日本では他人の家に寄食する人,たとえば師匠の家に住みこみ,雑用をしながら食事と勉学の機会を与えられている書生などを含めて,ひろく食客という。中国では有力者の門に召しかかえられる寄食者,居候をさし,門客,門下客などともよばれる。春秋戦国時代の社会変動の中から放出された多数の浮動的な士や遊民は,一定の生業をもたないために,個人の才能だけをたよりに有力者に仕えざるをえず,他方,諸侯や貴族も彼らを集めて勢力をのばす必要があった。孟嘗君(もうしようくん)らの四公子がそれぞれ食客数千人を養ったのは有名で,その中の知識分子は〈文学遊説の士〉,武芸に秀でた勇者は〈俠客〉であり,鶏の鳴き声を巧みにまねる能力だけで仕えたものもいた。食客の活躍はこのころを頂点とするが,有力者の門に寄食して栄達の機をねらう門客はその後も絶えず,科挙制が施行されてからは,それに落第した学者や文人が地方長官や有力者に召しかかえられ,その私財から報酬を受けて顧問役を務めたり,その官庁の事務処理を補佐することは近代まで続く。〈幕客〉〈幕友〉がそれで,食客の一種である。
→居候
執筆者:川勝 義雄
アラブ社会では7世紀末から,総督その他の有力者が私的軍団を持ち始めた。兵士の大部分は解放奴隷,逃亡農民からなる非アラブのマワーリーであったが,上層部には有力者と同じ部族に属するアラブのアスハーブaṣḥāb(仲間)および選ばれたマワーリーがおり,ともに有力者の最も信頼する腹心の部下だった。有力者はつとめてアスハーブおよび選ばれたマワーリーと食事をともにし,財貨を分け与え,必要の際の忠誠を期待した。アッバース朝第2代カリフのマンスール(在位754-775)は,ウマイヤ朝時代のシリア軍将軍のほか若干の学者,ウマイヤ家の一族をバグダードの円城内に住まわせて優遇し,彼らは預言者ムハンマドの教友にちなんでサハーバとよばれた。第3代カリフのマフディー(在位775-785)は,メディナからアンサールの子孫500人を招き,サハーバと同じく扱った。サハーバの一部は地方で総督や軍司令官となったが,大部分は高級官僚およびカリフの相談相手で,同じく円城内に住んで機密の任務にあずかったマワーリーとともに,カリフのとくに信頼する腹心であった。サハーバは第5代のハールーン・アッラシード(在位786-809)以後,ハーッスkhāṣṣ(寵臣)とよばれた。このころカリフの厨房は特別厨房と一般厨房とに分けられ,カリフ,その一族,ナディームnadīm,臨時の客人だけが前者から食膳を供された。ナディームはハーッスから選ばれた〈飲み友だち〉であったが,学者,医師,詩人,文人,書記などを含むことがあり,のちには酒宴の席の道化師をもナディームとよんだ。
執筆者:嶋田 襄平
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
…非親族的成員の多くは契約にもとづく奉公人,名子(なご),番頭,丁稚(でつち)などであったが,これ以外にも居候とよぶ同居人がある。居候とは多くの地方で不意の食客を意味し,カンナイド,ケンナイド,ケイナイヤツ,ケナイドなどの民俗語彙でよばれていた。ケはハレに対する日常の意味であり,とくに大和地方ではケナイドは〈招かざるに来て食事などをする客〉の意味であり,ここでは居候の存在は喜ぶべきものではなかった。…
…天子は諸侯を賓礼によって遇し,賓客は礼遇すべきものと観念される。しかし春秋戦国の変動期以後,主家に寄食する〈食客〉がふえると,賓客に対する処遇にも格差が生じ,またその中に〈俠客〉の要素も加わって,やがて客や賓客が居候・とりまきの意味を帯びてくる。さらに主家に傭われて働く〈傭客〉,土地を失って豪族や地主の小作人となる〈田(佃)客〉や〈荘客〉,はては衣食を支給される代りに労働の成果をすべて主家に取られる〈衣食客〉まで現れる。…
※「食客」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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