柏原宿(読み)かしわばらしゆく

日本歴史地名大系 「柏原宿」の解説

柏原宿
かしわばらしゆく

[現在地名]東町柏原

古代の東山道(中世の東海道、近世の中山道)が通り、鎌倉時代から宿の機能を果した交通の要地で、「実暁記」に京都と鎌倉の間に設けられた六三宿の一として「柏原」がみえ、江戸時代には中山道六七宿の一で、江戸より六〇番目の宿。

〔中世〕

「東関紀行」「遺塵集」に「柏原」に宿したことが記される。「大乗院寺社雑事記」文明一一年(一四七九)七月二六日条によれば、当時「番場ヨリ柏原マテ」と「柏原ヨリ垂井マテ」の経費はそれぞれ一〇〇文、当地に関があり関銭は「カシワハラ三関」四〇文。永禄一二年(一五六九)山科言継は美濃下向の途次、柏原の堤孫七郎宅に宿した(「言継卿記」同年一一月一〇日条)


柏原宿
かしわばらじゆく

[現在地名]信濃町大字柏原

慶長一六年(一六一一)九月三日付松平忠輝の柏原村あての伝馬宿書出(「中村家文書」県立長野図書館蔵)によって、北国脇往還の宿場として正式に成立し、同一〇日付で屋敷高一三石二斗の年貢二石六斗四升を免除された(「松平忠輝老臣等連署状」県立長野図書館蔵)。北の野尻のじり宿へ一里、南の古間ふるま宿へ六町、牟礼むれ宿へ二里。古間宿と合宿関係にあり、月の一日から一五日まで務めた。

宿長は南北八町三間。

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百科事典マイペディア 「柏原宿」の意味・わかりやすい解説

柏原宿【かしわばらのしゅく】

近江国坂田郡の宿名で,古代の東山道,中世の東海道近世中山(なかせん)道要所宿駅の機能があった。現滋賀県山東町(現・米原市)域で,北の伊吹山地,南の鈴鹿山脈に挟まれ,西は琵琶湖を経て畿内に通じ,東は不破(ふわ)関を抜けて東国に出る位置にある。1085年に柏原荘が山城醍醐(だいご)寺領としてみえ,1180年平知盛の東征軍に対して美濃源氏5000騎が柏原に参陣している(《玉葉》)。1190年には源頼朝が宿陣を構えて,初上洛に向かっている(《吾妻鏡》)。1332年には後醍醐天皇に従った北畠具行(ともゆき)が鎌倉に送られる途次,当地に拠城を構えていた佐々木道誉(佐々木高氏)に斬られている。1479年当時は関が置かれて,関銭を徴収していた。1589年豊臣秀吉は京都方広寺の大仏建立のため6000余人を動員して柏原までの木材の宿送りを命じている。江戸時代には市場町・今川町・東町などから構成され,本陣脇本陣,人馬継問屋場,旅籠屋などが置かれていた。

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改訂新版 世界大百科事典 「柏原宿」の意味・わかりやすい解説

柏原宿 (かしわばらのしゅく)

中世では東山道の,近世では中山道の宿駅名で,現在の滋賀県米原市の旧山東町柏原にあたる。伊吹山地と鈴鹿山脈との地峡部にあり,東国に抜ける際の不破関の手前の宿駅であることから,軍事・交通上の要所であった。早くは源平内乱期の1180年(治承4)平知盛の東征軍に対して美濃源氏5000騎が柏原に出向いたことが《玉葉》にみえる。また90年(建久1)源頼朝が初上洛のとき,ここに宿陣したことがうかがわれる。さらに,1332年(元弘2)後醍醐天皇に従い元弘の乱を起こした北畠具行は,鎌倉へ送られる途中ここで佐々木道誉に斬られた。一方14世紀初め,冷泉為相が母阿仏尼を追って鎌倉へ下った際ここで詠んだ歌が家集《藤谷集》にある。また16世紀後半斎藤氏の招きで美濃へ下った一条兼良は,紀行文《藤川の記》でここを詠んでいる。なお,京極氏が伊吹山東南麓の上平(かみひら)寺を本拠としたのはここを押さえるためと考えられる。
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事典・日本の観光資源 「柏原宿」の解説

柏原宿

(滋賀県米原市)
湖国百選 街道編」指定の観光名所。

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