堀に囲まれた中世の武士の屋敷地。堀を掘った土を内側に盛った土塁によって囲まれることが多いので,土居とも称した。現在遺跡として残るものは,ほぼ1町(109m)四方の正方形を基準にし,小は半町四方,大は2町四方まで規模の差がある。堀の水は防御だけでなく,農業用水としても用いた。川から引いた水をいったん屋敷まわりの堀に通してから,まず門田などの直営田,次いで領内の百姓の田畠に灌漑したことのわかる例もあり,中世初期の在地領主が直営田経営を基礎にして所領支配を行ったことと対応する。屋敷地内には畠があるのが一般であるが,実際の屋敷地以外の周辺の田畠も合わせて堀ノ内と呼ばれる場合がある。鎌倉時代の史料で〈地頭堀内〉何町何反などと記される場合はたいていそうである。これは屋敷地に認められた特権である免税の扱いや,住人に対する人身的支配を広げようとする在地領主の動きと関連している。今日堀ノ内は地名としても各地に残っている。
執筆者:村田 修三
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堀に囲まれた土豪や武士の居館。堀の土を使って内側に土塁(どるい)を廻らしたことから土居(どい)ともいう。堀は防御施設であるとともに用水路でもあり、門田(かどた)や周辺百姓の田畠を潤して、領主による勧農(かんのう)の機能をはたした。堀ノ内には矢倉や住宅、倉庫、馬屋、下人らの長屋のほか畠地や馬場などもあり、1町四方の規模のものが多かった。『一遍上人絵伝』の「筑前国の武士の館」にその様子を見ることができる。近年の研究では史料上の「堀ノ内」は、領主の惣領(そうりょう)屋敷を意味する場合と、村や郷を示す場合があるだけで、かならずしも堀ノ内すなわち居館とはいえないという。また、考古学上の成果からも、堀をもつ方形居館の成立は、南北朝時代以降であることなどが明らかにされている。
[鈴木哲雄]
『小山靖憲著『中世村落と荘園絵図』(1987・東京大学出版会)』
四角く堀や土塁を巡らした中世の武士の屋敷。これを核に周囲に館主の直営田があり,さらにその外側に館主が地頭として支配した地域が広がる。地域開発の拠点として館のまわりの堀は,田畑の用水の結節点としても機能した。長方形の政治拠点は,古墳時代の豪族居館や古代の国司の館などが古くから築かれた。中世前期には台地縁辺部や丘陵先端に立地し周囲の斜面に切岸(きりぎし)(人工急斜面)を施して館としたものがあり,これらは堀を巡らさず,防御性に乏しくみえるが,壁によって厳重に守られていた。
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…また,全国に建設された国分寺,国分尼寺のうち,遠江や陸奥国分寺では寺地境界に土塁を築いていたことが知られている。中世においては土居の外側に堀(濠)をうがつことが多く,その内側を〈堀の内〉とも呼んだ。 土居のなかで最も大規模なものとして,1591年(天正19)に豊臣秀吉が京都の周囲にめぐらした〈御土居(おどい)〉がある。…
…中世武士団もこの本宅を核として形成され存続した。中世武士の屋敷地は通常1~2町の規模を有し,堀や土塁で区画されて土居,堀ノ内などと称せられ,屋敷畠や門田(もんでん)等の直属耕地や下人在家を包摂していた。このような在地領主の本宅は,名田(みようでん),所職(しよしき)など全所領の根幹をなしていたので,武家による本領安堵を本宅安堵ということがあり,治承・寿永の内乱のとき,河内国の領主が本領開発田の濫妨に対して〈安堵本宅〉をもとめて源義経の安堵外題を与えられ(《水走文書》),上総国御家人が源頼朝から〈本宅に安堵すべきの旨〉の恩裁をうけた事例(《吾妻鏡》)がある。…
※「堀ノ内」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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