分子スペクトル(読み)ぶんしすぺくとる(英語表記)molecular spectrum

日本大百科全書(ニッポニカ) 「分子スペクトル」の意味・わかりやすい解説

分子スペクトル
ぶんしすぺくとる
molecular spectrum

分子が吸収または放射する光のスペクトルラマン散乱によるラマン・スペクトル(後述)も分子スペクトルに含めることがある。希ガスのような一原子分子(単原子分子)の場合は分子スペクトルとはいわない。

[酒井康弘 2017年3月21日]

分子スペクトルの種類

原子スペクトルの場合と同様に、吸収または放射される光の光子エネルギーは、遷移に関与する二つの状態のエネルギー差に等しい。ただし、分子内部のエネルギー状態には、電子状態、振動状態、回転状態があるため、分子のエネルギー準位は近似的に、電子系のエネルギー準位、振動のエネルギー準位、回転のエネルギー準位に分けられる。これらの和が分子全体のエネルギーとされる。各準位間のエネルギー差は、電子系のエネルギー準位では数eV(電子ボルト)、振動準位では10-1eV、回転準位では10-2~10-3eV程度である。これらのエネルギー準位に対応してスペクトルが存在するため、回転状態間のみの遷移によるスペクトルは、マイクロ波から遠赤外の波長領域に現れる。これは純回転スペクトルとよばれる。異なる振動状態間の遷移には同時に回転状態の変化を伴い、通常、赤外領域に系統的に並んだ多数の線からなる帯(たい)スペクトル(バンド・スペクトル)を生ずる。これは回転振動スペクトルとよばれる。電子状態間の遷移では、振動状態・回転状態の変化が同時におこり、可視領域から紫外領域に規則性をもって密集して並ぶ多数の帯系からなる帯スペクトルをつくる。これは電子項スペクトルとよばれる。

 高分解能の分光器を用いることで、二原子分子ではバンドのなかの回転線を分離できることもあるが、多原子分子ではその振動モードが多いために振動バンドが重なることや、回転線自体が多いことにより、通常の方法では分離して観測することはむずかしい。また、遷移に関与する一方の準位が、反発型ポテンシャルをもつ連続状態である場合や電離状態である場合には、連続スペクトルになる場合もある。

[酒井康弘 2017年3月21日]

分子スペクトルの分光学的研究

分子スペクトルの分光学的研究は、分子の電子状態、振動状態、回転状態を記述するための情報、つまり電子項(タームシンボル)の種類や多重度、解離極限、平衡核間距離、振動定数、回転定数などを与え、物質の性質や反応の研究に役だつものである。分光手段としては、紫外・可視領域ではプリズム回折格子を用いて空間的に光を分割してその強度を測定する分散型分光計が用いられる。一方、赤外領域では干渉計を用いて非分散で透過または反射した光を検出し、それをフーリエ変換してスペクトルを得るフーリエ変換型赤外分光光度計(FT-IR)がよく用いられている。2000年以降はFT-IRにかわるデュアルコム分光計が登場し高分解能分光に新たな道を開いた。デュアルコム分光計の基本原理はFT-IRに類似していて光の位相情報を利用しているが、パルス間隔の異なる2台の超短パルスレーザー(光コム。光周波数コムともいう)を用いて相対位相変化をつけているので、FT-IRに比べてデータ取得時間が桁(けた)違いに短縮されている。

 分子の電子状態は、原子の場合と同様に軌道角運動量やスピン角運動量の量子数などの組合せによりタームシンボルとして表される。二原子分子の場合、個々の電子は分子軸(二つの原子核を結ぶ軸)に対して方向量子化(角運動量のある軸への射影成分が、とびとびの値をとること)されていると考え、この分子軸への射影成分の和Λ(ラムダ)とスピン角運動量の合計Sを用いて、原子スペクトルの場合にならって2S+1Λのように書く。Λ=0, 1, 2,……の項に対しては、原子の場合のS、P、Dに対応したギリシア文字Σ(シグマ)、Π(パイ)、Δ(デルタ)の記号を当てはめる。左肩の2S+1は原子スペクトルの場合と同様、多重度である。水素や窒素分子のような等核二原子分子では、二つの原子核の入替え(反転対称性)に関する符号の変化の有無に対応してg(gerade:ドイツ語で偶の意)またはu(ungerade:ドイツ語で奇の意)を右下に付す。またΛ=0のΣ状態においては、全電子軌道の分子軸を含む面における鏡面対称性の符号の変化の有無に対応して「+」または「-」を右肩につけて表す。原子スペクトルの場合、これらの電子項の前に主量子数nをつけることが一般的であるが、分子スペクトルではアルファベットが使われる。分子の場合、もっとも低いエネルギーをもつ電子基底状態は電子項の前にXをつけて他の準位と区別し、原則として基底状態と同じスピン多重度をもつ電子励起状態に対してはエネルギーの低い順にアルファベットのA、B、C、……を、異なるスピン多重度をもつ電子励起状態に対しては小文字のa、b、c、……をつけて表す。電子状態間の遷移では同時に振動状態、回転状態も変わるので、分子スペクトルは帯スペクトルを形成し、振動励起、回転励起を示す構造は、それぞれの電子項の属するシリーズとして観測される。電子項スペクトルの研究は、分子の電子状態の情報を通して化学反応の研究にも役だてられている。

 分子の振動状態は分子の共鳴振動数、解離エネルギーおよび振動量子数(v=0, 1, 2,……)で表される。多原子分子では、分子軸の方向の伸縮振動のみでなく、結合角の変化する変角振動もおこる。N個の原子からなる多原子分子は、3N-6(直線分子の場合は3N-5)個の基準振動をもつため多くの振動形態があり、スペクトルは非常に複雑になる。なお、振動状態や回転状態を表すエネルギーの単位には波数cm-1を用いることが一般的である。振動スペクトルの測定は分子の対称性を調べ、分子構造を決定するのに役だてられる。一方、分子の回転状態はその分子に固有の回転定数と回転量子数により決まる。回転スペクトルは、分子の回転定数を測ることによりその慣性モーメントが得られ、平衡核間距離などを調べるのに役だてられる。

 電子状態間の遷移を伴わない回転振動スペクトルでは、一つの振動状態に伴って多くの回転線が現れ、前述したように帯スペクトルを形成する。多原子分子では、回転の量子数JJ=0, 1, 2,……)の変化に伴い、ΔJが-1、0、+1の回転線のシリーズ、すなわちP枝、Q枝、R枝が観測される。分子の電子状態によっては、ΔJ=0が禁止されQ枝は観測されないこともあり、等核二原子分子では選択則によって回転振動スペクトルは現れない。また、等核二原子分子をはじめ、球対称こま形分子は永久双極子モーメントをもたないので、回転状態間のみの遷移による純回転スペクトルは観測されない。

[酒井康弘 2017年3月21日]

ラマン・スペクトル

回転振動スペクトルは、赤外領域の光の吸収、発光スペクトルだけでなく、ラマン・スペクトルにも現れる。ラマン・スペクトルは、光の吸収、放射によるものではなく、ラマン散乱(ラマン効果)によるものである。ラマン散乱は物質による光子の非弾性散乱の一種であり、インドの物理学者C・V・ラマンにより1928年に初めて観測された。ラマン散乱のおこりやすさ(散乱断面積)は通常の吸収断面積に比べてかなり小さいので、従来は分子スペクトルの研究に応用するのは困難であったが、レーザーの普及により物質の研究に用いられるようになった。光子が物質により散乱されるとき、大部分はエネルギーの変化を受けないレイリー散乱とよばれる弾性散乱となる。しかし、一部は物質との相互作用によってエネルギーが変化した光子となって散乱される。物質にエネルギーを与え、その分のエネルギーが減少した光子として散乱される場合と、物質からエネルギーを受け取り、その分のエネルギーが増加する場合がおこりうる。前者はラマン・スペクトル中ではストークス線とよばれ、後者はアンチ・ストークス線とよばれる。ラマン散乱では、普通の光吸収過程(電気双極子遷移とよばれ、双極子が変化する遷移)とは異なり、分極率が変化する遷移であるために遷移に関する選択則が異なるので、分子の振動や回転の研究には通常の吸収分光法では得られない情報が得られる。たとえば、前述のΔJが-2、+2であるO枝、S枝も観測される。ラマン・スペクトルは、とくに赤外吸収分光では測定のむずかしい水溶液を対象とした研究や、固体物性の研究に有力な情報を与える。

[酒井康弘 2017年3月21日]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「分子スペクトル」の意味・わかりやすい解説

分子スペクトル
ぶんしスペクトル
molecular spectrum

分子のエネルギー準位間の遷移によって生じるスペクトル。分子のエネルギー準位は近似的に電子のエネルギー準位,振動のエネルギー準位,回転のエネルギー準位に分けられ,それぞれのエネルギー種別内の準位間の遷移に対応して電子スペクトル,振動スペクトル,回転スペクトルが観測できる。外殻電子の電子スペクトルは可視部,紫外部に現れ,3種類のスペクトルのうちでは最も短波長側に観測される。振動スペクトルはおもに赤外部,回転スペクトルはマイクロ波領域に現れる。これら分子スペクトルは,分子の構造決定や結合状態,電子構造解明に重要な役割を果す。 (→赤外線吸収スペクトル , 電子帯スペクトル )

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