世尊寺(読み)セソンジ

日本歴史地名大系 「世尊寺」の解説

世尊寺
せそんじ

[現在地名]大淀町大字比曾

高取たかとり山系の小丘陵を背負い、西谷川と東谷川の両渓谷に挟まれた台地に南面する。霊鷲山と号し、曹洞宗本尊は阿弥陀如来坐像で平安中期の作。寺伝に聖徳太子創建とあり、役行者金峯きんぶ入峯前ここで修行したので行者道分道場という。一名吉野よしの寺・比蘇ひそ寺・現光げんこう寺・栗天奉りつてんほう寺とも称する。「日本書紀」欽明天皇一四年五月条に河内国の言として「泉郡の茅渟海の中に、梵音す。震響雷の声の若し。光彩しく晃り曜くこと日の色の如し。天皇、心に異しびたまひて、溝辺直を遣して、海に入りて求訪めしむ。是の時に、溝辺直、海に入りて、果して樟木の、海に浮びて玲瓏くを見つ。遂に取りて天皇に献る。画工に命して、仏像二躯を造らしめたまふ。今の吉野寺に、光を放ちます樟の像なり」とあり、「日本書紀」編修以前すでに吉野寺が存在したことがわかる。


世尊寺
せそんじ

[現在地名]真野町竹田 大膳林

竹田たけだ台地上の字大膳林だいぜんばやしにある。東方約四〇〇メートルに阿仏房妙宣あぶつぼうみようせん寺がある。日蓮宗、法久山と号し、本尊は祖師真筆大曼荼羅。令法久住山大覚世尊寺とも国府道場こうのどうじようともよんだ。もとは日蓮宗富士門流で、日蓮の高弟日興の門流富士重須本門ほんもん(現静岡県富士宮市)の客末寺であった。日蓮在島のときに、日蓮の檀越となった国府入道夫妻(下江房日増とその妻妙円尼)開基


世尊寺
せそんじ

[現在地名]庄原市高町 寺川

西城さいじよう川の東岸、要害ようがい山の北西麓にあり、法輪山と号し曹洞宗。本尊阿弥陀如来。寛永一〇年(一六三三)奴可ぬかくり(現比婆郡西城町)浄久じようきゆう寺の白翁が開基。もとたか上組古寺かみぐみふるでらの地にあったが、延享二年(一七四五)高村の割庄屋井上三郎右衛門が現在地に移したと伝える。本堂は当時のもので、同年の棟札写を蔵する。

裏山である要害山・前要害まえようがい山には、山内氏の支城雲井くもい城と福山ふくやま城があった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の世尊寺の言及

【世尊寺流】より

…その系統の書風の流れが後世に及ぼした影響は多大なものであった。流名は,行成の邸桃園第に同家の氏寺として建てられた世尊寺による。世尊寺の家系は室町時代に及び,1529年(享禄2)17代行季の死で断絶した。…

【藤原行成】より

…故実に精通し,執務ぶりはきわめて励精で,後世藤原公任,同斉信,源俊賢とともに四納言と称せられる。仏教信仰も深く,保光より伝領した桃園第を寺とした(世尊寺)。日記《権記(ごんき)》はこの時代の重要な史料の一つ。…

【大淀[町]】より

…山林地帯の玄関口にあたることから,工業は製材業などの木材木製品製造が中心である。比曾の世尊寺は聖徳太子開基とされる比曾寺跡にあたる。【松原 宏】。…

※「世尊寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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