社会全体の利益,社会全員の共存共栄,配分的正義の理念,個々の利益が調和したところに成立する全体の利益,人権相互の衝突を調整する原理としての実質的公平の原理などと定義づけられる。古代ギリシア以来,法と国家にかかわる根本問題の一つとされてきたテーマであり,かつ,歴史的・社会的に規定されてきた概念なので,きわめて多義的である。
歴史上重要な憲法的文書に現れたものとしては,近代憲法の最初のものとされるバージニア権利章典3条(1776)に〈共同の利益common benefit〉,アメリカ合衆国憲法前文(1787)に〈一般の福祉general welfare〉,フランスの1789年人権宣言前文に〈全体の幸福bonheur de tous〉,1793年憲法に付された人権宣言に〈共同の幸福bonheur commun〉などの語が用いられている。ドイツでは,初の社会国家憲法であるワイマール憲法(1919)に〈公共の福利öffentliche Wohlfahrt〉が用いられたが,ナチス時代に私益に優先する〈公益Gemeinnutz〉が全体主義のシンボルとして用いられたことに対する反省から,ボン基本法(1949)では,人権に限界をおく場合に一般的不確定概念を用いないようにする努力がはらわれている。しかし,公共の福祉という語は,社会国家・積極国家としての福祉国家という性格を持つ現代の国家においては,国政ないし人権保障の指導理念として,しばしば用いられている。
もともと公共の福祉ないし〈公共の安全salūs publica〉の概念は,近代以前の警察国家,絶対主義国家としての福祉国家の時代に,権力が個人のいっさいの生活領域に介入する旗じるしとして用いられたものであった。したがって,絶対主義国家の否定のうえに成立した自由国家,消極国家においては,個人の権利自由こそが絶対的意味をもち,自由は〈他人の権利を害さないすべてをなしうる〉権利(フランス人権宣言4条)であり,そこで用いられた〈共同の利益〉〈一般の福祉〉等の概念は,個人を超越するものではなく,個人の絶対的権利といえども他人の権利を無視して行使しえないという制約を意味しただけであった。このことは,人権を制約するものとして,個人を超越し,それと対立する一般概念が存在することを批判し,超克する観点の成立を意味する。
日本国憲法は,国民の人権の利用責任を定める12条(〈国民は……常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ〉),国政上の人権尊重の限界を定める13条(〈公共の福祉に反しない限り,立法その他の国政の上で,最大の尊重を必要とする〉),居住,移転,職業選択の自由を定める22条(〈何人も,公共の福祉に反しない限り,居住,移転及び職業選択の自由を有する〉)および財産権に関する29条(〈財産権の内容は,公共の福祉に適合するやうに,法律でこれを定める〉)の4ヵ条で公共の福祉という語を用いた。この憲法における公共の福祉の理解の前提になるのは,この憲法が現代憲法として自由国家的人権のほかに社会国家的人権を定めていること,旧憲法時代の経験を反省して,人権保障を徹底するために〈安寧秩序〉や〈公益〉などの超個人的概念による人権の制限と〈法律の留保〉を廃したことである。したがって,日本国憲法における公共の福祉は,個人の人権と対立する超個人的概念ではなく,人間の尊厳の理念に導かれた個人の人権尊重を内包するものであり,自由国家的原理と社会国家的原理を含むものである。しかし各条項の解釈に関しては,多くの説がある。
第一説は,12条,13条の定める公共の福祉を,一般概念のままですべての人権に対する制約原理とみる考え方である。第二説は,12条,13条を訓示規定と解して,そこに定められている公共の福祉は人権に対する制約原理ではないとする。ただ,公共の福祉による制約の明文をおく22条,29条の場合は,人権が公共の福祉による制約,すなわち政策的制約をうけることを認める。この説も22条,29条以外の人権といえどもすべて内在的制約があり,濫用は許されないと説く。第三説は,論者によって異なる点がいろいろあるが,おおむね,第一説を変容し,第二説の趣旨を生かそうとするもので,公共の福祉をすべての人権に対する制約原理とするが,これを厳密に解し,個別的に検討すべきだとする方向にあるものである。
第一説は,日本国憲法の制定後,まだ間がない時期の判例等にみられた考え方であるが,この立場を支持するものは,しだいに少なくなってきている。人権に優越する全体の利益という思考に結びつきやすいことなどの欠点からである。第二説は,人権の尊重を重視するもので,その趣旨は多くの支持者を得ているが,13条を訓示規定と解することなどに批判がある。13条は,個人の人格的生存にかかわる権利を包括的に保障する規定として,プライバシーの権利や環境権などの根拠規定とされるようになってきているからである。また第二説は,公共の福祉による一般的人権制約を否定するが,すべての人権について内在的制約を認めるので,内在的制約を公共の福祉と呼べば結局同じことになり,第二説と第三説は,実際の適用上はあまり差がない結果になっている。
内在的制約を公共の福祉と呼ぶときは,人権は一般に公共の福祉の制約を受ける。しかし,22条,29条の公共の福祉は,福祉国家を実現する政策のために一定の自由が制約を受けることがあることを示す原理(政策的制約原理)を表現するものであり,自由とりわけ経済的自由の原理のうえに経済的発展をとげた近代社会が生みだした社会問題を解決するための法原理を表現している。このことは,公共の福祉の解釈の多様性を示す。したがって公共の福祉は,各人権につきその性質に応じて,制約の種類と限界を精密に検討することによって内容を確定しなければならない。この考え方から,すでに多くの判断基準(たとえば〈明白かつ現在の危険〉の原則,最小限制約の原則等)が定立されている。
公共の福祉の立法例をみると,まず,多くの実体的行政法規(都市計画法1条,建築基準法1条等)や手続的行政法規(行政事件訴訟法25,27条等)が,これを明文でうたっている。取締法規は,明文はなくても公共の福祉の維持増進が目的とされ,自由の規制を内容としていることはいうまでもない。労働法の分野では,国営企業労働関係法(1条1項),スト規制法(略称。1条)などに登場し,国家公務員法(96条),地方公営企業労働関係法(1条)などには,類似の概念が用いられている。企業活動を規制する独占禁止法は〈公共の利益〉のために私的独占や不当な取引制限の禁止を定める。民法が,〈私権ハ公共ノ福祉ニ遵フ〉(1条)としたのは,私権が政策的制約のもとにたつことを明言したものである。これらのうち,取締法規や労働立法の制定,解釈,運用に際して,公共の福祉が,人権と対立する超個人的な抽象的な観念として作用させられることがままあったが,憲法は前述のような法原理にたつものであるから,憲法の精神に反するような立法や法解釈は,厳しく批判されなければならない。
執筆者:萩野 芳夫
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個人の個別的利益に対して、多数の個々の利益が調和したところに成立する全体の利益をさす。法哲学や国家論の根本問題の一つで、古くはアリストテレスやトマス・アクィナスが唱えて以来、論議されてきた観念である。
人間の生活は本質的に社会生活であるが、個人の利益を貫けば社会生活が成り立たず、社会の利益だけを考えると、個人の利益が踏みにじられることがある。このように個人の利益と社会の利益が矛盾する場合に、両者の調和が必要となる。ここに公共の福祉の観念が成立する。しかし、個人の利益に優越する社会全体の利益を重視する観点から、歴史的には有機体的国家観や全体主義の思想の理論的支えとして多く用いられた。とくに17~18世紀の絶対主義において、貴族や市民の抵抗を排する必要から、君主の権力確立のために、全体の利益への奉仕が主張された。20世紀に入って、福祉国家の思想が強調され、これとは別な新しい観点にたって、ふたたび公共の福祉が唱えられるようになった。
もともと人間としての権利や自由が、恣意(しい)なものとしての自由、権利を意味しない限り、公共の福祉の観念を否定することはできない。1789年のフランス人権宣言で、「自由は他人を害しないすべてのことをなしうることに存する。各人の自然的権利の行使は、社会の他の構成員に同種の権利を確保せしめることのほかには制限を有しない」と述べているのも、個人の権利に内在する制約を明らかにしたものといえる。日本国憲法第13条も、人権は「公共の福祉に反しない限り」最大の尊重を必要とすると規定している。しかし、人権の制約原理として公共の福祉を一般的に認めると、公共の福祉を理由に、人権が不当に制限される危険が生じやすい。そのうえ、公共の福祉は具体的内容をもたない漠然とした観念であるために、ときとして政府や有力な党派による一方的な解釈が、この観念に与えられる懸念が大きい。たとえば、ナチス・ドイツの標語であった「公共の福祉は個別利益に優先する」は、全体主義における全体の利益の優先を意味する。しかし、日本国憲法で規定された公共の福祉の観念はこの意味とはまったく異なり、あくまでも個人主義的な理念に立脚する観念である。
1965年(昭和40)ごろまでは、最高裁判所において基本的人権を制限する立法の合憲性の根拠として、公共の福祉の観念が引き合いに出されることが多かったが、多くの学説による批判を受けて、それ以後は、制限を受ける基本的人権とその制限によって得られる利益とを比較衡量するという手法を用いるようになった。この観点からは、基本的人権相互間、あるいは基本的人権と社会的利益の間の矛盾、衝突を調整する実質的公平が公共の福祉の内容をなすといえる。
[池田政章]
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…そして特別の法律関係の内部において人権の侵害が問題となるときは,法治主義の原理に従って司法的救済の途が開かれていなければならない。
[基本的人権の制限,公共の福祉]
法律の範囲内でのみ人権が保障されていた明治憲法と比べ,日本国憲法は人権の保障をいちじるしく強化した。しかし,そこにおいて,人権の制限はまったく認められないであろうか。…
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