今福村(読み)いまふくむら

日本歴史地名大系 「今福村」の解説

今福村
いまふくむら

[現在地名]松浦市今福町 浦免うらめん仏坂免ほとけざかめん坂野免さかのめん寺上免てらげめん東免ひがしめん北免きためん飛島免とびしまめんなど

調川つきのかわ村の東に位置し、東部に国見くにみ岳・人形石にんぎよういし山・石倉いしくら山などがあり、今福川が北流して海に注ぐ。御厨筋みくりやすじ往還が通る。東免に松浦氏の拠点となった梶谷かじや城跡があり、坂野免では松浦氏の始祖源久が隠居の居館とした地に宛陵えんりよう寺が建立されたという。久を祀るという今福神社・今宮神社があり、江迎えむかえに今福松浦氏と松浦勝を祀った若宮神社が鎮座。勝のものという墓、松浦盛の墓などを含めて松浦宗家の遺跡が多い。中世は今福浦などとみえる。天正一六年(一五八八)今福村の二人が伊勢参宮に赴いているが(「御参宮人帳」橋村家文書)、同一七年には大田治部少輔ら二人に御祓大麻が配られている(「御祓賦帳」同文書)

江戸時代ははじめ平戸藩領で、志佐筋に属する。慶長国絵図では今福村として高一千五一二石余。慶長九年(一六〇四)の平戸領惣目録でも同様。寛永二年(一六二五)に「今ふく妙光寺」が知行として高四斗余、「今ふく観音寺」は高五石余を宛行われている(「松浦隆信知行宛行状」宛陵寺文書)正保国絵図では今福村として高五一〇石余、また今福浦は舟大小二〇艘ほどが係留できると記す。慶安二年(一六四九)の肥前国道法帳に船路として今福浦とみえ、平戸から一〇里で、御厨屋浦などと結ばれていた。寛文四年(一六六四)の松浦鎮信領知目録(寛文朱印留)でも今福村とあるが、同年から旗本松浦氏の所領となる。ただし元禄一二年(一六九九)の平戸領分郷村帳に今福村枝村浦川内うらかわち村内一二石余は平戸藩領とある。天保郷帳では「古は浦河内村・滑波恵村・今福村・木場村四ケ村」と注記される。旧高旧領取調帳では高二千三九四石余で、これらの村を含むと考えられる。寛文一〇年かた新田の潮留が行われ、寛政一一年(一七九九)いわした新田、天保九年(一八三八)新町しんまち新田、文久四年(一八六四)はま新田の干拓が行われた(明治二年完成)。明治元年(一八六八)村内の平尾ひらお免が調川村に編入される。

〔今福領〕

旗本松浦氏の所領は今福領と通称される。この松浦氏は、松浦隆信の三男親が相神浦氏を相続して相神浦松浦氏と称した家で、寛永一二年(一六三五)三代信貞のとき旗本になり、同一五年給米三〇〇俵を与えられ、寛文四年平戸領内の当村一千五〇〇石を分知された。


今福村
いまふくむら

[現在地名]城東区今福〈みなみ一―四丁目・西にし一―六丁目・ひがし一―三丁目〉

蒲生がもう村の東にあり、村南部を西流する徳庵とくあん川が集落南西端で寝屋川に合流。集落北部を下辻しものつじ(現鶴見区)から流れてきた鯰江なまずえ川が西流、摂河八八ヵ村の悪水井路である榎並えなみ大久保おおくぼ門真庄かどまのしようはちしよう今津いまづ放出はなてんの各井溝が、当村三郷さんごう橋下の五ヵ閘門で落合い鯰江川に流入する。平安時代から榎並庄に含まれたとみられるが、室町時代には山城石清水いわしみず八幡宮領今福庄が成立。慶長一九年(一六一四)大坂冬の陣では、西軍が大和川右岸今福堤を三ヵ所切断し、柵を四重に設けた。付近には川幅が広いうえに周辺はすべて水田で、堤上のほかに通路がなかったためである。


今福村
いまふくむら

[現在地名]川越市今福・岸町きしまち砂新田すなしんでん

中福なかふく村の北、武蔵野台地上に立地。川越藩主松平信綱による武蔵野開発によって成立した新田村で、その中心となった村。幕末まで川越藩領。開発請負人は大塚おおつか新田出身の牛窪佐右衛門で、ほかに上奥富かみおくとみ(現狭山市)出身で武蔵野新田九ヵ村の開発割元となった志村次郎兵衛も慶安五年(一六五二)入植し、同時に飲料水用の井戸二つが掘られたり、鎮守梅宮天満宮(現菅原神社)が勧請された。明暦三年(一六五七)までに家数一八となった(寛文一二年「今福村開発人引移り証文」志村家文書)


今福村
いまぶくむら

[現在地名]高田町今福

西濃施にしのせ村の北、飯江はえ川下流左岸から愛宕あたご山北麓にかけての一帯にある。三池郡に属する。永正一五年(一五一八)四月二三日、「三池北郷今福原村若宮八幡大菩薩」に大檀那常陸守源(三池)親貞・施主弥次郎親信・願主平永主殿助貞家によって鐘が寄進された(「二尊寺鐘追銘」古鐘銘集成)。天文一九年(一五五〇)肥後の菊池義武大友義鎮と戦った時、大友方に属した田尻親種は七月二三日に「三池郡今福新開陣所」で菊池方多数を討取り、また捕虜としており(「田尻親種討死手負注文」田尻家文書/佐賀県史料集成七など)、同月二八日にはこの今福合戦での勲功を大友氏から賞された(「大友義鎮感状」同上)


今福村
いまふくむら

[現在地名]尼崎市今福一―二丁目・杭瀬北新町くいせきたしんまち一丁目・杭瀬寺島くいせてらじま一―二丁目・常光寺じようこうじ四丁目

かじしま村の北東に位置し、東は神崎かんざき川・左門殿さもんど川の分岐点を隔てて西成にしなり加島かしま村出作地(現大阪市淀川区)。正元二年(一二六〇)四月六日の摂津守中原師藤解(「妙槐記」文応元年四月一三日条)によれば、国内の要津「神崎・浜崎・杭瀬・今福・久岐」の住人らが権門勢家の寄人となり、その威をかりて在家役を免れようとする動きがあった。右の文書以外に当地が摂津の要津であったことを示す史料はないが、平安時代末期頃には神崎川河口の神崎や浜崎はまざきなどとともに重要な湊であったことは間違いないであろう。なお正応六年(一二九三)八月一日(「勘仲記」同年八月五日条)、康永四年(一三四五)一〇月一四日にも(「園太暦」貞和元年改元記)、同文の解が作成されている。


今福村
いまふくむら

[現在地名]田富町今福

釜無川と笛吹川の合流地点に近く、東は藤巻ふじまき村、南は笛吹川を挟んで市川大門いちかわだいもん(現市川大門町)に面し、西は今福新田村、北は西花輪にしはなわ村。永禄四年(一五六一)の番帳の三八番に「今福の禰宜」とみえ、当地の大輿おおこし神社神主をさすと考えられる。慶長六年(一六〇一)の検地帳(県立図書館蔵)では上田八反余・中田一町六反余・下田一町余・下々田一町六反余、上畑五反余・中畑二町・下畑九反余・下々畑三町余、屋敷一千八坪、ほかに永不作として下々田一町八反余・下々畑四町一反余。


今福村
いまふくむら

[現在地名]金城町今福

入野いりの村の南に位置し、南の久佐くざ村から久佐川が北流し、当村東部で家古屋かこや川に合流する。東西に石見安芸道が通り、一里塚には黒松が植えられていた。領主の変遷は追原おいばら村と同じ。元和三年(一六一七)の竹村丹後守引渡証文(亀井家記稿本)に村名がみえ、高五一八石余。古高も同高で、寛永一四年(一六三七)の検地高八一二石余。


今福村
いまふくむら

[現在地名]大垣市今福町・昭和しようわ

東を揖斐いび川が南流し、水門すいもん川左岸の低平地、大垣輪中の南部に位置する。北は難波野なんばの村。南に枝郷しま村があり(新撰美濃志)、同村は宝永元年(一七〇四)の濃州川々取払普請所絵図(林家蔵)では揖斐川・水門川の合流点、当村の輪中堤外にある。寛永二〇年(一六四三)に検地が行われたといわれ、大垣藩領として幕末に至る。正保郷帳に村名がみえ、田高三四八石余・畑高一七二石余(岩瀬文庫本正保郷帳では高三一四石余)。貞享二年(一六八五)の大垣領村々高帳では今福村六二七石余・島村一一八石余。元禄郡高寄帳には島村は新村と注される。天保郷帳には古くは今福村・島村二ヵ村と注され、高八三〇石余。


今福村
いまぶくむら

[現在地名]八女市今福・たつはら

室岡むろおか村・蒲原かまはら村の北、八女丘陵に開かれた村。地名としては中世よりみえ、永和三年(一三七七)四月日の某軍忠状(広峯文書/南北朝遺文(九州編)七)によれば、広峯氏は谷河たにがわ(現立花町)を経て「今福」に至り、土橋どばしを経て肥後国へと進んでいる。寛永二〇年(一六四三)善正ぜんしよう(現真宗大谷派)二世良慶が久留米藩に開発を出願、正保元年(一六四四)二月許されて開拓。新開地は蒲原村のうちで、善正寺の指導のもと百姓九人により田畑二五町余を開いたという(古代日記書抜)元禄国絵図に村名がみえ、無高と記される。「在方諸覚書」では古高三〇三石余・役高一二四石。


今福村
いまぶくむら

[現在地名]佐世保市三川内本町みかわちほんまち塩浸町しおひたしちよう三川内新町みかわちしんまち

折尾瀬おりおせ村の中ほどにあり、小森こもり川が流れる。北西に隠居かくい岳がある。永徳四年(一三八四)二月二三日の下松浦住人等一揆契諾状(山代文書)の四六人の署名中にみえる「させほのいまふく左京亮」は今福を拠点としていた者であろう。これより古く今福四郎定が正和三年(一三一四)彼杵そのき庄惣検注を行わず、年貢済物を抑留し、本所一円進止の乃万のうまん庄用田を押領したとされ(正和四年三月二七日「鎮西裁許状」尊経閣蔵東福寺文書)、鎌倉末期にも今福四郎(定)が訴えられている(嘉暦四年七月三日「東福寺領肥前国彼杵庄文書目録」正慶乱離志裏文書)


今福村
いまふくむら

[現在地名]和歌山市今福一―三丁目・堀止西ほりどめにし一―二丁目・西高松にしたかまつ一丁目

海部あま郡に属し、関戸せきど村の西に位置する。北は和歌山城下に続く。慶長検地高目録には村名はなく、関戸・西浜にしはまの出村であった(続風土記)。のち独立村として高付され、天保郷帳では村高一二四石余。江戸時代後期の家数六六、人数三四〇(続風土記)。雑賀組に所属。

当村は「続風土記」が「人家、城下の町家并に諸士の邸宅と相接連するを以て村野の風習なし」というように、村落というよりは町場であった。享保一一年(一七二六)の在中作方諸事覚書(土屋家蔵)は「町支配之内高附」として、惣高六五石余のうち、七石七斗ほどに対応する地域が町支配という。その地域と内訳は「新堀川南ニ有之片原町之内大工忠兵衛借家ノ裏三方道限りニ、北ハ忠兵衛家之裏限りニ高四斗余有リ、新堀和歌道西北側町家神明迄之内高六石九斗八升か有り」であった。


今福村
いまぶくむら

[現在地名]宮津市字今福

喜多きた村の東に位置する。

近世初頭京極氏時代は喜多村、南の小田おだ村とともに慶長検地郷村帳にみえる高一一八九・三石の「上宮津庄」に含まれ、宮津川上流地域の上宮津かみみやづ三ヵ村の一つであった。その後個別に高付され延宝三年郷村帳に「上宮津今福村」高一五〇・七六九石と記される。同九年(一六八一)の延高で一八五石余となった(天和元年宮津領村高帳)

喜多・小田両村とともに、上宮津三ヵ村は藩の城に近い街道村として、日常雑用が多く苦しんだ(→喜多村

幕末期の戸口は四七軒、一九四人(与謝郡誌)

地福じふく院は今は廃寺であるが、天台宗聖護院末の修験の寺で寛文九年(一六六九)の創立と伝える。


今福村
いまふくむら

[現在地名]足利市今福町

北・東・西の三方を山丘に囲まれ、南東流する渡良瀬川が南を限る。北は天狗てんぐ山を挟んで大岩村。足利ヶ村から切通しを経た道が村内を横断し、あずま坂を越えて西の五十部よべ村に至る。経籍訪古誌巻一所収の「礼記集説」奥書によると、同書は応永一一年(一四〇四)二月九日に足利庄「今福郷」で記されたとある。「足利長尾顕長家来」に当村の者として小河才兵衛(永三〇貫文)・秋山権九郎(同上)の名がみえる。寛永一〇年(一六三三)には下総古河藩領、正保元年(一六四四)分家の土井利長領となったと思われるが、寛文四年(一六六四)の土井利房領知目録に村名が載る。天和二年(一六八二)幕府領、元禄二年(一六八九)旗本六角領となり、幕末に至る。


今福村
いまふくむら

[現在地名]加古川市尾上町今福おのえちよういまふく尾上町旭おのえちようあさひ

備後びんご村の南東に位置する。北東から南西にかけて養田ようた川が流れる。慶長国絵図に村名がみえる。正保郷帳によれば田方四九六石余・畑方一九石余。享保一八年(一七三三)の免状(船津家文書)では高六三一石余、うち永引八石余。


今福村
いまふくむら

[現在地名]和泉市今福町・和気わけ

和気村の南、松尾まつお川の右岸にある。慶長一〇年(一六〇五)和泉国絵図に村名がみえ、高三〇八石余。寛永末年頃の状況を記したと推定される和泉国郷村帳では一二一石余、幕府領。元禄九年(一六九六)泉邦四県石高寺社旧跡并地侍伝によると、延宝検地高一二九石余。


今福村
いまふくむら

[現在地名]篠山市今福

西岡屋にしおかや村の北に位置する。慶長一三年(一六〇八)の多紀郡桑田津之国帳に「今福村」とみえ、高一三五石余。正保郷帳では田高一二一石余・畠高一四石。「丹波志」ではきた庄のうちで、高一六五石余。天明三年(一七八三)の篠山領内高並家数人数里数記では野尻組で、家数一五・人数六四。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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