近世の国役は中世の一国平均役の系譜を引くものとして,幕府が一国規模で賦課する重要な課役一般を指す。そして国役の語は賦課される階層と課役の内容によって種々の意味をとるが,主要なものとしては農民と職人とを対象にして賦課されるものの2種がある。
幕府による大規模普請や御用人馬の通行に際して関係諸国の幕領,私領一円の農民に国役が課された。
国役を動員して行われる河川普請は国役普請と呼ばれる。近世前期の国役普請においては,普請人足が農民から国役として徴集された。畿内の淀川,大和川の国役普請に際しては摂津,河内国から高100石あたり5人ずつ,延べ3万人余の国役人足が徴された。木曾川,長良川を有する美濃国では,〈濃州国法〉と呼ばれる独自の慣行による国役普請の制度がある。普請個所のある村の負担を水下役と唱え高100石に100人ほど,これを手伝う村の課役は遠所役と呼ばれ高100石に18~30人ほどとされ,全体で延べ15万人ほどの国役人足が動員された。これら近世前期の国役普請にあっては,国役人足に対して1人1日米5合の返(かえし)扶持を給するのが一般的であった。しかし享保期以降の統一的な国役普請制度の下では,国役は貨幣納化している。その賦課限度額は高100石に銀30匁であり,それを超える分は翌年に割り越された。普請費用の膨張に伴い,この限度額の制度は1866年(慶応2)に廃されたが,明治政府の下では高100石あたり金1両2分の賦率とされている。
将軍の代替りに来日する朝鮮信使(朝鮮通信使)の逓送については,従来,沿道諸国の大名の人馬供出をもってなされていたが,1719年(享保4)の来日時より請負の通し人馬によってこれを賄い,その費用が21年に畿内より武蔵国までの東海道16ヵ国の農民から高100石あたり金3分余の国役金として徴収された。その後この国役は信使の来日ごとに課されたが,1808年(文化5)のときには日本全国に対して惣国役として高100石あたり金1両が賦課された。
またこれと類似の国役に,同じく将軍代替りに慶賀使として参府する琉球王使者(琉球使節)の人馬入用を賦課徴集するものがあった。
1815年,65年の2度に日光東照宮で法会の行われた際,これに参向する公家,門跡,諸大名の往還人馬費用が,関八州から近江国までの16ヵ国に国役として賦課された。また67年,京都大宮御所の造営入用が全国対象の国役金となり,これは明治政府の下で集められ金13万円余を得ている。
近世の統一政権はもっぱら軍事的理由から弓,鉄砲などの武具の調達,城郭の建築,道中伝馬の整備などが必要であった。そしてこれらの技能と製品とを入手すべく,諸職人に対してなされた課役が国役と呼ばれた。織田信長は近江国の大鋸引(おがひき),鍛冶,畳刺などの諸職人に対し,棟別銭(むなべちせん)以下の諸役を免許する代償として信長の下に〈国役作事〉を勤仕すべき旨を命じている。この方針は豊臣・徳川政権に継承され,畿内の大工職の者は所領の別を超えて大工頭中井大和守正清に統轄されたうえで,統一政権への国役勤仕という形をとって城郭の建築や武具の調製にあたった。
江戸幕府はまた,江戸の建設にも職人の国役を効果的に運用した。幕府は畿内や関八州より職人を招致して江戸の城下に一定の町屋敷(〈国役町〉と唱える)を供与し,その代償として国役勤仕を求めた。具体的にはおのおのの職人集団を統轄する職人頭たちが幕府より町屋敷を拝領して配下の職人に地所を割り与える一方,国役勤仕に際しては職人頭が配下職人に触れ渡し,引率してこれに臨むことになるのである。国役は初め職人の実労働であったが,後に貨幣納との併用,またはまったく貨幣納化した。さらに事例を挙げるならば,諸方鉄砲差図役の胝(あかがり)惣八郎は鉄砲町を拝領して鉄砲職人を差配し,幕府の鉄砲御用をつとめた。鍛冶支配の高井五郎兵衛は神田鍛冶町を拝領して関八州鍛冶職人を支配し,幕府の鍛冶御用に際しては配下職人のうちより年間に国役20人分を差し出した。これはのち1667年(寛文7)より春秋に銀176匁ずつの代銀納制となっている。伊阿弥家長は京中畳刺を召し連れて八代洲(やよす)河岸屋敷を拝領し,年に30人分の畳刺国役をつとめている。石匠棟梁の石屋善左衛門は小田原町を拝領して毎年300人の石工を幕府作事元へ差し出し,300人を使役しないときは残人数分1人あたり銀5匁5分を棟梁が取りまとめて上納した。また佐久間善八,馬込勘解由らは大伝馬町を拝領して道中筋御用の伝馬国役をつとめた。
そのほか,職人国役の種目と国役町には藍染役(紺屋町),鋸匠役(大鋸町),大工役(大工町),木具工役(檜物町),桶樽役(桶町),研役(佐柄木町),漆工役(南鞘町),鋳物役(鍋町)などがあり,近世初頭の国役町は60町余を有していた。中世については〈国役(こくやく)〉の項を参照。
執筆者:笠谷 和比古
〈くにやく〉ともいう。平安後期から南北朝期にかけ,朝廷および国衙が各国内に賦課した恒例・臨時の課役の総称。室町期以降においては,室町幕府が守護あるいは守護を介して各国に課した課役,および守護がみずからの用途のため国内に課した課役をいう。
平安中期以降,それまでの律令収税体系が崩れ,王朝国家の収取体系は基本的に官物(かんもつ)・臨時雑役制さらに官物・雑公事(くじ)制へと移行していく。とくに公田官物率法に基づく官物・雑公事制に移行しいわゆる一国平均役が多くなってくる11世紀中期以降,国衙からの恒例・臨時のさまざまな課役(夫役・雑物)の総称として,〈国役〉の名称が多用されるようになる。広義には造内裏役・伊勢神宮役夫工米(やくぶくまい)など勅事・院事と呼ばれた朝廷からの国家的臨時課役(その多くは一国平均役)を含め,国衙を通しあるいは国衙から賦課されるいっさいの課役を指していったが,狭義には公領において官物とともに年々の負坦とされた雑公事(雑物・夫役)や国検田使・収納使供給(接待役)など国衙からの臨時の課役,すなわち公領を主対象とし国衙が賦課・徴収主体となっていた恒例・臨時の課役をいった。これらの国役は,一般に田数別(反別)に賦課されたが,名(みよう)別によるものもあり,ときには国郡司の恣意による賦課もみられた。また11世紀末から12世紀初頭の畿内近国において,国郡司らは公郷在家把握の手段として国役を在家役として在家別に賦課している。国役は荘園制の発展期である平安後期にさかんに賦課され,とくに荘園・荘民への賦課に対しその免否をめぐり国衙と荘園側との激しい対立がみられた。
鎌倉期以降になると,国役はそれまでの国衙が管内に賦課する課役という意味あいよりも,各国が朝廷・大寺社などへ負担する恒例・臨時の課役,あるいは朝廷などからの国としての負担を意味する用例が史料上多くなる。その傾向は南北朝・室町期以降,いっそう顕著となる。そして,それらの課役は守護が各国衙機構の実質を掌握するに従い,守護が国内から催徴し,負うところとなった。また大嘗会米(段銭)など諸国の公領・荘園への臨時課役は朝廷の実質的権限をにぎった幕府が漸次賦課するようになる。幕府はまた将軍・幕府の諸行事・事業のため臨時の賦課を守護に課したが(守護出銭),これもときに国役と称された。室町末期になると,幕府の臨時段銭が諸国に賦課されるようになる。なお室町末期には,もともと将軍の被官人個々に賦課される地頭御家人役であったものをも,各国守護を通して徴収することから国役とされるようになる。一方,南北朝以降,守護はみずからの軍事的・日常的用途のため守護役として夫役・雑物等を国内から課徴するようになり,さらに15世紀以降には幕府からの段銭のみならず,みずからの段銭をも課徴するようになる。在地側ではこれらを国役と呼んだが,これらの賦課は守護の領国支配を強化する要因となった。
→国役(くにやく)
執筆者:小山田 義夫
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「こくやく」とも読む。平安末期、鎌倉時代には国司が一国内に賦課した雑役をいうが、一般には江戸時代川除普請(かわよけふしん)、日光社参、朝鮮来聘(らいへい)使の接待などに要する人足や費用を特定の国々に課して取り立てたことをさす。国役による川除普請は美濃(みの)(岐阜県)や畿内(きない)では江戸初期から行われていたが、1720年(享保5)に幕府は20万石以上の大名領を除き、関東から近畿地方の河川を対象にこれを制度化した。普請費用は10分の1が幕府の負担、残余は特定の国々から高割で徴収された。のち一時中止され、1758年(宝暦8)に再開され明治期に及んだ。日光社参は宿場の人馬を多量に必要としたので、幕府はその費用を関東や中山道(なかせんどう)、東海道の沿国16か国に課した。また来聘使の接待・費用は大名に課したほか、全国から高割で徴収された。
[大谷貞夫]
近世,幕府や国持大名が国郡を枠組に,公権力の存立や維持のために百姓・町人・諸職人を対象として賦課した役負担。百姓・町人の伝馬役によるものとしては,将軍の上洛,日光社参,あるいは朝鮮通信使や琉球使節の通行への人馬動員が代表例。また百姓・町人の人足役(夫役)によるものでは,初期の城郭や都市建設,大河川の堤川除普請への動員(国役普請)がある。このほか,伝馬役や人足役を免じられた諸職人が,技術労働を一国単位で奉仕する場合も国役と称した。
「くにやく」とも。中世,朝廷・国衙(こくが)の臨時雑役および室町幕府の段銭(たんせん)・守護役などの総称。11世紀から国衙の臨時雑役が国役として公田に賦課され,鎌倉時代には,大嘗会(だいじょうえ)用途などの院事・勅事や伊勢神宮・一宮の修造用途などの一国平均役となった。室町幕府は段銭として国役を収取,守護役なども新たに国役として徴収された。室町幕府崩壊とともに消滅したが,近世には国役普請のかたちで一部復活した。
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…戦争に武士だけでなく庶民を動員するこのシステムは,平時には諸集団を統制し支配するシステムとして機能した。〈軍役〉は中世の〈国役(こくやく)〉に系譜を引くものであるが,これも平時には城普請や河川の工事に転用された。〈国役〉は中期以降は貨幣によって代納化される傾向にあったが,助郷役のように代納化されないものもあり,また幕末の長州征伐では幕府や諸藩は補給要員として大量の農民を動員した。…
… 平安中期以降,それまでの律令収税体系が崩れ,王朝国家の収取体系は基本的に官物(かんもつ)・臨時雑役制さらに官物・雑公事(くじ)制へと移行していく。とくに公田官物率法に基づく官物・雑公事制に移行しいわゆる一国平均役が多くなってくる11世紀中期以降,国衙からの恒例・臨時のさまざまな課役(夫役・雑物)の総称として,〈国役〉の名称が多用されるようになる。広義には造内裏役・伊勢神宮役夫工米(やくぶくまい)など勅事・院事とよばれた朝廷からの国家的臨時課役(その多くは一国平均役)を含め,国衙を通しあるいは国衙から賦課されるいっさいの課役を指していったが,狭義には公領において官物とともに年々の負坦とされた雑公事(雑物・夫役)や国検田使・収納使供給(接待役)など国衙からの臨時の課役,すなわち公領を主対象とし国衙が賦課・徴収主体となっていた恒例・臨時の課役をいった。…
…江戸時代初期の国役による人夫役。石高1000石に1人の割合で課されたのでこの呼称がある。…
…すなわち,伝馬役と町人足役がそれである。このうち,伝馬役(馬や人足による労働の奉仕)は,本来全人民が担うものであるが,諸職人はそれぞれの技術労働を国役(くにやく)として奉仕させられたためにこれを免ぜられ,百姓と町人とがこれを負担させられた。しかし平時における伝馬役は,宿駅部分やその周辺の町人や百姓がこれを負担したのである。…
…大名は幕府から,給人はそれぞれの主君から領知・知行を給与されていること,百姓は土地を所持し,耕作する権利を認められていることによる負担義務の一つ。近世初頭,統一政権が施行した大規模な土木工事において,普請役は石高基準の国役(くにやく)として統一的に賦課されたが(国役普請),幕藩制が確立すると,大名に対する普請役は公儀の御普請御手伝(ごふしんおてつだい)として個別的に賦課されるようになった。御手伝普請の内容も,当初は人足の提供を主とするものであったが,現夫(げんぷ)の徴発が困難となった中期以降しだいに変容し,やがて金納化した。…
※「国役」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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