吉水神社(読み)ヨシミズジンジャ

デジタル大辞泉 「吉水神社」の意味・読み・例文・類語

よしみず‐じんじゃ〔よしみづ‐〕【吉水神社】

奈良県吉野郡吉野町にある神社。後醍醐ごだいご天皇祭神とし、楠木正成くすのきまさしげ宗信そうしん法印を合祀する。もと金峰山寺きんぷせんじ僧坊吉水院きっすいいんで、修験道とともに発展したが、明治維新神仏分離により、明治8年(1875)吉水神社と改めた。源義経潜居後醍醐天皇行宮あんぐうとして有名。平成16年(2004)「紀伊山地霊場と参詣道」の一部として世界遺産文化遺産)に登録された。

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日本歴史地名大系 「吉水神社」の解説

吉水神社
よしみずじんじや

[現在地名]吉野町大字吉野山

蔵王ざおう堂の南東約五〇〇メートル、小高い森の中に鎮座。寺院造で、神社というより明治以前のように吉水きつすい院とよぶほうがふさわしい。後醍醐天皇楠木正成、宗信(真遍)を祀る。旧村社。伝によると役行者休息の庵室として創立され、金峯山きんぶせん寺寺僧派の僧坊として寺格高く、常に同寺一臈の住寺であった。「吾妻鏡」文治元年(一一八五)一一月一七日条に源義経吉野山入山の記事があり、吉水院に潜居したと伝えられ、義経潜居の間と伝える部屋がある。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「吉水神社」の意味・わかりやすい解説

吉水神社
よしみずじんじゃ

奈良県吉野郡吉野町に鎮座。後醍醐(ごだいご)天皇、楠木正成(くすのきまさしげ)、宗信(そうしん)(真遍)法印を合祀(ごうし)する。もと金峯山寺(きんぷせんじ)の僧坊吉水院で、1336年(延元1・建武3)12月後醍醐天皇は吉野へ行幸(「天野山金剛寺古記写」)、ここを行宮(あんぐう)とした。後醍醐天皇没後、後村上(ごむらかみ)天皇は先帝の像を刻み、吉水院へ奉安し追福を祈ったという。江戸期になり本居宣長(もとおりのりなが)はこの地を訪れ、この像について記している(『菅笠(すげがさ)日記』)が、現在は吉野神宮の御神体として祀(まつ)られている。明治初年に廃寺となり、1875年(明治8)に吉水神社と改称した。元僧坊は単層入母屋(いりもや)造・檜皮葺(ひわだぶ)きで国の重要文化財。当地には1185年(文治1)11月に源義経(よしつね)が一時滞在したことがあり(『吾妻鏡(あづまかがみ)』)、現に後醍醐天皇玉座と伝える間とともに、義経潜居の間がある。例祭は9月27日。宝物には、御消息(ごしょうそく)紙本墨書(後醍醐天皇宸筆(しんぴつ)、国重文)、伝源義経所用色々威(いろいろおどし)腹巻(国重文)をはじめ後醍醐天皇関係の古文書武具楽器など貴重なものが多い。

[平泉隆房]

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改訂新版 世界大百科事典 「吉水神社」の意味・わかりやすい解説

吉水神社 (よしみずじんじゃ)

奈良県吉野郡吉野町吉野山に鎮座。後醍醐天皇を主神とし,楠木正成,吉水院宗信法印を配祀する。もと吉水(きつすい)院と称し,役小角(えんのおづぬ)の創立と伝える吉野修験金峯山寺の僧坊で,後醍醐天皇吉野潜幸のとき,しばらく行宮(あんぐう)とされた。天皇の没後,後村上天皇が天皇の像を安置して奉斎したことに始まり,1875年神社とし,89年その像は吉野神宮創建とともに移されたが,当社は天皇ゆかりの地として存続。当社書院(重文)は桃山期の造築部分があるが鎌倉末期より室町初期の書院造様式をよく伝え,また南朝関係の遺物を社蔵。例祭9月27日。
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