定額寺(読み)ジョウガクジ

デジタル大辞泉 「定額寺」の意味・読み・例文・類語

じょうがく‐じ〔ヂヤウガク‐〕【定額寺】

平安時代、朝廷が特に数を限り官寺に準じて制定した寺。私寺の乱造を防ぎ統制を強めるために制定したもので、官稲を受けた。

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精選版 日本国語大辞典 「定額寺」の意味・読み・例文・類語

じょうがく‐じヂャウガク‥【定額寺】

  1. 〘 名詞 〙 奈良・平安時代以降、官寺に準じて鎮護国家を祈らせた寺。官寺待遇を願い出る寺が多かったことと、私利を営む私寺の濫造を防ぐこととのために置かれたもので、官稲を賜わった。平安後期以降有名無実化した。
    1. [初出の実例]「自余定額寺、寺別一百町」(出典:続日本紀‐天平勝宝元年(749)七月乙巳)

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日本歴史地名大系 「定額寺」の解説

定額寺
じようがくじ

[現在地名]姫路市花田町小川

東西に走る国道三七二号の北方に位置する。金剛山と号し、黄檗宗本尊観音菩薩縁起によると、真言宗巨刹で定額山金剛こんごう寺と号し、勅願所で牛堂山国分寺別院であったという。戦国末期の小寺氏と別所氏による合戦で庄山しようやま城の落城とともに灰燼に帰した。元和三年(一六一七)臨済宗金剛山定額寺として再興、宝永五年(一七〇八)雲松うんしよう寺から楊宗英を招いて中興開山とし、享保三年(一七一八)六間半×五間の重層楼閣造の純黄檗様式の仏殿を建立して黄檗宗に改宗した。

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改訂新版 世界大百科事典 「定額寺」の意味・わかりやすい解説

定額寺 (じょうがくじ)

奈良~平安時代に官大寺,僧寺と尼寺の国分二寺の次に位置づけられた寺院。字義については寺額の公許=公認寺院の意,一定の数を限って設けられた意とする説などがある。716年(霊亀2)発布の寺院整理の詔に私寺が争って題額を求めたとある。749年(天平勝宝1)諸寺墾田数が定められ,定額寺100町とされたが,この時点で定額寺についての具体例は存在しない。しかし延暦年間(782-806)以降定額寺は急増し,貴族,僧侶,地方豪族の私寺が次々に奏請して定額寺に列せられた。律令政府による保護と統制は強化され,国家から修理料,灯分料の施入があり,経営については国(国司,講師)と寺院(別当,三綱(さんごう))と檀越(だんおつ)が検校し,官寺の末端に位置する存在として国家の繁栄と安穏を祈った。地方定額寺のなかには,国分寺焼失の代りに国分寺となる例もみられる。律令体制の解体にともない,定額寺の存在理由は失われ,990年(正暦1)尋禅建立の叡山妙香院を最後に定額寺の奏請は後を断った。
官寺
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「定額寺」の意味・わかりやすい解説

定額寺
じょうがくじ

奈良,平安時代の寺格の一種。 500~1000束の灯分稲が国から支給され,これを出挙してその利息を灯油料とし年分度者をおいた。その起源は天武9 (680) 年,諸寺の食封の点検を行なって寺の名を定めたことにあると思われる。その目的は私寺濫造の弊を正し,国家統制を加えることにあった。天平勝宝1 (749) 年定額寺の墾田は 100町と定められた。9世紀以後,定額寺の数は次第に増加し 10世紀末頃には 60ヵ寺にものぼった。親王,大臣らの本願寺で定額寺でないものはないほどであった。律令制の崩壊とともに国家の恩典が得られなくなると,申請する者もなくなった。

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百科事典マイペディア 「定額寺」の意味・わかりやすい解説

定額寺【じょうがくじ】

奈良〜平安期に官大寺(かんだいじ),国分寺・国分尼寺の次に位置づけられた寺院。716年の詔(しょう)に私寺が争って題額(だいがく)を求めたとあり,749年諸寺の墾田を定めた中に定額寺の記事が見え,796年の太政官符(だいじょうかんぷ)には定額寺の資財・三綱の規定がある。みだりに私寺を建立し,利益を計ることを戒める目的をもっていた。10世紀末には定額寺の奏請(そうせい)は跡を絶った。
→関連項目官寺粉河寺

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「定額寺」の解説

定額寺
じょうがくじ

律令国家により官寺に準じる存在として認められた寺院。定額という語の意味については,寺院の定数とみる説,国家から寺院に施される経済保証の定額とみる説,国家から寺号が定められ額を付与される寺院とみる説などがあり,定説はない。皇族や貴族・豪族のたてた寺院を律令国家が公認し保護を加え,同時に統制したものと考えられる。定額寺制は平安中期以降,律令国家の衰退にともなってしだいに衰微した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「定額寺」の解説

定額寺
じょうがくじ

古代に行われた官寺制度による一定の格をもつ寺
私寺の乱造を抑えて統制するために,680年に設けたのが始まりという。定額寺になると,国家は私人の建立した寺に寺額を与え,官稲を支給した。その経済的保護を目あてに,平安時代激増したが,律令制の動揺とともにしだいに衰えた。

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世界大百科事典(旧版)内の定額寺の言及

【官寺】より

…741年(天平13)には国分寺,国分尼寺の設置があり,地方の国司,国師が監督した。一方貴族,豪族の私寺には一定の用途(修理・灯分料)を支給して国家統制下におく定額寺(じようがくじ)があったが,その数は明らかでない。これら大寺,国分寺,定額寺は主として三綱と上部機構として別当,長吏,検校といった内部機構により寺内を教導監理したが,さらに玄蕃(げんば)寮の下にある僧綱(そうごう)によって統括されていた。…

【寺院】より

…国分寺,同尼寺は9世紀に入ると律令体制のゆるみとともに衰えたが,官大寺系の諸大寺の多くは莫大な荘園を所有して,中世に至るまで荘園領主として寺運を維持した。以上の官寺系寺院に対し,奈良・平安時代,政府は私寺乱造の弊害を是正し国家の統制をはかるため,皇族や貴族が建立した寺院のうち,寺額を与えて定額寺(じようがくじ)と定め,修理料などを施入して経営保護に当たり,半官半私の寺院制を設けた。定額寺は全盛期には数十ヵ寺を数えたが,律令制の衰退とともに政府からの実益が停止し,平安後期には院政期の六勝寺に象徴される御願寺(ごがんじ)の制にその位置をゆずった。…

※「定額寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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