1919年3月1日、日本による植民地支配下の朝鮮半島で起きた最大規模の抗日独立運動。ソウルの公園で独立宣言書が読み上げられ、市民は「独立万歳」と叫んで行進。抗議デモが朝鮮半島全土に広がった。例年、大統領が式典で演説しており、昨年は
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1919年3月1日を期して始められた朝鮮近代史上最大の反日独立運動。南・北朝鮮では今日でもこの日を記念日として重視している。第1次世界大戦以後,民族運動や革命運動が世界的な高まりを示したが,朝鮮でも独立を達成しようとする動きが一段と活発になった。1918年秋,中国東北部,シベリア方面に移住していた朝鮮人は,ロシアの革命派に協力して日本のシベリア出兵軍と戦っていた。同じころ,アメリカや上海で活動していた安昌浩,呂運亨,金奎植らのグループは,パリ講和会議に朝鮮人代表を派遣し,朝鮮独立の必要性を国際世論に訴えるため奔走していた。さらに,朝鮮内では天道教,キリスト教,学校の教師・学生の間でそれぞれ独自に独立運動計画が練られていた。初め別々に進められていたこれらの運動は,1919年に入ると相互に連絡がつけられた。1月22日に死去した前国王高宗は日本のさしがねで毒殺されたという噂がとびかい,2月8日には在日留学生が東京で独立宣言書を発表するにおよんで,独立運動促進の気運が急速に盛り上がった。最終的な運動方針は2月の末になって決められた。(1)ソウルのパゴダ公園で独立を宣言し,朝鮮全土で独立宣言書を配布すること,(2)日本政府および貴族院・衆議院あてに朝鮮併合は無意味であり即刻独立を認めるべきであるという通告文を送り,アメリカ大統領ウィルソンと講和会議各国委員には朝鮮独立を支援するよう請願書を送ること,がその要点であった。独立宣言書は崔南善が起草し,これに天道教の孫秉煕(そんへいき),キリスト教の李昇薫,仏教の韓竜雲など計33名の〈民族代表〉が署名した。ひそかに印刷された2万1000枚の独立宣言書が宗教者や学生たちによって全国に運ばれた(各地ではこれを元にした別の宣言書が作成されたこともあった)。こうした大がかりな準備が〈水も漏らさぬ〉と豪語した日本の官憲の眼をぬすんで成功裡に進められた。
3月1日,運動はまずソウル,平壌,大邱,開城などの主要都市で始められた。ソウルではパゴダ公園に集まった学生たちが正午の鐘を合図に行動を開始した。彼らは独立宣言書の朗読を終えると太極旗(大韓帝国時代の国旗)をうちふり〈独立万歳〉を高唱しながら街頭に出た。これはたちまち数万の群衆が参加する大規模なデモとなった。それ以後各地の運動は大衆の集まりやすい市のたつ日に合わせて行われ,3月中ごろからは朝鮮全土が反日独立運動のるつぼと化した。わけても農村部の運動が激しかった。1918年に終了した朝鮮土地調査事業によって,朝鮮の農村は日本人地主や親日的な地主たちが支配するところとなった。また,大戦中に日本の工業の成長を支えるために綿花や桑苗の作付強制がなされ,朝鮮米が大量に持ち出された。農民たちが面事務所(村役場)を襲い,土地台帳や作物の供出簿を焼きすてたのはそのためであった。ところが,日本の支配層はこの運動を徹底的に弾圧した。憲兵・警察のほかに正規軍をも投入した鎮圧作戦によって,水原の堤岩里事件(4月15日29名虐殺,近辺の死者は1000名を越した),天安事件(4月1日並川市場でデモ隊20名射殺,〈朝鮮のジャンヌ・ダルク〉柳寛順が逮捕され獄死),定州事件(3月8日デモ隊,市民120名余を無差別殺戮,民族代表李昇薫らの家宅破壊さる)などが相ついで引き起こされた(表参照)。
この運動は多くの犠牲者を出して終わったが,その影響は大きかった。世界大戦の戦勝国に対する闘いとして,同年のインドの非暴力運動(4月)や中国の五・四運動(5月)の先がけとなり,また,日本の植民地支配者には深刻な打撃を与えた。学校教師が帯剣して授業することや憲兵警察制度は廃止せざるをえなくなった。制限つきではあったが,朝鮮人は集会・結社の自由や言論の自由をかち取った(翌年《東亜日報》《朝鮮日報》などが発刊)。朝鮮総督の長谷川好道は更迭されて斎藤実が第3代総督となった。斎藤は,非妥協的民族主義者を除外して自治派などの妥協的民族主義者をとりこむという朝鮮民族の分断を策して〈文化政治〉を唱えたが,三・一運動を経験した朝鮮人はさまざまな組織を作って頑強にこれと闘った。労働運動,農民,女性,青年などの運動や衡平運動(朝鮮の部落解放運動)などの大衆運動は,三・一運動をその出発点として本格的に展開されることになった。国外では4月10日,多くの独立運動家たちが集まって,上海で大韓民国臨時政府が組織された。それは亡命政府ではあれ,朝鮮最初の共和政体の登場を意味するものであった。なお,柳宗悦などごく一部の日本知識人は三・一運動の本質を理解したが,多くはアメリカ人宣教師の扇動による暴動とみるなど無理解であった。
執筆者:馬渕 貞利
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1919年3月1日を期して朝鮮全土に巻き起こり、以後1年以上にわたって、国内外で断続的に展開された日本の支配に対する民族独立闘争。全国218郡のうち212郡で直接蜂起(ほうき)があった。
[宮田節子]
1910年の韓国併合によって日本の植民地になって以来、朝鮮は過酷な憲兵警察の支配下に置かれ、言論、集会、結社の自由は完全に奪われ、同化教育が行われ、民族解放闘争は直接武力で弾圧され、指導者は逮捕、投獄された。しかしこのような武断支配は、かえって抵抗の力量を潜在化させ拡散させた。各所に秘密結社が組織され、書堂や夜学などが増大し、愛国教育が行われ、抵抗の拠点へと成長していった。経済的にも土地調査事業などで大多数の農民は小作農に転落し、さらには火田民、賃金労働者となり、あるいは故国を追われて中国や日本に流亡せざるをえないほど矛盾は極点に達していた。一方国際的にも、1917年のロシア革命の成功、1918年のアメリカ大統領ウィルソンの民族自決宣言の発表などが大きな感銘を与えた。このような背景の下に、国内外で独立運動の機運が盛り上がっていた。
[宮田節子]
国内では天道教、キリスト教、仏教徒が中心となり運動を企画、33名が民族代表として独立宣言文に署名し、運動の口火を切った。非暴力、平和的な運動を行おうとした指導者に対して、ソウル市内のパコダ公園に集まった学生、市民たちは自然発生的に示威行進を始め、デモ隊はみるまに数十万に膨れ上がり、ソウル中は「独立万歳」を叫ぶ人の波で埋まった(そのため万歳事件とよばれたこともあった)。もはや警察の手には負えなくなり、軍隊が出動して群集を解散させた。3月1日にはソウルのほかにも平壌など6か所でデモ行進が行われ、運動の展開がいかに組織的であったかを示している。運動は都市から農村に広がっていった。在地の中農、書堂の教師、故郷に帰った学生たちが次から次へと指導者となり、運動を組織していった。地方での運動は市日(いちび)など村民が集まる日に起こされ、3月中旬には全道に波及、暴動に転化していった。民衆は鎌(かま)、鍬(くわ)、棍棒(こんぼう)などをもって、面(めん)(行政単位で、日本の村にあたる)事務所、憲兵派出所、駐在所など権力機構を襲撃し、ときには国有小作人名寄帳などを焼却している。これらは運動の主たる担い手であった農民の怒りがどこにあったかを示している。このような素手の民衆に対し、日本は正規の軍隊を出動させて弾圧した。村民を教会堂に集めて閉じ込め、一斉射撃を加え、さらに教会堂に放火した「提岩里の虐殺」はその一例である。朝鮮人の被害は、一説では死者7645人、被傷者4万5562人、被囚者4万9811人、焼却家屋724戸といわれている。国外でも、上海(シャンハイ)では独立運動者が集まって4月11日には大韓臨時政府を樹立し、間島(かんとう)、沿海州などでも断続的に武装闘争が展開された。
三・一独立運動は朝鮮近代史の分水嶺(ぶんすいれい)であり、その後の解放闘争に決定的な影響を与え、日本の支配政策の転換を余儀なくさせたばかりでなく、中国の五・四運動をはじめとするアジアの解放闘争の高揚にも大きな役割を果たした。
[宮田節子]
『山辺健太郎著『日本統治下の朝鮮』(岩波新書)』▽『朴慶植著『朝鮮三・一独立運動』(1976・平凡社)』
…10年には〈朝鮮光文会〉を組織して朝鮮の古文献の整理・保存に力を注いだ。三・一独立運動に際して崔麟などの依頼で独立宣言を起草,自身は署名しなかったが逮捕,投獄された。20年代には雑誌《東明》や《時代日報》を発刊,右派民族主義の立場での言論活動のかたわら,歴史研究を深めた。…
…最大の日本人地主であった東洋拓殖株式会社は,この国有地を基本に所有地拡大をはかっていった。事業完了の数ヵ月後に朝鮮最大の民族運動である三・一独立運動が勃発したが,農村部でもっとも激しくかつ長期に展開したことは,事業の性格をよく示している。
※「三一独立運動」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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