喜多流(読み)キタリュウ

デジタル大辞泉 「喜多流」の意味・読み・例文・類語

きた‐りゅう〔‐リウ〕【喜多流】

能のシテ方の流派の一。喜多七大夫が興したもので、江戸初期、元和5年(1619)ごろに幕府から認められた新興の流派。

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精選版 日本国語大辞典 「喜多流」の意味・読み・例文・類語

きた‐りゅう‥リウ【喜多流】

  1. 〘 名詞 〙 能楽五流の一派。近世初期、元和四年(一六一八)に喜多七太夫のはじめたもの。七太夫はもと金春(こんぱる)流の門人で、豊臣秀吉に仕えた武士であったが、秀吉没後は役者として徳川秀忠に仕えて一流を立てた。のちに、観世宝生、金春、金剛の四座のほかに一流としてみとめられた。喜多。
    1. [初出の実例]「きたりうのでんがく扇にて、夕日をよけながら」(出典:洒落本・通言総籬(1787)二)

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改訂新版 世界大百科事典 「喜多流」の意味・わかりやすい解説

喜多流 (きたりゅう)

能のシテ方の流派名。江戸初期に一流樹立を許された新興流派。流祖の北七大夫長能(ながよし)(1586-1653)は,堺の眼医者の子で,幼少のころから能に巧みであった。7歳で器用に能を舞ったことから〈七ツ大夫〉と呼ばれた天才。豊臣氏の後援で金剛座に加えられ,10歳の1595年(文禄4)には金剛方七ツ大夫として記録に見え,十代で金剛大夫弥一の養子となったらしく,元服後,金剛三郎を名のり,金剛大夫として活躍した。大坂の陣(1614-15)に豊臣方に荷担,落城後逼塞していたが,やがて抜群の実力と人気によって復活し(金剛座から分離独立し),北七大夫を名のった。ことに,その新鮮な芸風を愛した将軍徳川秀忠の強力な後援を背景に1619年(元和5)ごろ,従来の四座のほかに特に一流の創設を認められた。〈七大夫流〉ともいい,座付(ざつき)の三役を正式には持たず,〈四座一流〉と併称されて明治に及んだ。流名は初め〈北〉と書いたが,2代目以降,〈喜多〉を用いている。芸風は,概して素朴を旨とする武張った芸風で,繊細な技巧を嫌い,気迫を大切にする流風だったらしく,今もそうした趣が濃い。また,四座のほかというところから,ことさら異を立てた傾向が認められなくもない。また新興流派の繁栄は旧習を守ろうとする他座の反感を買い,たとえば,1658年(万治1)2世十大夫当能の京都における5日間の勧進能の盛況ぶりに対し,〈新流で習いを知らぬ〉などと非難されたことが秋扇翁の《舞正語磨(ぶしようごま)》に見える。歴代の大夫は,12世まで,家元の通名として喜多七大夫と十大夫を交互に用いており,後世,流祖七大夫を特に〈古七大夫〉と呼ぶこともある。歴代の家元のなかでは,流祖,2世十大夫当能,3世七大夫宗能,9世七大夫古能,14世六平太能心(喜多六平太)などが著名で,初世の長男で2世の実兄の左京直能(寿硯)も名高い。また,徳川秀忠や家光が後援したため,地方の大名に弟子が多く,現在も旧城下町に地盤が残っている。大夫公認の謡本を最初に刊行したのは,1776年(安永5),中興の祖9世七大夫古能(ふるよし)(健忘斎)のときで,この安永版(30冊,150曲)は観世流の謡本刊行に次ぎ,江戸時代は喜多流が下(しも)掛りのなかでは最も優勢であったことを物語っている。明治初年までの伝承曲は196曲。

 明治初期の家元にその人を得なかったため,伝来の面・装束を失ったことは惜しまれるが,14世六平太能心が幼くして家元を継承,浅野,井伊,藤堂,山内など旧藩主の後援と,紀喜和(旧津軽藩),松田亀太郎(旧水戸藩),梅津只円(旧福岡藩)らの助力によって流勢を盛り立て,また変幻自在のわざの切れは近代の名手とたたえられた。現在の家元は15世喜多実(みのる)(六平太の養子),ほかに重要無形文化財保持者各個指定(人間国宝)の後藤得三(実の兄),友枝喜久夫粟谷新太郎,喜多長世(実の子)らが流儀を支えている。1983年現在,公認の玄人数は全国で約50名,五流中最も少ない。東京をはじめ,仙台,水戸,彦根,高松,福山,松江,広島,福岡,熊本などに地盤を持っている。なお,この流派の旧家には,熊本の友枝家や伊勢の和谷(わや)家などあり,いずれも能役者としては喜多家より古い家柄だが,江戸時代に喜多流に属した。現行曲は,明治初期までの196曲の伝承曲に加除があり,復曲・新作曲を加えた170曲。とくに喜多実が土岐善麿の協力によって意欲的に進めた新作活動は他流にない特色である。また,後から生まれた流儀だけに,諸流の長所を摂取した点があり,謡は金春(こんぱる)流の雄大さに強さを加え,剛健で武張っており,型は金春流金剛流を融合したところが見られる。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「喜多流」の意味・わかりやすい解説

喜多流
きたりゅう

能の一流派。シテ方五流の一つ。江戸初期の1619年(元和5)ごろに幕府によって認められた新興の流儀なので、座としての専属のワキ方、囃子(はやし)方をもたず、南北朝以来の四座(観世、金春(こんぱる)、宝生(ほうしょう)、金剛)と区別して四座一流(よざいちりゅう)とよばれた。流祖は金剛の大夫(たゆう)も継いだことのある喜多七大夫(しちたゆう)。徳川秀忠(ひでただ)、家光(いえみつ)の七大夫びいきに倣って、各藩も多く喜多流を用い、幕末には29藩に及ぶほどであった。3世喜多宗能(むねよし)は能に耽溺(たんでき)した将軍綱吉(つなよし)の指南役であった。9世喜多古能(このう)は『寿福抄』ほか著書も多い。12世喜多能静(のうせい)は徳川家茂(いえもち)の後援でその勢力を誇り、井伊直弼(いいなおすけ)、山内容堂(ようどう)、藤堂(とうどう)高潔ら大藩の当主が喜多流を学んだが、明治維新後は逼塞(ひっそく)した。能静の養子勝吉が離縁のあと、能静の外孫喜多六平太(ろっぺいた)が1881年(明治14)7歳で14世を継ぎ、不抜の努力と比類ない名技によって流儀を再興した。

 15世宗家喜多実(みのる)は六平太の養子で、その子に喜多長世(ながよ)、節世(さだよ)、その兄に人間国宝の後藤得三(とくぞう)がいる。古くから喜多流の地盤であった熊本出身の友枝(ともえだ)家、広島出身の粟谷(あわや)家など人材が多い。東京・目黒の喜多六平太記念能楽堂を拠点とし、機関誌『喜多』をもつ。後進の養成に積極的で優秀な若手が多く、学生層への普及運動や、土岐善麿(ときぜんまろ)と喜多実のコンビによる新作能活動の実績、1954年(昭和29)の初の渡欧能など、進取の気に富む流儀。いまも武家式楽風のおもかげが色濃く、気迫を重んじ、直線的な芸風である。16世宗家は喜多長世が継承。六平太を襲名。

[増田正造]

『表章著『喜多流の成立と展開』(1994・平凡社)』

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百科事典マイペディア 「喜多流」の意味・わかりやすい解説

喜多流【きたりゅう】

能のシテ方五流のうち最も新しい流儀。流祖は北七大夫〔1586-1653〕。素人(しろうと)出身の名人で,豊臣秀吉の寵(ちょう)を受け,のち徳川秀忠により一流設立を認められた。2代目以降〈喜多〉を用いる。金春流金剛流の系をひき,武家式楽的剛直さを残し,気迫を重んじ直線的な芸風。14世宗家喜多六平太ほか,後藤得三,喜多実,友枝喜久夫,粟谷新太郎らが活躍。
→関連項目綾鼓桜間伴馬下掛り大和猿楽

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「喜多流」の意味・わかりやすい解説

喜多流
きたりゅう

能楽のシテ方の流儀。流祖は喜多七太夫長能。徳川秀忠の庇護のもとに,元和5 (1619) 年頃一流の創設を認められて,従来の四座の太夫並みの扱いを受けた。寛永4 (27) 年頃から北七太夫と名のり,流派は喜多流または七太夫流といわれたが,四座と区別して,四座一流と称された。今日では五流の一つ。紀州藩,芸州藩のおかかえで,14代将軍家茂が紀州から出るに及び勢いをふるったが,明治維新により没落した。現宗家 16世喜多六平太 (1924~ ) は 15世喜多実の長男。一門に熊本出身の友枝家,広島出身の粟谷家などがある。東京目黒に喜多能楽堂をもち,機関誌に『喜多』がある。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「喜多流」の解説

喜多流
きたりゅう

七大夫流とも。能のシテ方の一流儀。流祖の北七大夫長能(ながよし)は幼名を七ツ大夫とよばれ,はじめ金剛座に属し金剛三郎と改名。大坂夏の陣では豊臣方に加わったらしく一時閉塞するが,1619年(元和5)には金剛座に復帰し七大夫と名のる。元和末年には将軍徳川秀忠の後援を得て金剛流から独立,喜多座が成立し,江戸時代の「四座一流」の枠組みができあがる。1776年(安永5)9世古能(このう)(健忘斎)のとき5番綴30冊150番の流儀の謡本が刊行されたように隆盛をきわめ,諸藩の大名の流儀は喜多流が少なくなかった。明治期以降,14世六平太能心は後援会の結成や舞台の建設,「喜多流謡曲大成」の発刊で能楽の普及に力を尽くした。

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世界大百科事典(旧版)内の喜多流の言及

【能】より

…江戸時代になると,大和猿楽の4座は江戸幕府の直接支配下に入り,その典礼の能を勤めることが第一の任務となった。なお,このころ喜多(きた)七大夫が一流(喜多流)の創立を許され,併せて〈四座一流〉と称された。また座の制度のほかに,シテ方ワキ方など専門別の役籍が定められ,各役籍に数個の流派が確立した。…

【大和猿楽】より

…秀吉は宇治猿楽や丹波猿楽の役者を大和猿楽四座にツレ囃子方として所属させたため,それらの諸座は解体の運命をたどり,結果的に大和猿楽のみが命脈を保つこととなったが,江戸幕府も秀吉の政策を継承し,四座の役者に知行・扶持・配当米を与えて保護した。この四座に江戸初期に一流樹立が認められた喜多流を加えた四座一流が幕府保護の猿楽で,それが今日の五流(観世流宝生流金春流金剛流,喜多流)のもととなった。【天野 文雄】。…

※「喜多流」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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