三遊亭円遊
さんゆうていえんゆう
落語家。初代三遊亭円生(えんしょう)門で俗称銀治郎、のち初代金原亭馬生(きんげんていばしょう)となった初代(?―1838)から6代まであるが、3代がもっとも有名で、俗に彼を初代という。
[関山和夫]
(1849―1907)本名竹内金太郎。2代五明楼玉輔(ごめいろうたますけ)門で志う雀といったが、三遊亭円朝(えんちょう)門に移って円遊となる。鼻が大きく、ステテコ踊りで著名なため、「鼻の円遊」「ステテコの円遊」。落語の改作に意を注ぎ、『野ざらし』『船徳』などに円遊調を盛り込み、今日の形に定着させた。
[関山和夫]
(1867―1924)本名吉田由之助(よしのすけ)。3代門人。喜遊、遊雀(ゆうじゃく)、左円遊、小円遊から4代目襲名。
[関山和夫]
(1878―1945)本名伊藤金三(きんぞう)。3代門人小円遊に入門して小蔵(こぞう)、小伝遊、初代三遊亭遊三(ゆうざ)門で三福(さんぷく)、扇遊亭金三から月廼家円鏡(つきのやえんきょう)を経て5代円遊を襲名。
[関山和夫]
(1902―84)本名加藤勇。6代雷門助六(かみなりもんすけろく)門下で、音助、おこし。都家歌六となり幇間(ほうかん)に転じたが、復帰して桂伸治(かつらしんじ)から1946年(昭和21)6代目を襲名。
[関山和夫]
(1943― )本名名取光三。6代の弟子で、若円遊から1985年に7代目を襲名。
[関山和夫]
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三遊亭円遊(1世)
さんゆうていえんゆう[いっせい]
[生]嘉永3 (1850).5.28. 江戸
[没]1907.11.26. 東京
落語家。本名竹内金太郎。小石川小日向の紺屋の息子。慶応4(1868)年頃 2世五明楼玉輔に入門し,五明楼志う雀を名のる。明治5(1872)年三遊亭円朝門下に移り,1世三遊亭円遊となる。以前に円遊を名のった者が 2人いるため,本来は 3世にあたるが,円遊がずば抜けて売れたので 1世とされる。1879年すててこ踊で人気を博す。すててこ踊は,着物をはしょって半股引(すててこ)を見せて「すててこてこてこ」と踊ったもので,浅草広小路の大道芸や幇間の芸を参考に考案した。すててこ踊で人気者になったため「すててこの円遊」,また鼻が大きかったことから「鼻の円遊」と呼ばれ,へらへらの萬橘(1世三遊亭萬橘),ラッパの円太郎(4世橘家円太郎),釜掘りの談志(4世立川談志)とともに明治の四天王といわれた。1880年真打ちに昇進。珍芸だけでなく,それ以前は陰気な話だった『野ざらし』や人情噺の一部だった『船徳』を爆笑ネタに改作したりもした。人情噺でなければ真打ちになれなかった当時の寄席で,禽語楼小さん,3世柳家小さんとともに滑稽噺を真打ち芸として確立させた。(→落語)
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三遊亭 円遊(初代)
サンユウテイ エンユウ
- 職業
- 落語家
- 本名
- 竹内 金太郎
- 別名
- 前名=五明楼 しう雀
- 生年月日
- 嘉永3年 5月28日
- 出生地
- 江戸・小石川小日向水道町(東京都)
- 経歴
- 慶応4年19歳の時、2代目五明楼玉輔に入門、しう雀を名乗る。師の一時廃業に伴い、明治5年初代三遊亭円朝に再入門、円遊と改名。13年真打ち。滑稽な“ステテコ踊り”を売りものとし、明治風俗を折りこんだ漸新なギャグを配した新作・改作で圧倒的な人気を得た。“ステテコの円遊”、また大きな鼻のため“鼻の円遊”とも愛称され、本来は3代目であるが後年あまりに有名になったため、俗に初代といわれる。「野ざらし」「花見小僧」など現在の形をつくった。
- 没年月日
- 明治40年 11月26日 (1907年)
- 伝記
- 高座奇人伝落語名人伝落語家―いま、むかし 小島 貞二 著関山 和夫 著興津 要 著(発行元 筑摩書房白水社旺文社 ’09’92’87発行)
三遊亭 円遊(2代目・上方)
サンユウテイ エンユウ
- 職業
- 落語家*
- 本名
- 滝梅三郎
- 生年月日
- 文久1年 5月14日
- 経歴
- 明治・大正期に活躍。はじめは大隅太夫の名で常磐津で活動。明治20年代末、初代円遊に入門して遊楽と名乗る。33年に一円遊と改名。その年、師である円遊と席亭連との不和のために一門の寄席出演が不能になり、一時3代春風亭柳朝門に身を寄せ、小柳朝となったが、まもなく一円遊に復帰。35年より後は上方を拠点とし、三友派に加入する。常磐津が初代常磐津囃子中に似ているといわれ、音曲噺を得意とした。44年、亡師の長男である初代若柳吉蔵から許しを得たとして2代円遊を名乗ったが、東京側ではこれを認めず、2代三遊亭小円遊だった吉田由之助が翌45年4月から2代円遊となって正統の筋を主張した。後に仲介によって和解し、いったん一円遊に戻ったものの、大正元年には大阪で浪華大正派をおこし、再度円遊を名乗った。10年ごろの吉本興業部の連名に円遊の名があるが、その後は不詳。芸は東京の2代円遊より優れていたと伝える。
- 没年月日
- ?
三遊亭 円遊(4代目)
サンユウテイ エンユウ
- 職業
- 落語家
- 本名
- 加藤 勇(カトウ イサム)
- 生年月日
- 明治35年 2月12日
- 出身地
- 東京・京橋
- 経歴
- 大正11年、6代目雷門助六に入門、同15年二ツ目歌六となったが、のちタイコ持ちに転じたあと、昭和18年に復帰、21年真打ちとなり、25年に4代目円遊を襲名している。「野ざらし」「たいこ腹」「堀の内」などが十八番で、ほんのりと色気を漂わせた明るい江戸前の芸風で知られた。
- 受賞
- 勲五等双光旭日章〔昭和54年〕
- 没年月日
- 昭和59年 1月9日 (1984年)
- 伝記
- 談志絶倒 昭和落語家伝落語―知れば知るほど落語長屋の知恵 立川 談志 著,田島 謹之助 写真橘 左近 著矢野 誠一 著(発行元 大和書房実業之日本社青蛙房 ’07’07’86発行)
三遊亭 円遊(3代目)
サンユウテイ エンユウ
- 職業
- 落語家
- 本名
- 伊藤 金三
- 別名
- 前名=三遊亭 小蔵,三遊亭 小伝遊,三遊亭 三福,三遊亭 金三,月の家 円鏡
- 生年月日
- 明治11年 8月28日
- 経歴
- 初代三遊亭小円遊に入り、小蔵を名乗る。のち小伝遊を名乗り、明治37年真打ちとなる。三福、金三、月の家円鏡を経て、大正14年3代目三遊亭円遊を襲名。得意な演し物は「野ざらし」「明烏」「転宅」「紙屑屋」など。
- 没年月日
- 昭和20年 3月17日 (1945年)
- 伝記
- 談志楽屋噺 立川 談志 著(発行元 文芸春秋 ’90発行)
三遊亭 円遊(2代目)
サンユウテイ エンユウ
- 職業
- 落語家
- 本名
- 吉田 由之助
- 別名
- 前名=三遊亭 喜遊,三遊亭 遊雀,三遊亭 左円遊,三遊亭 小円遊
- 生年月日
- 慶応3年 7月
- 出生地
- 江戸(東京都)
- 経歴
- 初代三遊亭円遊門に入り、喜遊を名乗る。のち遊雀を経て、明治30年左円遊となり、真打ちに昇進。38年小円遊と改め、45年2代目円遊を襲名した。
- 没年月日
- 大正13年 5月31日 (1924年)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報
三遊亭円遊 (さんゆうていえんゆう)
落語家。(1)初代(?-1838(天保9)) 初代三遊亭円生門下。のち金原亭馬生となる。道具入り芝居噺の祖として知られる。(2)2代(生没年未詳) 三遊亭円朝門下で,のち新朝となった。(3)3代(1849-1907・嘉永2-明治40) 本名竹内金太郎。円朝門下。滑稽なステテコ踊りと明治風俗を配したギャグによる古典の改作で,圧倒的な人気を得た。〈ステテコの円遊〉,また鼻が大きいため〈鼻の円遊〉と愛称された。彼を初代円遊とする説もある。(4)4代(1867-1924・慶応3-大正13) 本名吉田由之助,3代門下。(5)5代(1887-1945・明治20-昭和20) 本名伊藤金三。一時,柳橋の幇間(ほうかん)に転業したが,のち落語界に復帰した。(6)6代(1902-84・明治35-昭和59) 本名加藤勇。飄逸(ひよういつ)で明るい芸の持主として知られる。
執筆者:興津 要
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
三遊亭 円遊(4代目)
サンユウテイ エンユウ
昭和期の落語家
- 生年
- 明治35(1902)年2月12日
- 没年
- 昭和59(1984)年1月9日
- 出身地
- 東京・京橋
- 本名
- 加藤 勇(カトウ イサム)
- 主な受賞名〔年〕
- 勲五等双光旭日章〔昭和54年〕
- 経歴
- 大正11年、6代目雷門助六に入門、同15年二ツ目歌六となったが、のちタイコ持ちに転じたあと、昭和18年に復帰、21年真打ちとなり、25年に4代目円遊を襲名している。「野ざらし」「たいこ腹」「堀の内」などが十八番で、ほんのりと色気を漂わせた明るい江戸前の芸風で知られた。
三遊亭 円遊(3代目)
サンユウテイ エンユウ
明治〜昭和期の落語家
- 生年
- 明治11(1878)年8月28日
- 没年
- 昭和20(1945)年3月17日
- 本名
- 伊藤 金三
- 別名
- 前名=三遊亭 小蔵,三遊亭 小伝遊,三遊亭 三福,三遊亭 金三,月の家 円鏡
- 経歴
- 初代三遊亭小円遊に入り、小蔵を名乗る。のち小伝遊を名乗り、明治37年真打ちとなる。三福、金三、月の家円鏡を経て、大正14年3代目三遊亭円遊を襲名。得意な演し物は「野ざらし」「明烏」「転宅」「紙屑屋」など。
三遊亭 円遊(2代目)
サンユウテイ エンユウ
明治・大正期の落語家
- 生年
- 慶応3年7月(1867年)
- 没年
- 大正13(1924)年5月31日
- 出生地
- 江戸
- 本名
- 吉田 由之助
- 別名
- 前名=三遊亭 喜遊,三遊亭 遊雀,三遊亭 左円遊,三遊亭 小円遊
- 経歴
- 初代三遊亭円遊門に入り、喜遊を名乗る。のち遊雀を経て、明治30年左円遊となり、真打ちに昇進。38年小円遊と改め、45年2代目円遊を襲名した。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
三遊亭円遊(3代)
没年:明治40.11.26(1907)
生年:嘉永3.5.28(1850.7.7)
明治期の落語家。本名竹内金太郎。江戸小石川の紺屋・藤屋の息子。慶応4(1868)年19歳のとき2代目五明楼玉輔に入門,しう雀の名で噺家となる。師の一時廃業に伴い,明治5(1872)年ごろ初代三遊亭円朝に再入門して円遊。「ステテコ踊り」の高座で評判をとり,13年真打。以後文明開化の時流に乗ってナンセンスなギャグ沢山の新作落語を多く演じ,大きな鼻を売り物にしたため「鼻の円遊」と呼ばれて圧倒的な人気を博した。「野ざらし」「船徳」など従来の陰気な噺を滑稽に改作したことでも知られる。本来は3代目だが,俗に「初代」といわれて現在に至っている。<参考文献>「三遊亭円遊代々」(『落語』29号)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
三遊亭円遊(3代) さんゆうてい-えんゆう
1850-1907 明治時代の落語家。
嘉永(かえい)3年5月28日生まれ。初代三遊亭円朝の門人。おおきな鼻とすててこ踊りで人気をえた。当時の珍芸四天王のひとりで,滑稽落語を確立した。3代がもっとも有名になったため俗に初代といわれる。明治40年11月26日死去。58歳。江戸出身。本名は竹内金太郎。
【格言など】ちりぎはも賑やかであり花の山(辞世)
三遊亭円遊(6代) さんゆうてい-えんゆう
1902-1984 昭和時代の落語家。
明治35年2月12日生まれ。6代雷門助六の門にはいり,音助,おこしを名のる。大正15年6代都家歌六で真打。のち柳家三太郎の名で幇間(ほうかん)になるが,桂(かつら)小文治門下で桂伸治として復帰。昭和21年6代を襲名。日本芸術協会に属した。昭和59年1月9日死去。81歳。東京出身。本名は加藤勇。
三遊亭円遊(5代) さんゆうてい-えんゆう
1878-1945 明治-昭和時代前期の落語家。
明治11年8月28日生まれ。初代三遊亭小円遊の門にはいり,小蔵,小伝遊を名のる。明治37年真打。初代三遊亭遊三(ゆうざ)の門下となり,2代三遊亭三福,月の家円鏡とあらためる。大正14年5代を襲名した。昭和20年3月17日死去。68歳。本名は伊藤金三。
三遊亭円遊(4代) さんゆうてい-えんゆう
1867-1924 明治-大正時代の落語家。
慶応3年7月生まれ。3代三遊亭円遊の門にはいり,喜遊,遊雀(ゆうじゃく),左円遊,小円遊を名のり,左円遊のとき真打。明治45年4代を襲名した。大正13年5月31日死去。58歳。本名は吉田由之助。
三遊亭円遊(2代) さんゆうてい-えんゆう
?-1892 明治時代の落語家。
初代三遊亭円朝の門下。林朝から2代円遊となり,明治7,8年ごろに2代新朝を名のった。明治25年11月29日死去。本名は山田岩吉。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
三遊亭 円遊(3代目) (さんゆうてい えんゆう)
生年月日:1878年8月28日
明治時代-昭和時代の落語家
1945年没
三遊亭 円遊(初代) (さんゆうてい えんゆう)
生年月日:1850年5月28日
明治時代の落語家。初代
1907年没
三遊亭 円遊(6代目) (さんゆうてい えんゆう)
生年月日:1902年2月12日
昭和時代の落語家
1984年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の三遊亭円遊の言及
【すててこ】より
…現在では胴まわりにゴム紐を用いたロング・パンツが一般的。すててこの名の起りは,1880年ころ,寄席芸人三遊亭円遊が長くて太いパッチを出して踊った〈すててこ踊〉からといわれている。【南本 珠己】。…
【落語】より
…円朝と並ぶ人情噺の名手初代柳亭(談洲楼(だんしゆうろう))燕枝(えんし),やはり人情噺をよくした3代麗々亭柳橋(れいれいていりゆうきよう)(のち春錦亭柳桜(しゆんきんていりゆうおう))(1835‐97),芝居噺の名手6代桂文治,花柳物の名手4代桂文楽,落し咄,人情噺ともによくした2代古今亭志ん生,滑稽噺の2代柳家(禽語楼(きんごろう))小さんなどがそれだった。異彩を放ったのは,〈ステテコ踊り〉の,俗に初代ともいう3代[三遊亭円遊],鉄道馬車のラッパを吹く音曲師4代橘家(たちばなや)円太郎(?‐1898),〈郭巨(かつきよ)の釜掘り踊り〉の4代立川談志(?‐1889),〈ヘラヘラ踊り〉の三遊亭万橘(まんきつ)(?‐1894)という〈寄席四天王〉で,彼らは珍芸を売物にして人気を博した。珍芸流行の原因は,当時,東京市内が明治に入って最大の不況に見舞われ,特別に珍奇な芸でなければ客が呼べないという事情もあったが,時流からみれば,明治になって東京に集まって来た,寄席になじみのない新しい客層を開拓する手段であり,それは,江戸時代以来の続き物の人情噺が歓迎されなくなってきたことの証明でもあった。…
※「三遊亭円遊」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」