日本歴史地名大系 「下矢田村」の解説 下矢田村しもやたむら 愛知県:西尾市下矢田村[現在地名]西尾市下矢田町市の西方、南北に連なる洪積台地上に位置する。北は上矢田(かみやた)村、東は長縄(ながなわ)村、南は徳永(とくなが)村・針曾根(はりぞね)村、西は寺津(てらづ)村に隣する。「和名抄」の幡豆(はず)郡八郷のうちの八田(やた)郷の中心地とされ、矢田は本来谷田で、矢田は当て字と思われる。「三河志」に「古城三ケ所あり、高木矢田次郎・竹田勘八・太田荘左衛門以上三将吉良家幕下なり」と三つの古城のあったことがわかる。また「郷村雑書」に「亀休山養寿寺 往古、今の田畑の御門前池迄、塩入江なりし」「草切り百姓二四軒」と集落の初めを記す。東光(とうこう)寺に天正九年(一五八一)の徳川家康の寄進状がある。 下矢田村しもやたむら 千葉県:市原市下矢田村[現在地名]市原市下矢田矢田村の北に位置する。天正一九年(一五九一)九月の姉崎領谷田之郷検地帳(深山家文書)は七冊で、田畠六八町六反余・三二六石余、屋敷三町六反余・三六石余で、名請人総数二〇二人にのぼり、うち屋敷持は四二人、なかには三光(さんこう)院・西光(さいこう)院・宝蔵(ほうぞう)院・大楽(だいらく)院・正法(しようぼう)院・西楽(さいらく)院・高照(こうしよう)寺・法善(ほうぜん)坊などの寺院関連、また和泉のほか玄蕃・兵庫・隼人・図書・勘解由・主税・外記・雅楽助などの受領名・官途名をもつ者が多くみられる。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高三六〇石。 下矢田村しもやだむら 福島県:いわき市旧磐城市地区下矢田村[現在地名]いわき市鹿島町(かしままち)下矢田(しもやだ)矢田川沿岸に位置し、南は走熊(はしりくま)村・米田(こもだ)村、西は三沢(みさわ)村、北は上矢田村。正応二年(一二八九)七月九日の関東下知状(岡本元朝家蔵文書)に「下矢田郷地頭代妙願」とみえる。貞和三年(一三四七)八月日の沙弥妙常譲状(烟田文書)によれば「岩崎郡東郷下矢田村の□□田六反、在家はん分か事」が一期分として譲られ、惣領に一年に用途三〇〇文を出すよう定められている。磐前(いわさき)郡に属した。近世は磐城平藩領。 下矢田村しもやたむら 石川県:河北郡津幡町下矢田村[現在地名]津幡町下矢田能瀬(のせ)川中流丘陵麓、御門(みかど)村の上流谷間に位置。正保郷帳では上矢田村・下矢田村と並記して高付され、高二四〇石余、田方一一町・畑方五町余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高一一四石、免六ツ二歩、小物成は山役八四匁・野役三匁(三箇国高物成帳)。寛文年間の百姓数六(高免付給人帳)。天明八年(一七八八)山崩れと川筋石入りによる変地御償米代として一ツ一歩引免、以後引免は上下したが、享和二年(一八〇二)より三ヵ年六歩引免(「河北郡引免根帳」林文書)。 下矢田村しもやだむら 京都府:亀岡市下矢田村[現在地名]亀岡市下矢田町・矢田町・新町(しんまち)・柳町(やなぎまち)・塩屋町(しおやまち)南は上矢田村、東は中矢田村、北は城地と荒塚(あらつか)村。中世は矢田庄の地。亀山城築城に際し村の北部は城下に組み入れられ、人家は旅籠町(はたごまち)・新町・柳町・魚屋町(うおやまち)・塩屋町に移され、城下町の一画をつくった。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by