの虐殺事件を機として内乱に発展した。 1562~63年の事件を第1次戦争として第8次戦争まである。第4次戦争 (1572~73) は,摂政カトリーヌ・ド・メディシスとギーズ公アンリが首都パリのプロテスタントの無差別殺害をはかったいわゆるサン=バルテルミの虐殺に端を発した。このとき提督コリニー伯をはじめプロテスタント派の有力貴族の多数が落命,ナバール (ナバラ) 王アンリはカトリックに改宗してかろうじて難を免れた。第8次戦争 (1585~98) はいわゆる三アンリの戦いで,再びプロテスタント派の陣営に復帰してその首領となったナバール王アンリ,カトリック派の首領ギーズ公アンリ,および国王アンリ3世の3者が拮抗した。ギーズ公アンリが国王によって,国王がドミニコ会修道士によってそれぞれ相次いで暗殺されたのち,1589年ナバール王アンリがブルボン朝初代アンリ4世としてフランス王位を継承した。アンリ4世は国内の平定,スペイン勢力の排除を続け,みずからはカトリックに再改宗 (1593) するとともに,ポリティーク派に権力基盤を切り替え,ナントの勅令 (1598) を発してプロテスタントにかなりの自由を認めて宗教対立の解消をはかり,内乱を終結させた。

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デジタル大辞泉の解説

ユグノー‐せんそう〔‐センサウ〕【ユグノー戦争】

1562年から1598年、カトリック教会とユグノーの対立に貴族の政治闘争が結びついて起こったフランスの内乱。サンバルテルミーの虐殺で頂点に達した。スペインがカトリック側を、イギリスがユグノー側を支援したが、アンリ4世の即位とカトリックへの改宗、ナントの勅令によって争乱は終結した。

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百科事典マイペディアの解説

ユグノー戦争【ユグノーせんそう】

フランスのカルバン派(ユグノー)とカトリック派の間に起きた抗争。フランス語guerres de Religion,英語Religious Warsで,ともに〈宗教戦争〉の意。
→関連項目アンリ[3世]アンリ[4世]カトリーヌ・ド・メディシスギーズ[家]コリニーシャルル[9世]宗教改革宗教戦争シュリーフランスフランソア[2世]ボーダンラングドック

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世界大百科事典 第2版の解説

ユグノーせんそう【ユグノー戦争】

1562年より98年にかけてフランスに起こったカトリック派とプロテスタント派の武力抗争。当時フランスのカルバン派は,カトリックからユグノーと呼ばれていたことから,日本ではこの内乱を〈ユグノー戦争〉と呼びならわしているが,ヨーロッパの歴史学は〈宗教戦争guerres de Religion(フランス語),Religious Wars(英語)〉と呼ぶのが通例である。ネーデルラントの〈乞食団(ゴイセン)〉のスペインに対する反乱や,ドイツを舞台にした三十年戦争とともに,近世ヨーロッパに吹き荒れた代表的な宗教戦乱であり,宗教改革に端を発する国際的規模での信仰上の対立が濃い影を落としている。

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大辞林 第三版の解説

ユグノーせんそう【ユグノー戦争】

1562~98年のフランスの宗教戦争。新旧両教徒の対立が貴族の勢力争いと結びつき内乱に発展。他国の干渉も招いて陰惨な事件が続いたが、アンリ四世がナントの勅令を発し終結。 → サンバルテルミーの虐殺ナントの勅令

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ユグノー戦争
ゆぐのーせんそう

1562~98年、フランスに起こった宗教戦争。ユグノーHuguenotは、旧教徒のカトリックによるカルバン派新教徒の蔑称(べっしょう)。宗教改革はフランスでも16世紀前半から広く起こり、カルバンの『キリスト教綱要』の出版(1536)後、新教徒はカルバン派を中心にカトリックとはっきりたもとを分かち、激しさを増す弾圧にもかかわらず、強力な組織力をもって王国に深く浸透した。新旧両派の対立は、おりからの名門貴族間の権力抗争に取り込まれる。バロア王家は名門貴族間の微妙なバランスのうえに君臨していたが、1559年フランソア2世の外戚(がいせき)であるギーズ家が勢力を拡大すると、その均衡は崩れた。ギーズ家一党が熱狂的な旧教徒であったことから、これに対抗して反ギーズ派の貴族たちが新教徒と手を結び、ここに新旧両派の信仰上の対立は一挙に政治的対立を帯びることになった。60年シャルル9世の即位とともに摂政(せっしょう)となった王母カトリーヌ・ド・メディシスは両派の均衡のうえにたって寛容政策を進めたが、両派の対立は激しくなるばかりで、ついに62年ギーズ公一隊による新教徒殺害(バシーの虐殺)を契機に、以後98年まで八次に及ぶユグノー戦争が始まることとなった。戦いと和議が繰り返されるなかにあって、1572年両派の和解のために画策された新教徒の総帥アンリ・ド・ナバル(後のアンリ4世)と、王妹マルグリットとの結婚式は、旧教派による新教徒殺戮(さつりく)に利用され、両派の対立は頂点に達した(サン・バルテルミーの虐殺)。この虐殺は地方にも広がり、新教徒およそ8000人が殺されたが、新教徒は暴君放伐論を唱えて抵抗運動を緩めなかった。その後、旧教派は、過激派と穏健派とに分裂し、前者は76年ギーズ一党を中心に旧教同盟(リーグ)を結成した。後者は信仰上の対立よりも王国の統一を重視してポリティーク派とよばれ、その代表的思想家にジャン・ボーダンがいた。このような状況のなかにあって、カトリーヌを中心とする王家に新旧両派を加えた三勢力の争いは、85年に始まるいわゆる「三アンリの戦い」となって現れた。この過程でアンリ・ド・ギーズ、ついでアンリ3世が暗殺され、89年アンリ・ド・ナバルがアンリ4世として即位した。ブルボン家新王は、国内の分裂および外国とくにスペインと教皇庁の干渉に直面して、93年カトリックへ改宗した。これはポリティーク派の支持を得、翌年2月にはパリ入城を果たし、98年「ナントの王令」を公布して信仰の自由を保障し、ここに内乱は終わりを告げた。ユグノー戦争は、新旧両派の信仰上の武力抗争という形をとりながらすぐれて政治的な抗争でもあり、新興ブルジョア層の台頭や新旧両派をおのおの支援する外国の思惑もあって複雑な様相を呈した。この戦争の結果弱体化した王権の回復を求めて、アンリ4世は絶対王政確立のための再建に着手することになる。[志垣嘉夫]

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世界大百科事典内のユグノー戦争の言及

【サン・バルテルミの虐殺】より

…ユグノー戦争の頂点をなす旧教徒による新教徒の大量殺戮事件。1572年8月24日サン・バルテルミSaint‐Barthélemyの祝日の未明にパリに始まり,フランス各地に波及した。…

【フランス】より

…他方,信仰の領域では,ルターに続いてカルバンが,カトリック教会との決別を宣し,ジュネーブを拠点に,新たな信仰への回心を説いた。こうして,16世紀の後半フランスは,教皇派とユグノーとが激突するユグノー戦争(1562‐98)へと突入することになる。まさに生みの苦しみの半世紀であった。…

※「ユグノー戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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