中世の交通の要衝で、史料上は垂井宿としてみえることが多い。承久三年(一二二一)六月七日、京方の軍勢を
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
岐阜県南西部,不破郡の町。人口2万8505(2010)。揖斐(いび)川支流の相川の扇状地が町域の南半を占め,北部には伊吹山地が広がる。東海道本線は地形の関係で,上りが垂井駅,下りが新垂井駅に分離し(1986年上り・下りとも垂井駅経由となり,新垂井駅は廃止),垂井駅前が中心集落をなす。かつて中山道と美濃路の分岐点の宿場町として栄え,一里塚(史)が残る。中京と関西を結ぶ交通の要衝にあたり,旧大垣市の西隣に位置するため機械,金属,繊維などの工場が進出している。早くから開けた米作地帯で,水田にはまんぼと呼ばれる地下水を集める横井戸がみられる。洋ラン,干しガキ,茶が特産。揖斐関ヶ原養老国定公園,伊吹山県立自然公園に属し,美濃国分寺跡,竹中氏陣屋跡,南宮神社など史跡も多い。
執筆者:上田 雅子
古代の不破駅の所在地は垂井とも青墓ともいわれる。下って,承久の乱に幕府軍が垂井・野上両宿に陣し,また1238年(暦仁1)将軍藤原頼経が宿泊するなど,鎌倉時代以降東山道の宿駅として発達した。南北朝時代,後光厳天皇が美濃に逃れたおり,垂井にも行宮が営まれ,室町時代には結城合戦で捕らえられた春王,安王が京への途次この地の金蓮寺で殺されている。江戸時代には,中山道の宿駅に指定され,美濃路の分岐点ともなった。この地に鎮座する南宮神社は,式内社,美濃国一宮で,鎌倉時代に北条政子,室町時代に守護土岐氏などの崇敬をうけ,関ヶ原の戦に兵火にかかったのち,徳川家光の命によって再建された。鳥居付近に5・9の日の六斎市が開かれ,門前町もできて,幕末には家数310軒余,人口約1200弱,本陣・脇本陣,旅籠屋,商人,職人などの家並みが連なっていた。
執筆者:高牧 実
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
岐阜県南西部の不破郡(ふわぐん)にある町。大垣市の西に位置し、1889年(明治22)町制施行。1954年(昭和29)府中、表佐(おさ)、岩手、宮代(みやしろ)の4村および荒崎村の一部と合併、合原(あいはら)村の一部を編入。JR東海道本線、国道21号が通じる。中心地の町並みは、江戸時代の中山道(なかせんどう)の宿場から発展したもの。工業面でみると、製造品出荷額は一般機械、金属製品、プラスチック製品、電気機械の順である(2020)。また、茶や柿渋(かきしぶ)用の渋柿は特産で、洋ランの温室栽培も行われる。宮代の南宮大社(なんぐうたいしゃ)は美濃国(みののくに)の一宮(いちのみや)で、主神は金山彦命(かなやまひこのみこと)で、採鉱・冶金(やきん)・鋳物(いもの)などの神、社殿は国指定重要文化財。また、垂井の一里塚は国指定史跡となっている。面積57.09平方キロメートル、人口2万6402(2020)。
[上島正徳]
『『垂井町史』(1969・垂井町)』▽『『新修垂井町史』全2巻(1994~1996・垂井町)』
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年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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