兵庫県篠山市の旧今田町立杭(たちくい)周辺で焼かれている陶器で,立杭焼とも呼ばれる。中世には小野原荘に属したことから,桃山以前の古丹波をかつて小野原焼と呼んだ。その源流は摂津北部の須恵器生産にあると思われるが,平安末ころ東海地方の瓷器(しき)系陶器の影響を受けて中世窯に転換した。中世窯跡は旧今田町南東山中の三本峠,太郎三郎,源兵衛,床谷,稲荷山の5群が知られるのみで,窖窯(あながま)であるが窯体構造は明らかでない。製品は壺・甕(かめ)類を主としており,擂鉢(すりばち)は少ない。しかし,初期には線彫で三筋文,蓮弁文,秋草文などを描いた壺・瓶類を焼いている。鎌倉末ころから丹波独自の形態をとりはじめ,明るい緑色の自然釉のかかった壺・甕類を量産している。室町後期には徳利や片口壺,緒桶などを焼いており,猫描手と呼ばれる特殊な整形法が用いられた。桃山時代から江戸時代にかけて窯は釜屋から立杭方面に移り,今日の丹波焼の基礎が築かれた。これとは別に天正年間(1573-86),周辺の山地に備前の陶工が移入し,備前風の大甕,擂鉢を焼いている。
近世の丹波焼は慶長末から元和初年ころ(1615年前後),半地上式無段連房式登窯に転換し,多彩な施釉陶器を焼きはじめた。製品は碗,皿,鉢,瓶などの食器類,壺・甕類,調理具のほか,灯火具,花器,茶器,文房具などがある。釉薬の原料は木灰,鉄,石,白土で,赤土部(あかどべ),灰ダラ(土灰),飴黒,白釉と呼ばれる丹波独特の釉が用いられた。器面の加飾法には流し掛け,葉文,篦(へら)彫り,櫛目文,貼付文,イッチン,墨流し,赤絵,型押しなどがあり,きわめて多彩である。特産物として,江戸初期に六角面取りの朝倉山椒壺があり,江戸中期にかけて赤土部製品が,江戸後期には薄手の精巧な多種類の徳利が量産された。丹波の茶陶は遠州丹波と呼ばれるように,寛永(1624-44)以後に盛期を迎えており,古い例では《有楽亭茶湯日記》の〈丹波焼肩つき〉〈茶入手焼の丹波茄子〉があり,《遠州道具置合》には〈水滴丹波焼〉〈茶入生埜〉が見えている。
執筆者:楢崎 彰一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
兵庫県を代表する陶窯。その開窯は平安末期(12世紀後半)までさかのぼるとみる説もあるが、鎌倉時代(13世紀)に愛知県常滑(とこなめ)焼の影響のもとに三本(さんぼん)峠窯が築かれており、以後の活動は古窯址(し)によって検証されている。これら中世初期の窯は丹波篠山(たんばささやま)市の旧今田(こんだ)町域に集中しており、三本峠のほか太郎三郎(たさうら)、源兵衛(げんべえ)山、床谷(とこらり)、稲荷山(いなりやま)窯が知られている。「古丹波」ともよばれる当時の作は、赤銅色に焦げた素地(きじ)に濃緑色の自然釉(ゆう)がかかった質実な大壺(つぼ)に特色がよく示されており、今日声価が高い。桃山時代(16世紀後半)を迎えると作陶は大きく変化し、築窯(ちくよう)法もそれまでの穴窯(あながま)にかわって蛇窯(へびがま)(丹波特有の登(のぼり)窯)が導入された。これら初期の登窯は、やはり丹波篠山市の釜屋(かまや)と下立杭(しもたちくい)に発見されている。他窯よりもだいぶ遅れて茶壺(ちゃつぼ)、茶碗(ちゃわん)、茶入(ちゃいれ)、花入れなどの茶具が焼かれ始めているが、秀作は少ない。江戸初頭には近世丹波焼独特の赤土部(あかどべ)釉が開発され、灰釉、黒釉とあわせて日用雑器を主としたが、一部に茶器も焼かれ、遠州好みの遠州丹波とよばれるものも焼造した。1654年(承応3)には登窯の経営を請け負う窯座(かまざ)制も開始されて丹波焼特有の生産組織ができあがった。そして生産量の増大につれて1798年(寛政10)には上立杭、下立杭、釜屋に窯が分立し、100メートルを超す大窯も築かれ、白地鉄絵、鉄泥を流しがけした墨流し、白化粧法などの新技法も加わった。この時期が「中丹波(ちゅうたんば)」とよぶもっとも華やかな時代である。現在は立杭を中心に、瀟洒(しょうしゃ)な茶器のほか徳利などの飲食器や民芸品が焼かれている。
[矢部良明]
『河原正彦著『陶磁大系9 丹波』(1975・平凡社)』▽『立原正秋・林屋晴三監修『探訪日本の陶芸8 丹波他』(1980・小学館)』
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