仏通寺川沿いの深山渓谷に位置する臨済宗仏通寺派の本山。御許山と号し、本尊釈迦如来。「仏徳大通禅師愚中和尚年譜」によると、応永四年(一三九七)
仏通禅寺住持記(「三原市史」所収)によると、芸備両国の人夫を動員して工事が行われ、応永六年より一三年間で
嘉吉元年(一四四一)一二月二一日付の管領細川持之奉書(仏通寺文書)によると将軍祈願所となり、その頃とみられる欠年の一一月一二日付の東寺寺領内勧進奉加施行状案(東寺百合文書)に、将軍の命により東寺領内で仏通寺一切経の勧進が行われたとある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
広島県三原市にある臨済宗仏通寺派の本山。御許山と号する。仏通寺川沿いの深山幽谷の勝地にあり,域内に伝雪舟作の庭をもつ篩月(しげつ)庵,三級滝,聖民(しようみん)洞などの景地が多く,近世以降,文人墨客の清遊も多い。開創は1397年(応永4),沼田(ぬた)荘の地頭小早川春平が愚中周及(大通禅師)を迎え,一族の菩提寺として諸堂を建立。周及は同じ臨済でありながら権勢に密着した五山叢林の禅にあきたらず,元に渡って仏通禅師(即休契了)に師事し,その清新峻厳な禅風をついだ。この禅風は周及の弟子に相承され,愚中門派と呼ばれてその後の日本臨済界に異彩を放ったが,当寺は福知山(京都府)の天寧(てんねい)寺とともに,この愚中門派の拠点寺院である。寺名も仏通禅師の名に由来する。開創以来,小早川・毛利氏の保護厚く,伽藍堂宇も整備し,中世には塔頭(たつちゆう)50余ヵ寺,末寺も備後吉舎(きさ)の大慈寺,安芸吉田の大通寺,周防富田の禅雲寺など12ヵ国に散在し,寺運は興隆した。近世やや衰微し,また1796年(寛政8)火災にあい,仏殿以下の現堂宇の大部はその後の再建である。ただし地蔵堂は1411年(応永18)建立で重要文化財。1406年の創建でその後幾度か修築された含暉(がんき)院開山堂は,周及の木像を安置した塔所である。多くの寺宝中,周及自賛の大通禅師画像は付属の大通禅師消息とともに重要文化財に指定されている。
執筆者:藤井 学
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
広島県三原(みはら)市高坂(たかさか)町許山(もとやま)にある臨済(りんざい)宗仏通寺派の本山。御許(みもと)山と号する。本尊は釈迦如来(しゃかにょらい)。1397年(応永4)沼田(ぬた)城主の小早川美作守(こばやかわみまさかのかみ)春平が、夢窓疎石(むそうそせき)の弟子愚中周及(ぐちゅうしゅうぎゅう)を開山として開創した。周及は元(げん)に渡って金山寺の即休契了(そくきゅうかいりょう)に師事し、師の号が仏通大徳であったところから仏通寺と名づけ、即休を勧請(かんじょう)開山として第1世とし、自身は第2世と称した。室町時代、足利(あしかが)幕府の帰依(きえ)を受けて祈願護国寺と称し、小早川氏、芸州浅野氏の外護(げご)によって栄え、末寺3000寺を数え、堂塔はたびたび改修された。1905年(明治38)末寺約50か寺をもつ独立の本山となった。本尊の釈迦如来像は開山の周及が元から将来したもの。愚中周及の塔所含暉(がんき)院地蔵堂、絹本着色大通禅師像は国重要文化財。開山堂、雪舟(せっしゅう)が寓居(ぐうきょ)したと伝える篩月庵(しげつあん)、雪舟作と伝える庭園などがある。
[菅沼 晃]
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