地方公共団体の財政のこと。消費者ひとりひとりに個別的な利益を与える財貨やサービス,すなわち,私的財と呼ばれるものは,市場に参加する供給者と需要者との間の売買を通じて提供される。これに対し,消費者一般に差別なく利益を与える財貨やサービス,いわゆる公共財は,市場を通じて提供することが不可能ないしは非常に困難であるため,国と地方公共団体,すなわち国民経済の公共部門組織によって提供される。そのなかで全国的便益性をもつ公共財の提供は国によって行われ,地方的便益性の公共財の提供に対しては地方公共団体が責任を負う。かかる全国的または地方的公共財の提供に必要な貨幣収入を調達することによって,それら公共財の提供を資金的に保証し,それら公共財の質的構成ならびに量的大きさを決定するのが,国の財政であり,また地方財政の役割である。
執筆者:大川 政三
近代日本の統一的地方財政制度は,1888年の市制町村制(1889施行)および90年の府県制郡制によって,地方自治制の一環として成立した。その成立過程をみると,まず1871年の廃藩置県の後,府県体制が中央集権的に整備されるなかで,各府県官により行政機構の末端機関として大区・小区が設けられ,幕藩体制下の自治組織であった町村が制度上否認されるが,実際には,地租改正等の新政策を実施するための末端事務と当時の地方費の中心であった民費の課出は,旧来の町村組織に依存せざるをえないという矛盾に陥った。農民騒擾(そうじよう)が続発し自由民権論が台頭するなかで,78年,地方自治制の端緒となる地方三新法(郡区町村編制法,府県会規則,地方税規則)が制定され,大区・小区制が廃止されて郡町村制が復活し,府知事・県令と郡長の行政権の圧倒的優位のもとにではあるが,一応の町村自治と公選制地方議会の設置が公認された。また府県税の税源と支出費目がはじめて統一的に規定され,それと町村費が明確に分離されて地方財政制度が近代化された。
しかし,公認された地方議会を舞台に国会開設と地方自治を要求する自由民権運動が高揚し,地方支配体制が動揺したため,政府は戸長官選制や連合戸長役場制などの応急的措置を講じるとともに,憲法制定の準備の一環として体系的な地方自治制の制定に着手する。こうして地方自治制がプロイセンの制度を模倣し,国会開設に先立って急いで官製的につくられた。
地方自治制はその生みの親山県有朋がいうように,政党勢力が地方行政へ浸透するのを予防することを目的につくられたため,きわめて官治的性格が強かった。市町村は公法人たる自治団体とされ,市町村議会議員と市町村長の公選制も制限された形でではあるが認められた。しかし同時に,市町村は国と府県・郡を通ずる官僚的統治機構の末端に位置づけられた。それに応じて市町村財政も,公的財政として住民の私経済から明確に分離され,予算決算制度が採用されて制度上近代化されたが,同時に国政委任事務を広範に負担させられながら,委任事務費だけでなく固有事務費の支出にまで上級官庁による監督・規制が加えられた。また主要な財源は国税,府県税に取り上げられ,市町村の財源はその付加税収入が中心とされ,独立税は与えられなかった。そしてその狭隘(きようあい)な財源のもとで財政上の自治能力をもつ町村をつくるため,町村制施行に先立って大規模な町村合併が半ば強制的に実施され,新たな行政町村が創出された。
府県郡は公法人たる性格が明確化されず(1899年改正で明確化),条例制定権も与えられなかったが,実際上は財産・負債の主体とされ,また公選制の府県郡議会および参事会の府県郡財政一般に対する議決権が公認されて,その公的・自治体的性格が強められた。しかし,府県郡は市町村より以上に官治的機関であり,国の官吏たる府県知事,郡長の府県郡財政に対する支配権は強大であり,国の府県郡への監督権も存置された。
地方自治制成立後の変遷は,大きく次の四つの時期に区分しうる。
(1)日清・日露戦争期 日清・日露戦争を通じて富国強兵政策が拡充され,産業,衛生,教育等に関する特別法令がつぎつぎと公布されて,地方への委任事務が増大する。それに応じて1899年府県制郡制の全面改正,1911年新市制町村制公布により地方制度の整備が行われたが,その内実は,委任事務規定の拡大,府県知事・市町村長の議会に対する権限の強化,市町村自治の制限,監督官庁による統制の強化など,官僚的統治をいっそう強めるものであった。この間,地方経費が増大するなかで,府県営業税の国税への移管や国税確保のための付加税率の制限がなされ,日露戦争後には地方財政とくに農村財政の窮迫が問題となってくる。
(2)大正デモクラシー期 第1次大戦後,公営事業費,土木費,教育費,公債費を中心に地方財政とくに都市財政が急膨張するなかで,大正デモクラシー運動の一環として地方自治の確立が要求され,その結果,1926-29年までに郡制・郡役所廃止,地方議員普通選挙制,地方自治権の拡充と監督官庁による統制の緩和が実現し,不完全ながら近代的地方自治の形態が頂点に達するとともに,市町村義務教育費の一部国庫負担(1918)や戸数割の市町村独立税化(1926)が実現する。しかし,懸案の地租・営業税の地方移譲や本格的な地方財政調整制度は実現せず,地方財政の困難と地方税負担の過重・不公平は解決せず,せっかくの自治権拡充も〈みせかけの自治〉に終わった。
(3)昭和恐慌期 1929年に発生した世界大恐慌は,とくに製糸・養蚕の破綻を通じて農村を不況のどん底に落とし入れ,農村財政は極端な窮乏に陥った。これに対し政府は1932-34年時局匡救(きようきゆう)事業を実施して農村救済にあたり,また経済更生運動を起こして農山漁村の自力更生をはかった(農山漁村経済更生運動)。これにより,恐慌で一時縮減した地方経費が再び増勢に転じ,また委任事務の激増と国庫補助金の著増を通じて行財政両面から地方団体の中央集権化が進んだ。
(4)第2次大戦期 1937年以後日中戦争の進展により戦争関係費を中心に地方経費が増加し,他面,軍事費財源の確保のため地方税・地方債が抑制されたため,貧困町村を中心に財政窮迫が進んだ。それに対し,1936年発足の町村財政補給金が37年より臨時地方財政補給金へ拡大され,さらに総動員体制樹立のための補給金として恒常化され増額されていった。40年戦時下の矛盾を解決するため地方財政制度の抜本的改正が行われ,とくに分与税制度の新設により地租,家屋税,営業収益税の地方への還付という形で財政調整制度が本格的に成立し,また戸数割は市町村民税へ改正された。しかしその結果,地方独立税の比重が極端に低下し,歳出面への国家の直接的介入とあいまって財政上の地方自治が失われ,さらに太平洋戦争突入後の43年には,戦争完遂のため地方自治は完全に圧殺され,地方団体は国策を遂行する行政機関となった。
執筆者:大石 嘉一郎
敗戦後占領軍は,民主化・分権化を基本とする地方行財政制度改革の方針を掲げ,これを民政局が担当することになる。改革への総司令部の強い意志を感じとった内務省は,1946年9月地方団体首長の直接普通選挙制をはじめとする地方制度の抜本的な改正を行った。さらに46年11月日本国憲法が公布され,47年4月公布の地方自治法とともに47年5月に施行された。新憲法は第8章に〈地方自治〉を設けこれを保障し,地方自治法は,強制予算・原案執行等の全廃,内務大臣・知事に属していた各種監督権の大幅な削減を行い,先の地方制度改正を民主化の方向へ徹底させた。こうした一連の地方制度改正によって日本近代地方自治制に特徴的な官治的性格は根本的に改革されたといってよく,以後これに見合った財政制度の改革が課題となる。
第2次大戦中極度に圧縮されていた地方歳出は,敗戦とともに著しい膨張を開始し,戦災復興,1947年6・3制実施,48年自治体警察発足など地方行政領域の拡張によってそのテンポを増し,国の歳出に対する比率は1945年度23%から49年度56%へと上昇した。膨張する歳出に対応して,46年度は地方付加税制限率引上げ,市町村民税増徴,府県民税創設,47年度は還付税制度廃止と地租・家屋税・営業税の府県移譲,遊興飲食税・鉱区税の府県移譲,市町村独立税目の追加などの地方税改正が重ねられた。47年12月末日には地方行財政を所管してきた内務省が解体され,つづいて48年1月,地方財政関係事項処理機関として内閣総理大臣のもとに地方財政委員会(第1次)が置かれ,同委員会は抜本的な地方税財政改革要領を作成した。
そのなかで災害復旧基金や地方団体中央金庫創設などは見送られたが,1948年地方税法は全文改正され,府県に事業税(営業税を改組),特別所得税等,市町村に使用人税,余裕住宅税が創設されるなどのほか,自主課税権の強化がはかられた。49年までの改正により45年に税収の約7割を占めた国税付加税は姿を消し,市町村税が約7割を道府県税付加税に依存するものの,道府県税はすべて独立税という構成になった。なお,48年7月には国が地方財政の自律性をそこなうべきではないとうたった地方財政法が制定されている。49年5月ドッジ・ラインによる資本蓄積推進を税制面で裏づける恒久的租税制度確立のために来日したC.S.シャウプを団長とする使節団は,地方財政に関し,地方税源強化,国庫より供給する交付金の一方的決定排除,国・都道府県・市町村間の徴税・行政責任集中化,財政平衡交付金の設置を基本方針とする改革を勧告した(シャウプ勧告)。税制面では,市町村税の優先的拡充,付加税の廃止,税種の整理,不動産税(固定資産税として立法化),住民税の大幅な修正と増徴(道府県民税は廃止)などが50年7月成立の地方税法に織り込まれた。道府県税として事業税に代わって創設される予定であった付加価値税は,53年1月まで延期されたのち54年に廃止となった。
一方,財政調整制度は,財政需要の積上げによる算定方式,収入不足額の直接的な補てんを特色とする一般平衡交付金が勧告され,1950年5月地方財政平衡交付金制度として発足した。これによりそれまで還付税廃止(1947年3月地方分与税法全文改正),地方配付税への切替え(1948年7月地方配布税法公布)によって強められてきた財政調整機能はいっそう整備されることになった。シャウプ税制の成立により市町村税もすべて独立税となり,市町村優先の原則がひとまず貫かれたものの,付加価値税の廃止は資本蓄積促進的性格を強め,その反面,市町村民税を中心とする大衆課税が強化されることになった。また立法化され施行された政策自体も多くはそのままの形では定着せず,むしろ解体を余儀なくされていった。
まず基本方針の一つである行政責任集中化のために不可欠な行政事務再配分については,1949年12月設置の地方行政調査委員会議に検討がゆだねられたが,その勧告(1950年12月第1次,51年9月第2次)はほとんど実現されずに終わった。また補助金の大幅削減の構想は,同会議の勧告(1950年10月)などで具体案が示されたが,以後の補助金増大傾向をとどめることはできず,継続された地方債許可制度とともに,地方自治体に対する統制干渉の手段として機能していくことになる。そもそもシャウプ勧告では地方財政の監督調整を行うために独自の機関が提唱されており,50年5月地方財政委員会(第2次)が設置された。しかし57年自治庁発足とともに廃止され,地方団体関係者を主体とする地方財政運営の構想は頓挫した。さらに54年の地方税財政改革はシャウプ地方税制の解体を決定づけた。まず平衡交付金制度が基準財政需要(収入)算定の恣意(しい)性や総額確保の困難などを理由に地方交付税制度に改編された。また税制では,道府県民税創設などによる道府県税源の拡充,各種租税を通じた資本蓄積促進措置の採用,地方譲与税創設による中央統制機能の強化などが実現された。55年地方財政再建促進特別措置法により,赤字累積問題を徹底した合理化でのりきった地方財政は,以降,地方交付税制度を基軸としてナショナル・ミニマム確保の要請にこたえる一方,資本蓄積促進的国税制度とリンクした地方税制,地域開発の推進における公共投資とりわけ産業基盤整備の負担などを通じて,高度成長を支える役割を果たすことになった。
高度成長下では事業税,軽油引取税などの伸びに支えられて道府県税が増大し,1964年には市町村税を上回るにいたった。市町村税では住民税について64年懸案だった課税方式の統一が実現し,60年代後半から所得税減税の後を追い課税最低限引上げなどの減税が実施された。しかし一方では,地方交付税の補助金化現象による統制の強化,過密・過疎問題に地方財政が有効に対処しえないこと,機関委任事務の増大に伴い補助負担対象額算定の不適切による超過負担などの問題を生み出した。
石油危機をへて低成長期に移行すると地方財政の課題は歳出構成の硬直化を背景に,赤字問題としても顕在化し1954年度以降1桁にとどまっていた地方債依存度は75年度以降10%を超えるにいたった。これに伴い地方税は,74年法人住民税率引上げなど増税基調に転じ,とりわけ深刻化した大都市財源不足については,75年大都市特別税としての事業所税創設や法人に対する不均一超過課税など課税自主権行使の動きなどがみられるようになった。さらに高度成長期に進行した都市化と財政の企業化現象を前提に,地方財政運営における〈都市経営論〉などが提唱されるにいたっている。
執筆者:金沢 史男
地方財政は,最初に述べた地方的公共財提供のほかに,所得分配の公平化を目的として単純に貨幣購買力を移転させる効果の支出をも行っている。これらの移転的支出をも含めた地方財政計画の1982年度決算額による地方公共団体全体の普通会計歳出額は,51.1兆円にのぼり,国の一般会計と10特別会計との純計歳出額50.5兆円を若干上回る規模である。国の歳出には,後述する地方交付税交付金,または国庫支出金のように地方への振替支出が含まれ,その資金の流れとは逆にまた,金額は僅少であるが,地方から国への支出も存在する。これらの国と地方間の資金移転を整理した結果の82年度純計歳出額でみれば,国が29.8兆円,地方が50.6兆円,構成比では,国の37.1%に対し,地方は62.9%の圧倒的優勢比率を示している。国ならびに地方の歳出を国民総支出に対比させた割合で示せば,国の歳出純計11.1%に対し,地方のそれは18.9%にのぼる。地方の歳出決定において国の指導的作用がみられるにしても,純計歳出額でみる限り,国民一般,または特定の民間組織ならびに個人とのかかわりにおいて,地方のほうが国よりも大きな影響力をもち,親密度も深いということができる。
この地方財政の重要さは,歳出の目的別に国と地方の純計歳出額を比較すれば,いっそう明瞭になる。防衛費は例外的に100%国の支出になっているが,この防衛費が,国・地方を通じる純計歳出に対して占める割合は3.2%にしか当たっていない。これと対照的に純計歳出の22.0%に相当する社会保障関係費について地方の支出割合をみれば,60.5%である。純計歳出構成比17.6%の教育費にいたっては,地方支出率が87.2%にもなる。さらに,構成比18.8%の国土保全および開発費においては,地方支出率は78.3%である。
国にしろ,地方公共団体にしろ,その支出は原則的にそれぞれの租税収入によって賄われる。国の場合は,低成長下における税収入の伸びの低さを補完する公債収入の構成比が高いために,また地方公共団体の場合は,地方の収入となる国の諸支出金の構成比が高いために,国ならびに地方の歳入に占める租税収入の構成比は,圧倒的な高さとはかならずしもいえないが,歳入の中心的地位を占めていることには変りない。
1982年度における国税と地方税収入の総額中,国税収入はその63.2%を占め,地方税収入は36.8%を占める。国と地方の純計歳出の構成比が国37.1%,地方62.9%であることは前述したが,租税の国と地方の間の配分比はそれをほぼ逆転させた関係にある。すなわち,地方は,租税を徴収する点では国の2分の1強にすぎないが,歳出においては国の2倍弱の大きさを占めている。このことを可能にしている主要な理由は,国税収入の相当部分が地方交付税,地方譲与税,国庫支出金等の仕組みを通じて地方に移転されていくからである。
地方公共団体の歳入には,みずから徴収する地方税のほかに,国から移転される諸収入がある。では地方の歳入がどのような種類のものから成り,それらがどのくらいの構成比をもっているのだろうか。地方税は1982年度で歳入合計の35.7%を占めるにすぎない。1977年度の32.4%に比較して近年わずかながら上昇してはいるものの,30%台にとどまっている。三割自治の名があるゆえんである。同じ地方公共団体でも,都道府県と市町村の間では次のような相違がみられる。すなわち,国庫支出金の割合が,都道府県25.8%に対し,市町村では14.6%にとどまる。市町村の間でも,地方税の割合は異なり,大都市41.5%,都市41.1%に対し,町村は19.9%に低下する。それに反し地方交付税の割合は,それぞれ9.0%,10.9%,31.0%と,しだいに高くなる。地方交付税は,後述のように,地方税の自己財源の大きさに反比例していく仕組みになっているからである。
国から地方への財源移転は,おもに地方交付税と国庫支出金という二つのルートによって行われる。このうち地方交付税による分の使途は,それを受け取る地方公共団体が自主的に決定できる。すなわち,一般財源と特徴づけられるのに対し,国庫支出金と総称される部分は,国が指定する特定の歳出に充てることを条件に交付される特定財源である。
地方交付税制度は,税源が地方の間にいちじるしく偏在している状況のもとで財源の調整を行い,それによって行政サービスの一定水準を全国的に確保しようとするものである。地方財政の内容は,それぞれの地方公共団体がもつ税源の大きさと,その税源に対して適用される地方税制度,ならびに,当該地方公共団体の歳出需要によって決定される。
ある地方公共団体の税源と地方税制度によって期待される地方税収入が,基準的行政サービス水準を確保するのに必要な歳出需要を満たすのに十分な大きさだとすれば,少なくともこの地方公共団体に関する限り,重大な支障となることはない。問題は,その期待税収が歳出需要に不足する場合である。この財源不足状態を解消する対策として考えられるのは,税源を短期間に増大させることができないとすれば,地方税制度の税率を引き上げるか,歳出需要を引き下げねばならない。その結果生じる地方公共団体間の地方税負担の軽重,地方行政水準の高低による不均等を容認するならば,先の解消策でよい。しかし,全国的に平準化した歳出需要の水準を確保し,かつ,全国的にほぼ均一な税制を適用することを優先目的とするならば,先の財源不足額は,地方税以外の方法で満たされねばならない。この補完財源となるのが,地方交付税である。地方交付税として地方に交付される総額は,国税のうち所得税,法人税,酒税からの収入の32%と法定されている。この地方交付税率は,昭和30年代数度にわたって引き上げられてきたが,1966年度に32%になってからは変わっていない。地方交付税は,各地方公共団体ごとに計算される財源不足額(=基準財政需要額-基準財政収入額)に比例して,それぞれの団体に交付される。
国庫支出金とは一定の条件のもとに,地方公共団体の特定の支出に充てるため国から支出される財政資金の総称であり,具体的には国の負担金,補助金,委託金のすべてが含まれる。支出目的別に国庫支出金を分類すれば,普通建設事業費のための支出金が最も多く,続いて義務教育費,生活保護費への負担金であり,これら三つの目的の国庫支出金だけで,全体の71.6%を占める。国庫支出金は,その性質上,地方交付税に比較して地方の財政運営を拘束する。国庫支出金の支出を理由として,国が地方の支出計画に介入し,統制的立場に立つことが多い。この限りでは地方自治を弱める効果をもつが,国の立場からいえば,国の政策目的の確実な実現手段として国庫支出金を手放そうとしないのである。地方交付税のように地方の一般財源化してしまうならば,国の政策意図を地方に浸透させる効果的手段を失うと考えられているからである。
国民生活との直接的なかかわりの点において,地方財政は国の財政のほぼ2倍に当たるほどの影響力をもっていることを前述したが,地方の歳出を支出目的別に分類してみると,国民生活との親近性がいっそう明らかになる。都道府県と市町村の純計でみれば,教育費,土木費,民生費といった国民生活に密着する歳出の構成比だけで約60%に達する。
教育費についていうと,1982年度の総額は12.5兆円であり,目的別にさらに分類すれば,小学校費4.0兆円(教育費総額の32.7%),中学校費2.4兆円(19.4%),高等学校費2.0兆円(15.9%),保健体育費0.9兆円(7.5%),社会教育費0.8兆円(6.3%)となる。構成比第2位の土木費についていえば,総額10.0兆円の33.8%が道路・橋梁費であり,27.6%が街路整備,区画整理等の都市計画費,14.9%が河川海岸費,13.3%が住宅費に配分されている。国の景気対策に連動させて地方の土木費を景気刺激手段に利用することがあるが,そのために,土木事業の社会的必要性についての判断をゆるやかにしすぎないよう注意する必要がある。
執筆者:大川 政三
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
地方公共団体の財政のこと。2002年(平成14)5月31日現在、普通地方公共団体の数は、都道府県が47、市町村が3218の計3265である。市町村の内訳は、大都市が12、中核市が25、その他の都市が638、町村が2543である。また特別地方公共団体には23の特別区、2221の一部事務組合(2000年、普通会計)などが含まれる。これらの団体の財政の実態はきわめて多様である。地方財政とは、この多様な個別財政の総称であり、合計である。この点で、地方財政は国家という単一の主体の財政である国家財政または中央財政とは性格が異なる。地方公共団体の個別財政を一括する必要から、実際の会計区分とは別に、普通会計と地方公営事業会計(公営企業会計と一部の事業会計の総称)という区分が用いられている。ここでは普通会計を中心に説明する。
わが国の地方財政の規模は大きい。地方公共団体の普通会計の歳出総額は国の歳出総額をやや上回っている。国の歳出総額にはかなりの額の「国から地方に対する支出」(地方交付税、地方譲与税、国庫支出金など)が含まれており、逆に地方公共団体の歳出総額には若干の「地方から国に対する支出」(地方公共団体の負担金)が含まれているので、これらの支出をそれぞれの歳出総額から控除して両者を比較すると、地方財政の規模は国の財政の1.5倍以上にもなる。
国と地方の歳出を行政目的別に比較すると、国の占める比率が高いのは、その性質上100%国の支出である地方財政費、防衛費、外交費のほか、恩給費、公債費などであるが、これらが経費の国・地方を通じる歳出純計額に占める比重は、公債費を除いてはそれほど大きくない。これに対して、その比重の大きい社会保障関係費、国土保全および開発費、教育費、機関費、産業経済費では、国との関係で地方の占める比率が相対的に高く、住民生活や産業経済に密着した行政分野において、地方財政がいかに大きな役割を担っているかがわかる。
[大川 武]
中央集権的な政治体制の確立、急速な資本主義の発展、強力な軍事国家の形成が明治政府の課題であった。地方制度の整備もこの意図のもとに進められた。
1871年(明治4)の廃藩置県後、新たに設置された府県には官選の知事などを配置し、その末端組織として、郡区町村にかえて大区・小区を設け、官選の区長・戸長を置いた。しかし、現実との矛盾、政情不安の高まりのなかで、政府は1878年に三新法を制定して、郡区町村を復活し、地方に限定された自治を認めざるをえなくなった。
1888年に市制町村制、90年には府県制が公布された。地方に対する監督を強化し、国政の一部を地方に担わせることなどがそのねらいであった。市制町村制では、市町村に法人格を認め、条例制定権を与えたが、市長選任には天皇の裁可、町村長選任には知事の認可を必要とし、市町村会議員の選挙には公民だけが参加しうるとした。主要な財源は国や府県に取り上げられて、一定の制限内での付加税の賦課が中心であった。また、地方税の賦課、起債などにあたっては、内務・大蔵両大臣の許可が必要とされた。さらに、委任事務費の負担を義務づけ、市町村が法令または知事・郡長の命令に基づく経費を予算にのせず、または支出しないときは、知事・郡長は強制的にこれを予算に加え、または支出させることができる制度を設けた。市町村は制限された財源のなかで委任事務の実施を義務づけられ、自主的な事務を行う余裕をほとんどもたなかった。
府県制は府県の法人格には触れず、条例制定権も認めなかった。また、府県税の超過課税や起債については、内務・大蔵両大臣の許可が必要であった。従来どおり官吏である知事が強大な権限をもち、府県は実質上は国の出先機関に近い存在であった。府県会との関係では、知事は、府県会が法令に基づく経費を否決したとき、内務大臣の指揮を受けて原案を執行することができ、内務大臣は原案の金額の範囲内で予算を修正することができた。内務大臣の監督権と知事の執行権のもとで、府県会はまったく形だけのものであった。なお、府県制と同時に郡制も公布された。郡は内務大臣・知事の監督を受け、府県の下部機関といってよかった。
日清(にっしん)・日露戦争を経て資本主義が確立し発展するにつれて、行政需要も増大し、産業、土木、衛生、教育に関する特別法令が次々に制定された。それに伴い国から地方への委任事務が急増した。地方制度の手直しも行われ、1899年の府県制、郡制の全面改正で、府県の法人格が認められ、府県会議員の選挙が直接選挙制となった。1911年(明治44)には改正市制、町村制が公布され、市の執行機関が参事会から市長の独任制に改められるなどした。しかし、これらの改正の重点は、地方の委任事務の激増に対応するために、府県知事・市町村長の議会に対する権限を拡大し、監督官庁の地方に対する統制を強化することにあった。
第一次世界大戦後、都市化の進展に伴って地方への委任事務がさらに増大し、地方財政の規模は急激に膨張した。また、このなかで都市と農村の経済力、したがって財政力の格差が拡大し、農村財政の窮迫はとくに著しかった。このため、1918年(大正7)には、市町村の委任事務費として大きな比重を占める小学校費に対する国の経費分担を定めた市町村義務教育費国庫負担法が成立した。これはわが国の国庫補助制度の発展に一時期を画するものであった。
第一次世界大戦前後から始まった大正デモクラシーの運動は地方制度のうえにも影響を及ぼした。1923年には郡制廃止、26年には地方議会選挙における普通選挙の実施、市町村長選挙における天皇の裁可や知事の認可の全廃、29年(昭和4)には府県に対する条例制定権の付与、内務大臣の予算削減権の廃止などが実現された。しかし、制約された財源と委任事務の増大のもとで、地方財政の窮迫は続いた。大衆課税的な独立税の増徴がなされ、地方債が累増して財政運営の硬直化が進んだ。大正デモクラシーの運動を背景に、国税の地租と営業税の地方への移譲も論議された。しかし、1926年の税制整理では、こうした抜本的な改革は見送られ、地方税の拡充強化は果たされなかった。国の財政の逼迫(ひっぱく)と軍備拡張、産業救済のための財源確保の必要が先行したためである。
1929年の恐慌はとくに農村に強い打撃を与え、農村財政の窮乏はその極に達した。これに対して、政府は各種の立法措置を講ずるとともに、32年から34年にかけて、失業者救済と農村振興を図るため時局匡救(きょうきゅう)事業を実施した。これによって地方の農業土木事業費は急増した。恐慌に伴うこれらの法令の公布や事業の実施は、国政委任事務費の割合をいっそう高める結果となった。満州事変後、景気回復とともに経済発展の地域的不均衡は一段と激化し、地方公共団体間の財政力格差が甚だしくなった。そこで、36年に、窮迫した町村における住民の過重な税負担を軽減する目的で、臨時町村財政補給金制度が発足した。わが国における地方財政調整制度の萌芽(ほうが)で、翌年には臨時地方財政補給金と改められ、道府県と市をもその対象に含めた。
1937年に日中戦争が始まると、重要物資の増産、軍事援護、防空などが地方の仕事に加わり、民生関係の行政を圧迫した。40年には、戦争遂行のための国税収入の増大と地方財源の保障を目的として、国税・地方税を通ずる大規模な税制改正が実施され、徹底した中央集権的な地方税財政制度が成立した。地方税は付加税中心となり、新たに還付税と配付税からなる地方分与税が設けられた。このうち配付税は、特定の国税の一定割合を地方公共団体の課税力と財政需要を基準として配分するもので、これによって本格的な地方財政調整制度が確立された。太平洋戦争突入後の43年の府県制および市制、町村制の改正によって、地方公共団体は形式上の自治をさえ大幅に奪われ、まったく国の下部機関と化した。
[大川 武]
第二次世界大戦後、占領軍の主導のもとに地方制度の民主化も進められた。新憲法は地方自治の章を設けてこれを保障し、1947年(昭和22)5月に憲法と同時に施行された地方自治法は、地方自治を基礎とした地方行政の基本的な仕組みを規定した。また、地方公共団体の仕事は、戦災復興、食糧増産、失業対策などに加えて、六三制義務教育の実施や自治体警察の発足などによって著しく拡大した。しかし、これらの施策を裏づける財源は、46年から48年にかけて一連の地方税制の改正が行われたものの十分ではなく、インフレの高進もあって、地方財政は極度の困窮に陥った。
1949年に、シャウプ税制使節団の日本税制報告書が提出された。これは、インフレを抑え資本蓄積を促進しようとするドッジ・ラインを税制面から支えることを目的としたものであったが、地方財政に関しては、地方自治強化の立場から、地方税源の拡充、付加税制度の廃止、平衡交付金制度の創設、国庫補助金の大幅な整理、起債制限の緩和など重要な提案を含むものであった。このシャウプ勧告に基づいて、50年に地方税財政制度の抜本的な改正が実施された。地方税体系は、道府県税は付加価値税(実施は延期され、結局1954年に廃止)を、市町村税は住民税と固定資産税を柱に再編成され、地方公共団体に一定水準の行政の実施を保障する地方財政平衡交付金制度が創設された。しかし、国庫補助金の整理は各省庁の抵抗にあってきわめて不徹底なものに終わった。
朝鮮戦争(1950~53年)を境にして、一連の民主化政策の手直しが始まり、地方に対する統制も強められるようになった。1951年には、政令諮問委員会が行政機構の簡素化と行政事務の大幅な整理を提案し、地方行政簡素化本部が設置された。52年には、地方財政委員会の廃止や地方行政機構の簡素化、特別区長公選制の廃止などを含む地方自治法の改正があった。53年には町村合併促進法が公布され、54年には義務教育職員の政治活動を制限する教育二法の制定、自治体警察を都道府県警察に一元化する警察法の改正が行われた。また、この年には、地方財政平衡交付金制度の地方交付税制度への改組、道府県民税の創設などによる道府県税の強化、地方譲与税制度の新設など、いわゆるシャウプ税制の大幅な手直しがあった。
この時期の地方財政は、朝鮮戦争後の不況、事務事業の増加と不十分な財源措置などが原因で苦況に立たされ、赤字団体が増加し、54年度末には全地方公共団体の38.5%にあたる2281団体が赤字団体に転落した。政府は、55年に地方財政再建促進特別措置法を制定し、その指導のもとに徹底した合理化による財政再建を図ったが、おりから始まった高度経済成長の影響もあって、赤字団体数と赤字額はその後急速に減少した。
1960年代にわが国の経済は目覚ましい成長を遂げた。これに対応して、政府は、経済発展の隘路(あいろ)となっていた産業基盤の整備と地域開発に力を注いだ。62年には全国総合開発計画が策定され、拠点開発の旗印のもとに新産業都市や工業整備特別地域の指定が行われた。地方公共団体はこれらの政策の実質的な担い手となり、高度成長を支えた。しかし、その反面で、生活基盤の整備が遅れただけでなく、過密・過疎、公害、環境破壊などの問題も深刻化した。
1973年秋の第一次オイル・ショック以後、わが国の経済は低成長時代に移り、国・地方とも恒常的な財源不足に直面することになった。75年度以降の地方の財源不足に対して政府が講じた措置は、主として交付税特別会計の借入れと地方債の増発という借金政策であった。また、76年に「増税なき財政再建」を看板に発足した第二次臨時行政調査会は五次にわたる答申を提出し、合理化と経費節減、受益者と地方の負担増などを強調した。政府は、85年1月には地方公共団体に対して、簡素にして効率的な行政を実現するための「行政改革大綱」をまとめるように指示し、また85、86年度には国庫負担の軽減を図るために、いわゆる高率補助金の補助率の一律削減を行うなど、この答申に沿った政策を推進した。
1980年代後半以降、景気が上昇し、いわゆるバブル景気に入るとともに、国、地方の財政状態も徐々に好転し、国では90年度(平成2)に赤字国債依存から脱却し、地方でも交付税特別会計の借入れ(86年度まで)や財源対策債の発行(87年度まで)に頼らなくてもすむようになった。また87年度以降は、国税の自然増収による地方交付税の増加分を財源に交付税特別会計の借入金の返済を始め、91年度末までに借入金残高をほとんど解消することができた。しかし、91年以降のバブル崩壊により平成不況に陥ると、税収の伸び悩み、景気対策のための事業費の増大等から、国も地方もふたたび巨額の財源不足に陥って、地方財政は交付税特別会計の借入金や地方債の増発という借金に頼らざるをえなくなる。
1990年代はまた、地方分権論議が活発化し、その第一歩が踏み出された時期でもある。95年に地方分権推進法が成立し、地方分権推進委員会が発足した。委員会は「分権型社会の創造」を目ざして数次にわたる勧告を提出し、そのなかで機関委任事務の廃止と自治事務および法定受託事務への振り分け、国から地方への事務権限の移譲、国の地方に対する関与の縮小・廃止などを提案した。これらの提案に基づいて、98年に地方分権推進計画が策定され、実施のための関連法の改正作業が進められて、2000年4月に地方分権一括法が施行された。これは地方分権にとって画期的な改革といえるが、地方分権を実効あるものとする地方財政制度の見直しについては、今後の課題として残されたものが多い。これについて地方分権推進委員会の第二次勧告は、(1)国と地方の経費負担のあり方、(2)国庫補助負担金の整理合理化、(3)存続する国庫補助負担金にかかわる運用・関与の改革、(4)地方税財源の充実確保などを提案していた。法定外普通税の許可制から事前協議制への変更、法定外目的税の創設(事前協議制)、地方債許可制度の事前協議制への変更など法改正で取り上げられたものもあるが、国庫補助負担金の整理合理化や地方税財源の充実確保などの基本的な提案については、まだほとんど手がつけられていない。
[大川 武]
地方財政の規模(都道府県・市町村の純計歳出決算額)の推移を1985年度を100とした指数でみると、90年度139、92年度159とかなりの増大を示したが、それ以降は伸びが大幅に低下し、93、94年度は160台、95~98年度は170台、99年度は181と停滞している。バブル景気とその崩壊を如実に反映している。
このような状況のなかで、歳出の内容には次のような変化がみられた。まず、主要な経費について目的別歳出構成比の推移をみると、1985年度には、教育費23.6%、土木費20.5%、民生費11.1%であったのが、90年度には教育費21.2%、土木費22.3%、民生費10.8%、95年度には教育費18.9%、土木費23.3%、民生費12.1%、99年度には教育費17.9%、土木費20.6%、民生費14.8%となっている。教育費の比重は低下し、民生費の比重が上昇している。これに対して、土木費の比重は87~91年度は22%台へ、92~95年度は23~24%台へ上昇し、以後は若干低下している。92年度以降の上昇は景気対策としての建設事業費の増大に対応するものである。民生費の構成比の増大は、新旧ゴールドプラン(89年策定、94年見直し)の実施等により社会福祉費(身体障害者・知的障害者等の援護経費)および老人福祉費が高い伸びを示したことによる。民生費に占めるこの二つの経費の比重は、89年度49.7%、95年度55.1%、99年度60.3%と急激に上昇している。
次に、性質別に主要経費の構成比の推移をみると(人件費、普通建設事業費、公債費の順)、85年度にそれぞれ32.0%、26.8%、10.2%であったのが、90年度には28.4%、28.8%、8.3%、95年度には26.1%、31.4%、8.7%、99年度には26.6%、25.7%、11.6%となっている。人件費の比重は30%台から低下を続け、92年度以降はほぼ26~27%を維持している。行政改革のもとで事務事業の見直し、定員管理の適正化等が進められた結果である。これとは逆に、普通建設事業費の比重は上昇を続け、92~96年度には30%台を占め、その後低下した。前記の目的別歳出構成比における土木費の比重の推移と見合っている。この間、地域振興政策、内需拡大のための公共投資基本計画、バブル崩壊後の経済対策などの実施が地方公共団体に求められ、地方公共団体はこれらの事業の多くを単独事業を積み増す形で引き受けた。普通建設事業費における補助事業費と単独事業費の比率は、85年度に53対42(ほかに国直轄事業負担金)であったのが、90年度には逆転して38対58となり、95年度は40対55、99年度は45対49となっている。国の財源難を地方の単独事業で補おうとするもので、単独事業費に対しては国の特別の財源措置がとられた。最後に、公債費(地方債元利償還金と一時借入金利子)の比重は、85年度の10.2%から若干低下し89~95年度は8%台で推移したが、97年度以降はふたたび10%を超えている。99年度における地方債元金償還金の内訳では、一般単独事業債にかかわるものが40%台ともっとも大きな割合を占めており、ここには単独事業費に対する財源措置の結果が表れている。
以上のような歳出内容をまかなうための財源は、どのような状態であったか。まず、同じ時期について、主要な財源の構成比の変化を見てみよう(地方税、地方交付税、国庫支出金、地方債の順)。それぞれの比率は、1985年度は40.6%、16.4%、18.3%、7.8%、90年度は41.6%、17.8%、13.3%、7.8%で、とくに国庫支出金の比重の低下が目だっている。ついで95年度にはそれぞれ33.2%、15.9%、14.9%、16.8%となり、地方税の比重の低下と地方債の比重の増加が著しい。さらに99年度は33.7%、20.1%、16.0%、12.6%で、地方債の比重は若干低下し、地方交付税の比重が大幅に上昇した。このような財源構成比の変化は、地方税と国庫支出金の変化を中心にして動いている。
地方税の構成比は、1985年~91年度は40%台を占めていたが、92年度以降は40%を割り、94、95年度には33%台にまで落ちている。その後多少上昇したが、99年度にはふたたび33%台に落ちた。また、60年代、70年代には20%台を占めていた国庫支出金の構成比は、80年代に入ると急速に低下し始め、88年度以降は13、14%台で推移している。これは、国の歳出抑制策の下で国庫支出金の削減が図られたことによるものである。つまり、80年代には国庫支出金の比重の減少が、また90年代には不況による地方税の比重の減少が財政圧迫の大きな要因となってくる。これを補填(ほてん)する役割を果たしたのは、主として地方交付税と地方債であった。地方交付税はこの期間ほぼ16~17%を維持しており、地方債は91年度までは7~8%、92年度以降は急増して、93~98年度は14~16%にまで達している。
1985年から始まった国庫補助負担率の引下げに伴う地方の財源不足に対しては、地方交付税の増額(交付税特別会計の借入れ等)や建設地方債の増発等による対応がなされ、最終的には地方交付税の対象税目の見直しが行われた。80年代後半のバブル景気によって、地方財政は自然増収を借金の返済にあてる余裕が生じたが、バブルの崩壊によって地方税収は低迷し、地方財政はふたたび巨額の財源不足を生じるに至った。地方の財源不足額は、91年度に6300億円であったのが、92年度には2兆2900億円、93年度には3兆4300億円、94年度には7兆4400億円と増大し、2001年度は14兆300億円と見込まれている。これに対する対応としては、70年代後半から80年代前半にかけてとられたのと同じ、財源対策債の増発と地方交付税の増額という手法がふたたびとられている。前述した地方交付税の比重の維持と地方債の比重の急増は、これらの対策の結果にほかならない。しかし、負担を将来に転嫁するこうした手法にも限界がある。
地方財政に対しては、その健全化とともに、地方分権の進展のための基盤としてその充実強化が課題となっている。そのためには、国庫支出金を真に必要なものに限定するという観点に立って積極的に整理合理化を進めたうえで、地方の歳出と税収との乖離(かいり)(たとえば、1999年度において、一般財源に占める地方税の割合は61%にすぎない)をできるだけ縮小するように地方税を拡充する必要がある。その際、地方には、税源の偏在性が少なく、税収の安定性を備えた地方税を配分し、地方公共団体間の税収の格差をできるだけ少なくするように努めなければならない。それでもなお残る税収の格差を調整するために、地方交付税の役割は必要であろう。しかし、その役割が最小限度で済むように、地方税の配分が適切に行われることがなによりも重要である。
[大川 武]
『総務省編『地方財政白書』各年版(財務省印刷局)』▽『佐藤進・林健久編『地方財政読本(第4版)』(1994・東洋経済新報社)』▽『自治省財政局編『地方財政のしくみとその運営の実態』(1996・地方財務協会)』▽『石原信雄・二橋正弘著『新版 地方財政法逐条解説』(2000・ぎょうせい)』
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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