7、8世紀の日本語文献には、後世にない仮名の使い分けがあり、それは発音の違いに基づくというもの。キケコソトノヒヘミメモヨロおよびその濁音ギゲゴゾドビベの万葉仮名は、それぞれ二つのグループ(橋本進吉の命名により甲類、乙類とよんでいる)に分類でき、グループ間で混用されることがない。たとえば、美、弥などはミ(三)、ミル(見)、カミ(上、髪)などのミを表すのに用い、未、微、尾などはミ(身)、ミル(廻)、カミ(神)などのミを表すのに用いている(前者をミの甲類、後者をミの乙類という)。
このような2類の区別は、漢字音の研究などにより、当時の日本語の音韻組織が後世とは異なっていた事実の反映と認められる。発音上どのような差異があったのかという点では諸説があり、母音体系の解釈についても定説がない。『古事記』には他の文献にはないモの2類の区別があり、ホとボにも区別した痕跡(こんせき)がうかがわれることから、オ段に関してはほぼ各行に2類の区別が認められることとなり、現在の音に近い[o]と、中舌母音の[ö]のような2種の母音が存在したと推定する説が有力である。イ段、エ段ではカガハバマという偏った行にしか2類の使い分けがないことから、オ段と同様に2種の母音の存在を想定する説(甲類は現在の音に近い単母音、乙類は二重母音または中舌母音とする説が多い)には、やや説得力に欠ける点があり、子音の口蓋(こうがい)化と非口蓋化による差異とする説も唱えられている。このような万葉仮名の使い分けは、畿内(きない)では8世紀後半以降しだいにあいまいになり、9世紀にはほとんど失われてしまった。『万葉集』の東歌(あずまうた)、防人歌(さきもりうた)の伝える東国方言では、かなり多く2類の混同がみえる。
この言語事象の指摘は、本居宣長(もとおりのりなが)に始まり、石塚龍麿(たつまろ)がさらに詳しく調査し、2類の間に画然とした区別のあることを『仮名遣奥山路(かなづかいおくのやまみち)』に著した。この書は写本として伝わり、橋本進吉が独自の研究で再発見して、この説に訂正を加えて紹介公表するとともに、単なる仮名遣いではなく、音韻の差異による書き分けであることを明らかにした。この発見は文法や語彙(ごい)にも及び、たとえば、動詞四段活用の已然(いぜん)形「行け」と命令形「行け」、「上(かみ)」と「神(かみ)」はそれぞれ発音が違っていたことが知られ、上代日本語の研究は飛躍的に進歩した。なお、橋本進吉はエの2類の区別も含めたが、これはア行とヤ行の区別であって、前述のものとは性質を異にする。
[沖森卓也]
『『文字及び仮名遣の研究』(『橋本進吉博士著作集 第3冊』1949・岩波書店)』▽『『国語音韻の研究』(『橋本進吉博士著作集 第4冊』1959・岩波書店)』▽『大野晋著『上代仮名遣の研究』(1953・岩波書店)』
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上代の文献の万葉仮名にみられる13の音に関する文字の使いわけ。橋本進吉はこの2種類の表記を甲類・乙類と命名。エ・キ・ケ・コ・ソ・ト・ノ・ヒ・ヘ・ミ・メ・ヨ・ロ(「古事記」ではモにも)に使いわけがある。たとえば「秋・息…」には「君」と同じ万葉仮名(岐・企・吉…)が使われるが,「木・霧…」には「月」と同じ万葉仮名(紀・奇…)が使われ,これらの漢字のグループが混同されることはない。この区別は,イ・エ・オ段の音節に現れることから母音の差によると考えられ,上代の母音が8母音とする説もあった。最近は母音の差によるのはオ段のみであり,イ段の差については子音の差であるという服部四郎・松本克己らの説もある。ただしエはア行の「エ」とヤ行「ヱ」の差で,母音の差ではない。万葉仮名は中国の韻書を調査することによって,当時の音(音価)を推定することができる。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…その事実に着目したのが本居宣長で,《古事記伝》総論に〈仮字の事〉として万葉仮名を概説するとともに,同じ音と考えられる万葉仮名の使い分けを論じた。それを受けて,石塚竜麿(いしづかたつまろ)の《古言清濁考》《仮字遣奥山路(かなづかいおくのやまみち)》が生じ,橋本進吉に引き継がれて,橋本のいわゆる〈上代特殊仮名遣い〉の事実の発見となった(表,表(つづき)を参照されたい)。 平安時代を含めて以後の時代の万葉仮名は,奈良時代およびそれ以前の場合とは違って,平仮名と同じく清濁を区別しないものとなり,また音韻組織の変化(甲・乙2類の音の区別の消失)に応じて変貌(へんぼう)した。…
※「上代特殊仮名遣い」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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