井ノ口村(読み)いのくちむら

日本歴史地名大系 「井ノ口村」の解説

井ノ口村
いのくちむら

[現在地名]新旭町安井川やすいがわ

東は安養寺あんようじ村・河原市かわらいち村、西は下古賀しもこが(現安曇川町)北井口きたいのくち村ともよばれた。安曇川の五番井である饗庭あいば井の取水口があるための村名で、もとは山口やまぐち村と称したという。天正一一年(一五八三)八月の杉原家次知行目録(浅野家文書)に「井口 あんやう寺 平井」とあり、高七八八石余。寛永石高帳に高二九四石余とあり、若狭小浜藩領。


井ノ口村
いのくちむら

[現在地名]玉穂町井之口いのくち

甲府盆地の中央部、釜無川・笛吹川の両川に挟まれた平地に位置する。東は紙漉阿原かみすきあわら(現昭和町)、西は上河東かみがとう(現同上)。村の北部に釜無川の流路跡がある。村名は井堰の口があったことによるか(甲斐国志)。慶長六年(一六〇一)検地帳(県立図書館蔵)では上田四町七反余・中田一〇町七反余・下田一〇町九反余・下々田一町四反余、上畑四町余・中畑七町六反余・下畑六町一反余・下々畑七反余、屋敷五千五〇七坪、桑四二把、熊蔵荒田一八歩・同荒畑一畝、堰堀引五畝余。慶長古高帳に井口とあり、高七三一石余、幕府領。貞享二年(一六八五)の検地帳(県立図書館蔵)では上田三町九反余・中田一三町一反余・下田一四町七反余・下々田三町五反余、上畑一町四反余・中畑三町八反余・下畑二町四反余・下々畑六反余、屋敷三町六反余で、高七二三石余。


井ノ口村
いのくちむら

[現在地名]安芸市井ノ口

一宮いちのみや村の北、妙見みようけん山北東麓に沿い、東は安芸川が流れる。「蠧簡集木屑」所収の土佐郡潮江うしおえ(現高知市)寿命院所蔵大般若経跋文に「応永第十三年六月吉日 安芸庄布師郷井口村一結衆楽結縁願主敬白」とあり、「和名抄」記載の古代の布師ぬのし郷に含まれた地で、中世には安芸庄内であったことが知られる。長宗我部検地も天正一七年(一五八九)の安喜庄地検帳にその大部分が含まれて記されるが、同帳には井ノ口村のほかに、江戸時代には同村に含まれる黒岩くろいわ横立よこだてが村として記される。


井ノ口村
いのくちむら

[現在地名]足助町追分おいわけ

ともえ川右岸に沿う山並が中断する辺り、巴川支流朝日あさひ川の両岸に広がる山麓の傾斜地に立地。東は近岡ちかおか村、南は田振たぶり村、西は中切なかぎり(現豊田市)、北は中立なかだち村に接する。村域中央を朝日川に沿って七里しちり街道・伊保いぼ街道が通る。現在、朝日川右岸の山麓を国道一五三号が、左岸の山麓を県道月原わちばら―追分線が通じる。井ノ口城跡が中央にある。朝日川へたち山から流れる谷川が合流する地点で、三方を川と湿地がめぐらす。街道との比高約二〇メートルの比較的低い小丘陵。


井ノ口村
いのくちむら

[現在地名]和歌山市井ノ口

名草なくさ郡に属し、禰宜ねぎ村の北にある。小名に王子橋おうじばし王子の窪おうじのくぼ瓜畑うりはたがある。「後鳥羽院熊野御幸記」建仁元年(一二〇一)一〇月八日条に「先出儲御禊所ワサ井ノクチ云々」とみえ、熊野街道の道すじにあたっていたことがわかる。文明元年(一四六九)一〇月の和佐庄田畠注文(葛原家文書)に「はたけ一反 いのく(ち)かいと」とあり、和佐わさ庄に含まれていた。

慶長検地高目録には村名はみえず、和佐村に含まれる。和佐組に属し、「続風土記」によれば高六九六石余、家数八〇、人数二六一。


井ノ口村
いのくちむら

[現在地名]中主町井口いのくち

五条ごじよう村の西、野洲川右岸の平地に立地。井口村とも書く。さんつぼの古代条里の数詞坪地名が残る。明応六年(一四九七)のいろいろ帳(安治共有文書)兵主ひようず一八郷の一として「井口村」がみえる。元亀三年(一五七二)三月一九日付の金森かねがもり(現守山市)の一向一揆に荷担しないことを誓約した起請文(水木文書)に「井口」の嶺月斎浄盛など五名が署名している。天正一九年(一五九一)四月の徳川家康知行目録写(大谷文書)に「井口」とみえ、高四四八石余。


井ノ口村
いのくちむら

[現在地名]福崎町西田原にしたわら

北野きたの村の北、いち川の左岸に位置し、神東じんとう郡に属する。北は同郡保喜ほき(現市川町)、西は市川を挟んで神西じんさい山崎やまさき村。生野いくの街道が通り、山崎村との間は渡船で往来した。井口・井之口とも記された。慶長国絵図に村名がみえる。正保郷帳では高七石余(畑方のみ)、「かや山有」と注記される。文化七年(一八一〇)の村明細帳(井ノ口区有文書)によると高二二石余、田二畝余・畑二町三反余。


井ノ口村
いのくちむら

[現在地名]加古川市東神吉町西井ひがしかんきちようにしいくち

砂部いさべ村の西、加古川下流域西岸の沖積平野に位置する。古くは「古田村」と称し、のち「平井口村」と改め、さらに井ノ口村と称するようになったという(増訂印南郡誌)。慶長国絵図に村名がみえ、正保郷帳によると田方二四〇石余・畑方六五石余。宝暦七年(一七五七)の村明細帳(糟谷家文書)によると、田一五町四反余・分米二八一石余、畑六町余・分米七六石余、新田畑一町八反余・分米一一石余、小物成は犬米・草藁銀など、扶持馬飼給料米二斗三升余、家数五七・人数三〇六。


井ノ口村
いのくちむら

[現在地名]和泉市井ノ口町・肥子ひこ町二丁目・府中ふちゆう町二丁目

井口とも書く。肥子村の南、槙尾まきお川の右岸にあり、熊野街道(小栗街道)が通る。同街道に祀られた王子が当地にもあり、「後鳥羽院熊野御幸記」建仁元年(一二〇一)一〇月七日条に「遅明猶取松明、出路、参井口王子此王子新王子云々」とみえる。また高山寺高弁は紀伊に下向の途中、同三年二月一九日に当地を通っている(施無畏寺文書)。嘉暦二年(一三二七)六月五日、御家人藤原清高なる者が「軽部郷北方番井口物部里」の地頭職を息女藤原福鬼女に譲与している(→軽部郷


井ノ口村
いのくちむら

[現在地名]岡崎市井ノ口町

青木あおき川の河口の南に位置し、東は百々どうど村、南は鴨田かもだ村、西は上里かみさと村・藪田やぶた村に接する。矢作川の沖積地に開けた沃野である。大樹寺文書の長禄四年(一四六〇)一一月二六日の状に「参河国額田郡大門郷井口」と記し、明応三年(一四九四)一〇月二八日の状に「額田郡井口郷」とある。天文二二年(一五五三)成稿の「今川記」によると、寛正年中(一四六〇―六六)に丸山中務入道父子・大場次郎左衛門・簗田左京が「井の口」に砦を構え、諸浪人を集め乱暴を働いたのを寛正五年五月、戸田宗光松平信光がこれを打鎮めたと記す。


井ノ口村
いのくちむら

[現在地名]上中町井ノ口

三宅みやけ市場いちば集落の西に位置し、九里半くりはん街道が通る。建久七年(一一九六)六月日付若狭国御家人注進案(東寺百合文書)に載る「井口太郎家清」は当地を本貫とした者か。地名は明通寺寄進札に散見し(大永二年八月八日付ほか)、弘治二年(一五五六)六月の明通寺鐘鋳勧進算用状(林屋辰三郎氏蔵)に「百文 井ノ口平衛門尉」とみえる。


井ノ口村
いのくちむら

[現在地名]山東町井之口いのくち

小田やないだ村の西、あね川南岸平地に立地。寛永石高帳に村名がみえ高三七五石余、彦根藩領(幕末に至る)。元禄八年大洞弁天寄進帳では人数三六七、うち寺社方六。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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