日本歴史地名大系 「今福村」の解説
今福村
いまふくむら
- 長崎県:松浦市
- 今福村
江戸時代ははじめ平戸藩領で、志佐筋に属する。慶長国絵図では今福村として高一千五一二石余。慶長九年(一六〇四)の平戸領惣目録でも同様。寛永二年(一六二五)に「今ふく妙光寺」が知行として高四斗余、「今ふく観音寺」は高五石余を宛行われている(「松浦隆信知行宛行状」宛陵寺文書)。正保国絵図では今福村として高五一〇石余、また今福浦は舟大小二〇艘ほどが係留できると記す。慶安二年(一六四九)の肥前国道法帳に船路として今福浦とみえ、平戸から一〇里で、御厨屋浦などと結ばれていた。寛文四年(一六六四)の松浦鎮信領知目録(寛文朱印留)でも今福村とあるが、同年から旗本松浦氏の所領となる。ただし元禄一二年(一六九九)の平戸領分郷村帳に今福村枝村
〔今福領〕
旗本松浦氏の所領は今福領と通称される。この松浦氏は、松浦隆信の三男親が相神浦氏を相続して相神浦松浦氏と称した家で、寛永一二年(一六三五)三代信貞のとき旗本になり、同一五年給米三〇〇俵を与えられ、寛文四年平戸領内の当村一千五〇〇石を分知された。
今福村
いまふくむら
今福村
いまふくむら
- 埼玉県:川越市
- 今福村
今福村
いまぶくむら
今福村
いまふくむら
今福村
いまふくむら
今福村
いまふくむら
今福村
いまふくむら
今福村
いまぶくむら
今福村
いまぶくむら
- 長崎県:佐世保市
- 今福村
今福村
いまふくむら
当村は「続風土記」が「人家、城下の町家并に諸士の邸宅と相接連するを以て村野の風習なし」というように、村落というよりは町場であった。享保一一年(一七二六)の在中作方諸事覚書(土屋家蔵)は「町支配之内高附」として、惣高六五石余のうち、七石七斗ほどに対応する地域が町支配という。その地域と内訳は「新堀川南ニ有之片原町之内大工忠兵衛借家ノ裏三方道限りニ而、北ハ忠兵衛家之裏限りニ而高四斗余有リ、新堀和歌道西北側町家神明迄之内高六石九斗八升か有り」であった。
今福村
いまぶくむら
- 京都府:宮津市
- 今福村
近世初頭京極氏時代は喜多村、南の
喜多・小田両村とともに、上宮津三ヵ村は藩の城に近い街道村として、日常雑用が多く苦しんだ(→喜多村)。
幕末期の戸口は四七軒、一九四人(与謝郡誌)。
今福村
いまふくむら
- 栃木県:足利市
- 今福村
北・東・西の三方を山丘に囲まれ、南東流する渡良瀬川が南を限る。北は
今福村
いまふくむら
今福村
いまふくむら
- 大阪府:和泉市
- 今福村
和気村の南、
今福村
いまふくむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報