五経博士(読み)ゴキョウハカセ(その他表記)Wǔ jīng bó shì

デジタル大辞泉 「五経博士」の意味・読み・例文・類語

ごきょう‐はかせ〔ゴキヤウ‐〕【五経博士】

前136年、中国武帝董仲舒とうちゅうじょ建言により、五経を教授し、文教をつかさどるために制定した学官

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精選版 日本国語大辞典 「五経博士」の意味・読み・例文・類語

ごきょう‐はかせゴキャウ‥【五経博士】

  1. 〘 名詞 〙 五経の文義に精通している学者。中国、漢の武帝が任じたのにはじまり、日本には継体・欽明両天皇の頃に百済から来朝した記録がある。五経の博士。ごきょうはくし。
    1. [初出の実例]「別に五経博士漢高安茂を貢りて」(出典:日本書紀(720)継体一〇年九月)

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改訂新版 世界大百科事典 「五経博士」の意味・わかりやすい解説

五経博士 (ごきょうはくし)
Wǔ jīng bó shì

中国,漢の太学教官。漢の武帝のときにはじまる。博士官はすでに秦代から存在したが,五経博士は五経のみを,しかもそれぞれ1経を専門に教授した。博士となることができたのは,王朝によって公認された学派に属する50歳以上の学者に限られ,学派の分立にともなって後漢代には14博士をかぞえたものの,彼らはすべて今(きん)文学者であった。
執筆者:

日本では〈ごきょうはかせ〉という。6世紀に百済から来朝した学者で,《易経》《書経》《詩経》《礼記(らいき)》《春秋》の五経に通じた人。513年(継体7),百済の五経博士段楊爾(だんように)が初めて来朝し,3年後に漢高安茂(あやこうあんも)と交替して帰国した。そののちも交替制によって五経博士が百済から貢上されたらしく,554年(欽明15)にも王柳貴(おうりゆうき)が固徳馬丁安(ことくまていあん)と交替したと《日本書紀》にみえる。このとき易・暦・医の諸博士や採薬師などの交替も行われているが,これは,いわゆる任那割譲の代償として,日本からの諸博士来朝の要請にこたえて,百済が交替制で五経博士以下を貢上させたもので,日本文化の発展に寄与した点が大きい。なお五経博士の名称は中国漢代の制に由来するが,のち日本ではこの名称は用いられず,五経等に通じた者に対し授けた明経(みようぎよう)博士の官名がほぼこれに当たる。
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百科事典マイペディア 「五経博士」の意味・わかりやすい解説

五経博士【ごきょうはくし】

中国,前漢時代におかれた官職。博士はすでに秦代からあり,〈古今を通じることをつかさどる〉ものであった。漢の武帝は前136年に董仲舒(とうちゅうじょ)の献言を入れて初めて五経博士をおいた。五経とは《易経》《書経》《詩経》《礼記》《春秋》という儒教の最も基本的な経典をいうが,すでに文帝・景帝時代にあった詩博士に加えて,四経の博士4名を任命した。のち計12名となり,後漢初めには14博士がたてられた。経典を解釈して教える教授としての五経博士の下に博士弟子員(50名)があって最高学府の太学(大学を参照)を構成した。博士弟子員(太学生)は年1度の考試を経て合格者が官僚となるシステムで,学生定員はのち3万余人にも達した。この制度により儒教を国家公認の学問とすると同時に,経典の解釈を国家が独占し文教政策上での思想統制を図った。このため,学者はもっぱら古典の復旧と注釈(訓詁(くんこ))に専念するようになった。なお,日本では6世紀,継体・欽明朝に百済(くだら)から五経博士が貢上され,交替で渡来して中国の経学を伝えた。→四書五経訓詁学

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「五経博士」の意味・わかりやすい解説

五経博士
ごきょうはかせ

百済(くだら)の官職名で、百済から大和(やまと)朝廷に派遣され、『易経(えききょう)』『詩経』『書経』『春秋(しゅんじゅう)』『礼記(らいき)』に精通し教授した儒学者をさす。『日本書紀』には513年(継体天皇7)百済は五経博士段楊爾(だんように)を貢したが、3年後に彼を帰国させ、かわって漢高安茂(あやのこうあんも)を貢したとみえる。また554年(欽明天皇15)百済は五経博士王柳貴(おうりゅうき)を貢し、固徳馬丁安(ことくめちょうあん)にかえた。五経博士の貢上は、512~513年に任那(みまな)割譲によって領土を拡大した百済が大和朝廷に与えた代償で、帰化ではなく年期を定めた貢上・交代制であった点に、百済からの文化輸入上画期的な意義をもっている。

[前川明久]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「五経博士」の解説

五経博士
ごきょうはかせ

儒教経典である「詩経」「尚書」「易経」「春秋」「礼記(らいき)」の五経を講じることを職務とする者。中国では五経の書目に違いがあるが,前漢の武帝がはじめておき,政治顧問としての役割をはたした。五経博士の制は南朝から百済(くだら)に入り,百済から6世紀の大和朝廷に段楊爾(だんように)・漢高安茂(あやのこうあんも)・王柳貴(おうりゅうき)らの五経博士が交代で派遣された。日本での具体的活躍は不明である。漢の五経博士や7世紀日本の国博士のように政治顧問の役割をはたしたのかわからないが,日本の支配者層に儒教が浸透していったことは想像される。おそらく儒教は彼らによって前代より体系的なかたちで日本に伝えられたであろう。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「五経博士」の意味・わかりやすい解説

五経博士
ごきょうはかせ
Wu-jing bo-shi

中国の前漢,武帝のときに設けられた教育の官職。儒学を国教化しようとした董仲舒 (とうちゅうじょ) の建策によって武帝の建元5 (前 136) 年に設けられた易・書・詩・礼 (れい) ・春秋の五経をそれぞれ専門に弟子に教える博士のこと。ただこれによって儒学の国教化が確立されたわけではなく,のちの宣帝から元帝にかけて宗廟や郊祀の祭りが儒学の礼によって行われるようになって初めて確立した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「五経博士」の解説

五経博士
ごきょうはかせ

6世紀前半,百済 (くだら) から来日した儒学の学者
百済の官職名で,五経とは『易経』『書経』『詩経』『春秋』『礼記 (らいき) 』をいい,これらにすぐれた学者を博士という。継体天皇の513年から交代で来日,儒学の教授としてわが国の学問の発達に大きく貢献した。

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旺文社世界史事典 三訂版 「五経博士」の解説

五経博士
ごきょうはくし

漢の文教を担当した官職
董仲舒の建言により,武帝が設置。五経の教授と普及を任務とした。

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