公文村
くもんむら
[現在地名]満濃町公文
西高篠村の北、如意山(一五七・八メートル)南東の平地に位置する。地名は平安期にこの辺りが橘氏の庄園となり、公文職(所)が置かれたことにちなむと伝える(「高篠八幡宮由来」金関文書)。如意山の南の山麓から弥生式土器が多数出土し、公文山一帯は古墳が多い。文保二年(一三一八)三月一五日の島津忠宗譲状(島津家文書)で、一期分として女子大むすめに譲られた櫛無保内公文名は、当地または一帯に存在した名か。同名はのち惣領の貞久に帰し、のち島津氏の所領として南北朝期の歴代の譲状(同文書)にみえる。
公文村
くもんむら
[現在地名]一宮町公文
揖保川支流の公文川・東公文川の流域に位置する。三方谷最大の面積を有し、南は森添村など。村名の由来は中世の三方庄の庄官(公文)の居所があったことにちなむと考えられる。慶長国絵図に村名がみえる。領主の変遷は生栖村と同じ。正保郷帳では田方五一五石余・畠方一八八石余。天保郷帳では高七三〇石余。下村氏手控帳(下村家文書)によると、寛文―延宝(一六六一―八一)には田二六町二反余・畑二三町七反余、家数五四・人数三四四、馬一一・牛五七、小物成は桑役(真綿)四貫七〇〇匁のほか紙舟役・楮役など。
公文村
くもんむら
[現在地名]御調町公文
綾目村の東部に位置する山村で、御調川の支流山田川に流入する綾目川の中流域に開けた緩傾斜地を中心に耕地が広がり、北部は山地。中央部を石見路(赤名越)が南北に通じ、一里塚があった。
元和五年(一六一九)の備後国知行帳に「九文村」とあり、高一八五・〇七九石。「芸藩通志」によると、畝数三三町七反余、高二五四・四九一石、戸数五〇・人口二七七、牛五三・馬一二、神社に明現社ありと記す。
公文村
くもんむら
[現在地名]東伯町公文
山崎村の南、洗川中流域の山沿いに位置する。村域は洗川東岸の前公文と西岸の森一帯にわたる。一五世紀後半の年未詳三月二一日付尼子清定寄進状(光徳寺文書)に「伯州八橋郡上郷公文村」とみえる。藩政期の拝領高は二四六石余。藪役銀四匁が課されていた(藩史)。幕末の六郡郷村生高竈付によれば生高二五三石余、竈数二八。
公文村
くもんむら
[現在地名]芦原町公文
竹田川南岸にあって、宮前村を東西に二分するように南北に細長く延びる。「朝倉始末記」に、永正三年(一五〇六)一〇月、加越の一向一揆が越前に侵入した際、豊原寺(跡地は現丸岡町)の明王院が「真先ニ懸合テ戦シ忠賞ニヨツテ、河口ノ庄新郷ノ公文分を給リケルト也」とある公文は当村のことであろう。
慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では河口庄新郷内に含まれるから、新郷の公文(荘官)の門田が近世に一村をなしたと考えられる。
公文村
くもんむら
[現在地名]大東町中
下方村の北に位置する。中世は中村郷に属したとみられる。江戸時代の領主の変遷は来福村に同じ。正保郷帳に村名がみえ、田方五五三石余・畑方六九石余。「遠淡海地志」によると家数六〇。高天神城落城の際、武田勝頼の大文字の旗を当村の松に立てたのでこれを旗差松といい、ここから高天神城大手まで約二〇町の道を陣街道と称する。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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