( 1 )京都賀茂神社の競馬神事は、平安時代に武徳殿で行なわれた様式を伝えるものとして、現代まで続いている。競馬香の見本となったように、二騎による勝負で、馬場末の標木(しるしぎ)に到達する遅速により、勝負を決める。これとは別に、十列(とおつら)と称する勝負がある。→十列(とおつら)。
( 2 )現在行なわれている競馬は西洋式であり、文久元年(一八六一)横浜の洲干弁天社の西側の馬場で外国人有志により初めて行なわれたとされる。
俳句の季語としては、特に五月五日に京都で行なわれる賀茂競馬をいうことが多い。
騎馬の競走。距離や負荷重量など,定められた条件のもとで2頭以上の馬を走らせ,その勝負を競う。
現代の競馬は騎馬による戦闘,戦車競走,狩猟などにその起源をもつといわれる。古くはホメロスの《イーリアス》の中にうたわれた戦車競馬にまでさかのぼることができるが,近代競馬の形態が整えられたのはイギリスにおいてである。記録によれば,1377年,プリンス・オブ・ウェールズ(後のリチャード2世)とアランデル伯爵がニューマーケット付近でそれぞれ自分の馬に乗ってレースを行ったとある。初期の競馬はこうしたマッチレースが主体だったようだ。その後,イギリスの王侯貴族がイニシアティブをとることで16~17世紀に競馬は隆盛期を迎えた。1540年に最初の常設競馬場がチェスター郊外のルーディに作られ,王政復古後の1666年にはチャールズ2世がニューマーケット・タウンプレート競走に王室杯を寄贈した。このレースは後のキングプレート競走の前身で,19世紀まではイギリス最大のレースとして現在の4歳馬五大クラシックレースに相当する地位を占めていた。1711年,ウィンザー宮殿に近いアスコットにアン女王によって唯一の王室所有の競馬場が開設され,女王杯レースが催された。その後,アスコットで開催される夏の王室競馬は王室のほか多くの紳士,淑女が集まり,華やかなファッションを競い合う一大社交場となった。また18世紀にはそれまでの2人の馬主によるマッチを3人以上の馬主の参加に拡大し,それぞれが拠出する出馬登録料を優勝馬の馬主が全額収得するスイープ・ステークス制度が登場した。これがマッチレースに代わりしだいに競馬の本流を占めるようになった。そしてこのスイープ・ステークスの代表としてセントレジャー(1776,ドンカスター競馬場),オークス(1779,エプソム競馬場),ダービー(1780,エプソム競馬場)の各レースが創設された。セントレジャーはアンソニー・セントレジャー中将,ダービーは第12代ダービー卿エドワード・スミス・スタンリーとそれぞれ創始者の名をとり,オークスは創始者ダービー卿の別荘地の名から名付けられた。この3レースに2000ギニー(1809,ニューマーケット競馬場),1000ギニー(1814,ニューマーケット競馬場)を加えたものが,現在も続いている明け4歳馬(満3歳)の五大クラシックレースである。1750年,競馬運営機関としてジョッキー・クラブが創設された。当初はニューマーケット競馬に関与しただけだったが,しだいに指導メンバーの見識と権威が他の競馬場にも影響を及ぼし,その後の変遷を経て,現在ではイギリス競馬の権威ある統轄機関となっている。
(1)古式競馬 日本で最初に文献にあらわれた競馬として《続日本紀》に記されている701年(大宝1)の走馬(はしりうま)が挙げられる。宗教的色彩が濃く,当時きわめて貴重な存在とされていた馬を神の乗物と想定し,各馬の資質を競い合い,その行事を神に奉納したとされているが,この行事は競駒(くらべこま),競馬(くらべうま)などの名でその後のいくつかの文献に顔を出し,清少納言も《枕草子》の中で,競馬観戦を記している。現在でも京都の上賀茂神社で行われている賀茂競馬は,平安時代末期に同神社で行われた競馬の実情を伝えているとされている。こうした古式競馬が近代競馬の輸入まで約1000年もの間続けられてきたのは,狩猟や戦闘などにおいて,ヨーロッパほど民族が馬そのものとかかわり合いが深くなかったことや鎖国政策などが理由として挙げられるだろう。
(2)近代競馬 日本で初めて近代競馬が行われたのは1861年(文久1)である。横浜の山下町で在留外国人によって催された。翌62年,このイギリス人を中心とする在留外国人の競馬施行団体として横浜レースクラブが設立され,根岸競馬場でレースが行われた。75年ころには,日本人のクラブ加入が認められ,80年には日本レースクラブと改称,春秋2回の根岸競馬が開催された。これをまねて東京九段の招魂社(しようこんしや)(後の靖国神社)祭典競馬のほか三田育種場,戸山学校,上野不忍池畔などに円形馬場が作られて,それぞれ競馬が開催された。このほか札幌,宮崎などの馬産地でもそれまでの古式競馬とは異なる娯楽を目的とした競馬が行われた。この時期は,日清戦争などで日本産馬の能力の低さが指摘されたこともあり,日本馬改良のためには競馬施行が効果があると主張する加納久宜子爵や安田伊佐衛門が東京競馬会を設立,事業振興のために賭を伴う近代競馬施行の許可を政府に求めた。当初は一部に反対があったものの,1906年政府はこれを認め,馬券発売黙許の時代が始まり,06年11月から合計4日間,日本人による最初の近代競馬が開催された。これ以後,全国で15の競馬施行団体が生まれ,たちまちにして競馬ブームが盛り上がった。しかし,馬券に熱中するあまりの社会的弊害が起こり始めたことから,各方面から非難の声があがり,08年10月には馬券発売が禁止となった。これ以後14年間は,政府が財政的援助をする形の補助金競馬時代が続いたが,馬券を発売しないため競馬,馬産事業はともに財政的に苦しくなり,23年3月,再び馬券(勝馬投票券)発売を容認する競馬法が成立した。これにより,全国で札幌,函館,福島,新潟,中山,東京,横浜,京都,阪神,小倉,宮崎の11競馬クラブに馬券の発売許可が与えられた。この各競馬クラブの連絡機関として帝国競馬協会(初代理事長,安田伊佐衛門)が設けられ,後に11団体の並立という非能率打開のために発展的解消をとげ,36年の競馬法改正で特殊法人日本競馬会として生まれ変わった。こうして迎えた日本の近代競馬の発展期も第2次大戦のために水をさされることになった。戦局の進展に伴い,馬券の発売を伴わない能力検定競走(1944)に変わり,これも45年には終戦と相前後して北海道静内と岩手滝沢の2会場のみで行われた。戦後は46年に東京,京都の両競馬場で競馬が再開され,48年には新たな競馬法の下で政府みずからが施行団体となる国営競馬時代となった。その後,国が賭事を伴う競馬を施行することの道義的問題が指摘されるなどして民営論が高まり,54年競馬施行は民間に移行されることになった。この施行団体として政府全額出資の特殊法人日本中央競馬会(初代理事長,安田伊佐衛門)が発足した。これは公社に準ずる公共性の強い団体で,農林大臣(現在の農林水産大臣)の監督下に置かれ,現在に至っている。中央競馬の競馬場は札幌,函館,福島,新潟,中山,東京,中京,京都,阪神,小倉の10ヵ所。
日本で行われている競走は,1995年まで競走馬の品種によりサラブレッド系とアラブ系に分かれ,前者では平地,障害両競走が行われ,後者では平地競走のみが行われていたが,アラブ系競走は96年に中央競馬では廃止された。トロッター種による繫駕速歩(けいがそくほ)競走も1968年かぎりで中央競馬から姿を消した。また数え年による馬の年齢により3歳,4歳,5歳以上などと区別され,獲得賞金によっても細かくクラス分けがなされている。このほか一般競走と特別競走という分け方もある。特別競走は欧米におけるステークスレースの流れをくみ,出走馬の馬主から特別登録料を徴収し,それを賞金の一部にあてるもので,このうちとくに賞金の高いものを重賞競走といい,年間約100レースが行われている。さらにその中でもとくに有名なレースとして4歳馬の五大クラシックレース(桜花賞,皐月賞,優駿牝馬=オークス,東京優駿=ダービー,菊花賞)があり,これに春秋2回の5歳馬以上(古馬)による天皇賞,4歳馬以上の有馬記念を加え,八大競走と呼んでいる。五大クラシックレースはいずれもイギリスのクラシックレースに範をとったもので,オークス,ダービーのほか,桜花賞は1000ギニー,皐月賞は2000ギニー,菊花賞はセントレジャーによる。このうち皐月賞,ダービー,菊花賞の3レースを制した馬を三冠馬と呼ぶが,これもイギリスで2000ギニー,ダービー,セントレジャーに優勝した馬をトリプルクラウン・ホースというところからきている。イギリスではすでに70年のニジンスキーまで15頭の三冠馬が出ているが,日本では1941年セントライト,64年シンザン,83年ミスターシービー,84年シンボリルドルフ,94年ナリタブライアンの5頭だけである。また有馬記念はファン投票,推薦委員会の推薦により出走馬が選出されるもので,1956年に中山グランプリの名で創設され,第2回からその年に死亡した日本中央競馬会第2代理事長有馬頼寧の名をとって改称された。障害競走の大レースは数少ないが,年2回の中山大障害(距離4100m)が有名である。
競走馬が背負う重量には騎手(体重),その装具(むち,帽子を除く)のほか,鞍,鞍下毛布,ゼッケン(番号ゼッケンを除く),しりがい,むながい,また綱の重量が含まれ,その決め方には(1)馬齢,(2)別定,(3)ハンディキャップの3通りがある。馬齢重量は馬の年齢,性別で決められたものである(表2)。別定重量は馬齢,性別のほかに収得賞金,勝利数などを加味して算出されるもので,多くの重賞競走がこれを採用している。また4歳五大クラシックレース(牡57kg,牝55kg),天皇賞(牡58kg,牝56kg),有馬記念(4歳54kg,5歳56kg,6歳以上55kg,牝馬各2kg減)と牡,牝の間にだけ差を設けて全馬に一定の重量(定量)を負担させるものも別定重量に含まれる。ハンディキャップとは,強い馬に負担重量を大きく与えることによってどの馬にも勝つチャンスを与えようとするもので,優勝劣敗という競馬の競走原理には反したものだが,ゲームとしての競馬の興趣を盛り上げるものとして,現在,世界各国の競馬で増加の傾向にある。ハンディキャップを作成する公式のハンディキャッパーは競走成績,競走の細かな内容,持ちタイム,さらには調教の状態なども参考にしてこれを決める。負担重量を1kg増すと1600mで約1馬身,2400mで約2馬身の差をもたらすという。
馬券は正式には勝馬投票券といい,1923年の競馬法制定の際に採用され,現在に至っている。馬券の種類には単勝式,複勝式,連勝式がある。単勝式は1着馬を的中させ,複勝式は出走馬の数により,5~7頭の場合は1,2着馬,8頭以上の場合は1~3着馬のそれぞれいずれかを的中させればよい。連勝式には連勝単式と連勝複式があり,出走馬を1~8枠に割り振り,1,2着馬をその枠番号でその順に的中させなければいけないのが連勝単式で,その逆でも的中とするのが連勝複式である。中央競馬では,単勝,複勝,枠連,馬連,ワイド,馬単,3連複,3連単の8種類。馬券の取扱い手数料ともいうべき控除金は,現在2段階で差し引かれている。まず売得金全体の18%が控除され,その次に残りの金額から的中分を差し引いたものからさらに10%が控除され,その残りが払戻金となる。したがって的中分の金額によって全体の控除率および払戻率は異なり,的中が多ければ控除率は低くなり,的中が少なければ高くなる。一般に控除率は25%といわれているが,これはおおよその目安で,正確には18%から26.2%の間ということになる。配当金については次の簡便計算法で算出できる(いずれも10円に対しての配当)。
Wは的中票数,Dは不的中票数
この概算払戻率を各出走馬についてレース前に発表したものがオッズである。オッズの表示は日本では64年から行われ,当初は特殊な計算尺を用いるなどしていたが,現在ではコンピューターにより,オッズを刻々計算,表示するトータリゼーター・システムが採用されている。
海外の馬券についていえば,どの国でも単勝win,複勝placeは発売されている。連勝式forecastもイギリス,アイルランド,フランス,アメリカ,イタリア,ドイツなど多くの国で用いられ,そのほかイギリス,フランス,アメリカでは重勝式doubleがあり,フランスで有名なものとして3連勝tiercéがあり,イギリスでは宝くじ的な6重勝jack pot,6連勝role upがファンの人気を呼んでいる。イギリスの場合,ブックメーカーと呼ばれる私設の公認馬券取扱い業者の売上げが売上げ全体の93%(1996)を占め,配当については馬券発売時にブックメーカーが客に表示するシステムになっている。ブックメーカーが法的に認められているのはイギリスのほかアイルランド,南アフリカ,ドイツ,イタリア,オーストラリアなどで,フランス,アメリカでは認められない。
馬券を発売するのは開催競馬場のほか全国35ヵ所に場外発売所がある。また遠隔地競馬ファンへのサービス,場内,場外発売所の混雑緩和およびいわゆるのみ行為防止などを目的に76年10月に電話投票が生まれた。電話投票には二つの方式がある。(1)ARS(音声応答)方式は,プッシュボタン電話機で加入者が電話投票所のコンピューターに直接申込み内容を入力する。(2)CRT(対話)方式は,プッシュボタン電話機またはダイヤル電話機で,加入者が電話投票所の係員に口頭で購入申込みするもの。加入者は中央競馬会と電話投票に関する契約を結び,競馬会の指定する銀行に,本人名義の電話投票に使用する普通預金口座とあわせて,競馬会への担保として定期預金口座を開設する。
馬券の発売は中央競馬会に限られる。馬券発売の類似行為(のみ行為)をして利を図った者(のみ屋)は,競馬法30条により5年以下の懲役もしくは50万円以下の罰金に処せられる。近年はこれが暴力団の資金源となる場合も多い。
発走合図は発馬機で行う。以前には麻縄製のネットを上方に跳ね上げて合図するバリアーbarrier式発馬機が用いられていたが,これは各馬の静止状態が一致せず,他馬に触れるなどの欠陥があった。このため60年からウッド式発馬機,そして75年からこれに改良を加えたJSG48型発馬機が用いられるようになった。
祭礼などの余興として行われていたいわゆる草競馬の流れをくみ,1910年全国の畜牛馬組合の手で施行されたのが,今日の地方競馬の始まりとなった。その後,施行者や地方競馬規則(最初の制定は1927年)の変遷を経て,39年〈軍馬資源保護法〉が公布され,同年末に地方競馬規則は廃止された。これは37年の日中戦争勃発により,資質の高い軍馬の需要が増大し,あわせて軍費調達の一方法として競馬の収益に目がつけられたためで,額面3円以下の〈優等馬票〉(単勝,複勝式)発売,すなわち地方競馬で初めて馬券の発売が認められることになった。そして48年の新競馬法公布により,初めて中央競馬と地方競馬は法律的に一本化された。中央競馬との相違点はいくつかあるが,おもなものとしては施行者が都道府県および指定市町村の地方公共団体であること。中央がその目的として馬の改良増殖その他畜産の振興に寄与することをうたっているのに対し,地方には明確な条文がなく,しいていえば地方財政への寄与がその主目的とみられること。競馬場数は中央が10ヵ所なのに対し,地方は2005年現在22ヵ所である。中央,地方両競馬の交流にはさまざまな障害があるが,1973年に中央競馬が地方競馬招待レースを行い,翌74年には地方が中央を招待。その後も両者の交流は深まり,重賞競走に限っても,中央で12の招待レースが開催されている。
競馬施行の主催者である日本中央競馬会は,競馬法により馬主の登録をし,調教師,騎手に免許を与え,厩舎(きゆうしや)の貸付けを行う。そして調教師が雇用する調教助手,馬手の承認を行う。
馬主登録には個人,法人の2種類があり,最近では税金対策,競走馬価格の高騰などの理由から法人馬主が増加の傾向にある。競馬法により以下の者は馬主登録は受けられない。(1)禁治産者,準禁治産者および破産者であって復権を得ない者,(2)競馬法(旧競馬法を含む),地方競馬法に違反して罰金以上の刑に処せられた者,(3)1年以上の懲役に処せられた者,さらに調教師,騎手など厩舎関係者も馬主登録は受けられない。馬名登録についてはかたかな表記で,3歳時にかぎり,1度だけ変更が許されるが,(1)有名な馬の名称もしくは馬名と同じである馬名またはこれと紛らわしい馬名,(2)父母の名称もしくは馬名と同じである馬名またはこれと紛らわしい馬名,(3)すでに登録を受けている馬名もしくは登録を抹消されてから5年を経過しない馬名と同じである馬名またはこれと紛らわしい馬名,(4)奇矯な馬名,広告,宣伝を目的とした馬名,(5)10字以上の馬名,などは登録を受けられない。
馬主から競走馬を預かり,これを育成管理するとともに,調教しレースに出走させるのが調教師の役割だが,馬主に代わって出馬登録,出馬投票,賞金の受領なども行う。こうした業務を一人で切り回すのは大変なので,馬の調教や厩舎管理業務を代行するものとして調教助手がいる。これは日本中央競馬会理事長の承認を受けて調教師が自分の助手として雇用する。調教師はこのほか馬手とも雇用関係を結んでおり,厩舎の労務管理も重要な仕事の一つになってきている。調教師になるためには中央競馬会が行う免許試験(身体,学力,人物,技術)に合格しなければならず,受験資格は28歳以上。現在のところ,調教師の前身は騎手,調教助手といった厩舎勤務経験者で占められている。2006年現在,調教師総数は227名(関東地区115名,関西地区112名)。
馬の能力を最大に発揮させるという意味で,騎手jockeyは馬と並んでレースの主役である。騎手は通常,各厩舎に所属し,主としてその厩舎の馬の調教,騎乗を行うが,拘束関係はそれほど強いものではなく,他厩舎の馬にも騎乗する。またフリーとしてどの厩舎にも所属しない騎手もいる。騎手になるためには,調教師と同じく中央競馬会の免許試験に合格する必要があるが,受験資格を得るためには厩舎で調教師に養成を受ける騎手候補者制度と東京の馬事公苑にある中央競馬会の騎手養成所で養成を受ける騎手講習生制度がある。免許試験は身体(体重は発育完成時で49kg程度以下の見込みのもの),学力,人物,技術にわたって行われる。97年現在,騎手総数は180名(関東地区90名,関西地区90名,うち女性5名)。騎手の重要な条件の一つに体が小さく,体重の軽いことがあり,ふだんでも50kg以下の体重を維持するためにたいていの騎手は1日2食で米飯を極端に控えた食事をとり,体重のコントロールに神経をとがらせている。また数え年26歳以下の騎手が一般競走に騎乗する場合,その騎手の勝利数が20回以下のときには3kg,21回以上30回以下のときには2kg,31回以上40回以下のときには1kgの重量をその負担重量から減じてもらえる制度があり,これらの騎手を見習騎手あるいは減量騎手と呼んでいる。騎乗方法も昔と現在では大きく違う。昔は普通の乗馬のように長い鐙(あぶみ)で,騎座を鞍につけ上体をまっすぐに起こしていた。それが競馬のスピード化に対応するため,1898年にアメリカのトッド・スローン騎手がいわゆるモンキー乗りを考案してから,鐙が短くなり,上体を前に倒して尻を鞍から離すスタイルが定着し,日本でも昭和30年代に保田隆芳騎手のアメリカ遠征のみやげの形で取り入れられた。
厩舎で実際に馬の世話をする人のことで厩務員とも称し,競馬法上は馬丁という。調教師との間に雇用関係を結び,調教師の指示に従い,原則として1人当り2頭の持ち馬の世話をする。馬房清掃,引き運動,乗り運動,馬の手入れ,飼料を与える作業を早朝と午後の1日2回行うのがおもな業務である。
競馬を考えるとき,どうしても見逃せないのが血統の問題である。現在,世界各国に分布するサラブレッドの父系をさかのぼると,バイアリー・ターク,ダーレー・アラビアン,ゴドルフィン・アラビアン(ゴドルフィン・バルブ)といういわゆる三大根幹牡馬の名に行き当たる。この3頭をはじめとする多くの東洋産馬が17世紀から18世紀にかけてイギリスに次々と輸入され,現在のサラブレッドの祖先になったが,現代に直系の子孫を残しているのは前記の3頭だけである。サラブレッドとは,このように古くからイギリスに飼われていた牝馬(ひんば)に東洋から輸入したアラブなどの牡馬(ぼば)を交配し,何世代にもわたって競馬という厳しい能力検定を経た結果生まれた馬の1品種ということができる。しかし公認の特定団体またはサラブレッド血統書に登録された馬という厳密な定義からいえば,時代によりまた国によりその登録基準が一定でないという側面もあり,微妙な部分をもっている。この血統についての記録の草分けとなったのが《レーシング・カレンダー》(1773)と《ゼネラル・スタッドブック》(1791)で,いずれもイギリスで刊行された。前者は競走馬の競走成績,後者は牝馬の繁殖成績を記したもので,現在でも引き続き刊行されており,各国もこの伝統にならい血統書と成績書を出している。こうして血統についての記録が整備され,現在ではある種牡馬の産駒が収得した賞金額の多い順に並べてその1位をリーディング・サイアーとするやり方や,ある種牡馬を父にもつ全出走馬の1頭当りの平均賞金獲得額を並べたアベレージ・アーニング・インデックスなどで血統の良否を判断しようとする試みが行われている。さらにある種牡馬の産駒が挙げた勝利の平均距離をもとに算出したスタミナ・インデックスもあり,その種牡馬が短距離向きか長距離向きか判断する方法も用いられている。しかし馬の競走能力の遺伝に関しては,他のさまざまな要素の入り込む余地があり,この血統を背景にして行われるサラブレッドの生産についてはまだ科学的な決め手が見つかっていないのが現状である。
日本と外国では分類のしかたに多少の違いがあるが,日本の中央競馬で行われるサラブレッド系の平地,障害競走,アラブ系の平地競走に使用されるのは日本軽種馬登録協会に登録されるサラブレッド(略称,サラ),サラブレッド系種(サラ系),アラブ(アラ),アングロ・アラブ(アア),アラブ系種(アラ系)の5種類である。このうち純血アラブは日本では絶無の状態だが,アングロ・アラブ,アラブ系種はいずれもアラブの血量が25%以上,サラブレッド系種はそれが25%未満という基準に従っている。またサラブレッド系種の馬も連続8代にわたり,サラブレッドを交配すれば,その子はサラブレッドの範疇に入ることになっている。
日本の競走馬生産は,1923年の競馬法による馬券発売復活以前はサラブレッド,アラブともに微々たるものだった。その後サラブレッド競馬が盛んになるとともにサラブレッドの生産は順調に伸び,アラブも軍用乗馬の供給源としてアングロ・アラブの生産を増大させるという国策のバックアップもあって,急速な伸びを示した。しかし最も大幅な増加は昭和40年代になってからで,1965年に5000頭だったものが,75年には2倍以上の1万1651頭を記録した。その後はアラブの減少もあり,96年の生産頭数は8713となっている。生産地は北海道から九州にまで分布しているが,伝統的な産地としては北海道の十勝,日高,胆振各地方,青森,岩手,宮城,福島,栃木,千葉,宮崎,鹿児島などで,このうち日高は全国の約80%を占めている。競走馬の取引はせり市場で行われるものより,売手と買手が話し合って価格を決める庭先取引が多く,近年のおおまかな傾向としてサラブレッドの場合,自家生産馬を馬主自身が使用するものを含めた庭先取引が85%,残りの15%が抽せん馬を含めて市場取引になっている。種牡馬については1952年から輸入が始まり,73年には最も多い44頭に達し,外国で活躍した競走馬や優秀な産駒を出したものなども目だった。最近では価格が高騰し,1億円以上の価格は常識で,96年に輸入されたラムタラは33億円といわれている。種牡馬の所有形態には団体所有,シンジケート所有,個人所有があるが,外国からの輸入種牡馬についてはほとんどがシンジケート所有となっている。外国のサラブレッド生産状況についていえば,最大の生産国はアメリカで日本の約4倍,次いでオーストラリア,その次に日本,アイルランドが続いている。世界的な生産地として知られているのはアメリカのケンタッキーとイギリスのニューマーケットである。
現在,世界のほとんどの国で競馬は行われており,実施国は90ヵ国をこえるといわれ,かつては開催のなかった中国でも最近になって開催されるようになった。各国とも開催形態や内容についてはいろいろ相違点も多い。たとえば,日本での競走といえば,ほとんどが平地競走だが,フランス,ドイツでは繫駕速歩競走(トロッター)が非常に盛んだし,アメリカにはトロッターのほか,独特のクオーター競走と呼ばれる400mくらいの短距離競走も行われている。この世界各国の競馬は,イギリス式とアメリカ式に大別することができる。まず競馬に対する考え方として,イギリスでは王侯貴族が自分たちの馬を持ち寄り,賭金を出し合って勝負を競ったという伝統が現在も生きており,全賞金のうち馬主の拠出する特別登録料が約25%を占めている。これに対し,アメリカではあくまでファンサービスのための事業という考えが強く,馬主の拠出金の占める割合はわずか0.5%にしかすぎないといわれる。レースに関しては,イギリスではすべて芝馬場でタイムよりも勝負を重視し,強い馬に有利な馬齢重量競走が多い。アメリカでは平坦なダートコースが多く,レコードタイムを高く評価するスピード重視型である。さらに勝負の興味を盛り上げるために,ハンディキャップ競走が多い。
最近は各国の競馬交流が盛んになり,いろいろな国で大規模な国際競馬レースが行われるようになった。いずれも総額400万ドルと世界最高の賞金を誇るワールドカップ(ドバイ),ブリーダーズカップ・クラシック(アメリカ)の2レースをはじめ,アメリカのアーリントン・ミリオン,イギリスのキングジョージVI・アンド・クイーンエリザベス・ステークス,フランスの凱旋門賞のほかイタリアのミラノ大賞典,ドイツのヨーロッパ大賞などが国際級の大レースになっている。日本でも81年から国際人馬招待レースであるジャパンカップを開催,海外の有力馬が毎年のように来日し,国際化の努力が実ってきた。
執筆者:並河 史樹
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
騎手が騎乗する馬が一定の距離を競走する競技のことをいう。本来、馬の改良、畜産振興を目的とするが、スポーツ的要素とギャンブル的要素を兼ねた娯楽として、大衆に迎えられている。
[大島輝久・日本中央競馬会]
文献にみられる世界で最初の競馬は、紀元前800年ごろギリシアの詩人ホメロスの叙事詩『イリアス』に出てくる戦車競馬である。戦車競馬は古代ギリシアのオリンピック競技種目に加えられている。日本の古代競馬には、くらべ馬(競馬)の神事(馬の品格、能力などを比べる)がある。馬を神の乗り物として信仰し、祭礼の奉納競馬として行われた。最初の記録は701年(大宝元)宮廷で行われた競馬で、『続日本紀(しょくにほんぎ)』に「群臣五位以上をして競馬を出さしめ天皇臨御し給へり」とある。その後も、きそい馬、くらべ馬、駒競(こまくらべ)ともいわれ、宮廷儀礼として続いたが、968年(安和元)ごろに廃止され、鎌倉時代以後は武士の馬術訓練を目的とする武術競技として行われた。いまも残る京都・賀茂(かも)神社のくらべ馬神事は、1093年(寛治7)堀河(ほりかわ)天皇が豊作と天下太平を祈願して馬料の荘園(しょうえん)を寄進されてから、例年催されるようになったもので、古代の儀礼をそのまま伝えている。
現在行われている近代競馬は、イギリスを発祥とする。1377年ニューマーケットで行われた皇太子(後のリチャード2世)とアルンデル伯爵のマッチレースが、イギリス最初の競馬とされている。1665年ニューマーケットの円形馬場で王室賞典競走が行われたと記録にあるが、円形馬場といっても、高原にカーブのあるコースを設けただけの簡単なものであった。賭(か)けを伴う貴族たちの競馬が盛んになると、より速く走る馬の需要が高まり、1689年にバイアリーターク、1706年にダーレーアラビアン、1730年にゴドルフィンバルブという、大きなアラブ産牡馬(ぼば)が輸入され、イギリス土産馬ポニーの牝馬(ひんば)に配合された。人間が創造した最高の芸術品といわれるサラブレッド生産の歴史がここに始まる。輸入されたこのアラブ産種牡馬3頭をサラブレッドの三大基幹種牡馬という。バイアリータークからヘロド、ダーレーアラビアンからエクリップス、ゴドルフィンバルブからマッチェムという名馬が誕生し、この3頭を三大種牡馬という。
イギリスを元祖とする競馬は、ヨーロッパ各国のほか、アメリカ、オーストラリア、アラブ首長国連邦、香港(ホンコン)などを含み、世界80か国以上で行われている。世界のサラブレッドの総数は40万頭前後といわれ、日本だけでも2007年(平成19)の生産数が約7400頭、総数は2万頭を超えている。これら現在のサラブレッドの血統をさかのぼれば、すべて三大基幹種牡馬のいずれかが祖になる。母系は原則的にゼネラル・スタッドブック(血統登録書)の第1巻(1791)に登録された馬までたどることができる。
日本における近代競馬は、横浜の在留外国人が横浜市元町(もとまち)で1862年(文久2)に行ったのが最初で、同年横浜レース・クラブが組織されている。1866年(慶応2)に根岸競馬(現在、根岸競馬記念公苑(こうえん)がある所)が設けられ、翌年から春秋二季に競馬が行われていたが、1876年(明治9)、日本人をクラブに加入させるかどうかについて、会員の間で意見が対立し、不満派は別に横浜レース・アソシエーションを組織した。しかし、互いに経済的に成り立たなかったため、1878年、両組織は解散して新たに横浜ジョッキー倶楽部(くらぶ)が組織され、1880年には発展的改組を行い、日本レース倶楽部となった。東京では1870年9月、九段の招魂社競馬が兵部省主催で初めて行われた。1872年5月兵部省が廃止されてからは、陸軍省がこれを継ぎ、年3回の例大祭に開催した。その後、用地の立地条件が競馬には不適当とされ、1898年以降中止され、1901年(明治34)9月には競馬場も廃止された。
1879年5月、第18代アメリカ大統領グラント夫妻、ドイツ皇族、イタリア皇族が来日したとき、東京の陸軍戸山学校内に馬場を設けて競馬を開催し、観覧に供した。この年、軍人と軍馬によって行われていた競馬に、民間希望者の出場が許され、民営の共同競馬会が設立された。これを共同競馬とよんだが、戸山学校の馬場が交通不便なことから参観人が少なく、1884年に上野の不忍池(しのばずのいけ)畔に馬場を移転した。これを不忍池競馬といった。1890年には第3回内国勧業博覧会の余興として競馬が開催され、初日に明治天皇が行幸し、賞品の下賜もあった。この不忍池競馬は1892年まで続いた。また1877年、馬匹改良を目的として設置されたのが三田(みた)育種場競馬で、明治天皇が6回行幸した。この競馬は1890年に廃止された。
このほか札幌、函館(はこだて)、宮崎、鹿児島の各馬産地で競馬場が設置され、それぞれ競馬倶楽部を組織して競馬が行われた。1888年(明治21)秋、日本レース倶楽部が、1枚1ドルの馬券を発売したことによって倶楽部の経営が円滑となり、競馬が事業として隆盛に向かった。また、日清(にっしん)・日露の戦争で軍馬の劣勢を痛感し、軍馬の増産、育成の必要からも競馬は奨励され、1905年(明治38)政府は馬券発売を黙許することとした。翌1906年、加納久宣(かのうひさのぶ)子爵、安田伊左衛門(やすだいざえもん)により東京競馬会が創設され、同年11月24日、25日と12月1日、2日の4日間、池上競馬場で馬券を発売して競馬を行った。このほか、日本レース倶楽部の根岸競馬、日本競馬会の目黒競馬、さらに川崎、板橋、松戸(千葉県)、鳴尾(兵庫県西宮市)、札幌、宮崎など各地方の競馬も馬券を発売したが、いずれも無制限配当であったためギャンブル性が強まり、社会的にも弊害が生じ、非難と批判の声が高まった。
ついに1908年(明治41)10月、馬券発売禁止令が発せられ、かわって補助金による競馬が行われたが、馬券を楽しむファンの支持を失ったため競馬事業は不振に陥り、馬匹生産も衰微するばかりであった。この結果、本来の目的とされた馬匹改良事業に支障をきたしたため、1923年(大正12)3月、加藤友三郎内閣第46議会で、政府の対策案として競馬法案が提出され、貴衆両院を通過成立した。この法令により、競馬は営利事業とせず公益法人とし、その運営は競馬法によって勝馬投票券(馬券)発売認可を受けた競馬団体に限ることとなった。団体の数を11(東京、横浜、中山、京都、阪神、宮崎、小倉(こくら)、新潟、福島、札幌、函館)に制限し、連絡機関として帝国競馬協会が設立され、馬券を発売する競馬が復活した。初代理事長は安田伊左衛門である。11の競馬団体と帝国競馬協会は1936年(昭和11)12月に解散し、政府の特別監督下にある特殊法人日本競馬会が創立され、松平頼寿(まつだいらよりとし)が初代理事長に任命された。1941年太平洋戦争が勃発(ぼっぱつ)し、戦時下の国策から1944年競馬は能力検定競走にかわったが、それも1945年には完全に中止された。
戦後1946年(昭和21)10月に再開され、1948年7月芦田均(あしだひとし)内閣により国営になったが、1954年9月民営に移管され、各競馬場の施設その他(当時の評価額約50億円)は政府の全額出資とし、公共性の強い特殊法人日本中央競馬会(初代理事長安田伊左衛門)が設立され、現在に至っている。
[大島輝久・日本中央競馬会]
日本中央競馬会(JRA:Japan Racing Association)は農林水産省(畜産局競馬監督課)の監督下にあり、競馬の施行、開催のいっさいの権限をもつ。レースに出走する馬は馬主の所有で、馬主はこれを調教師に預託し、調教師は厩務員(きゅうむいん)、調教助手を雇用し、騎手と騎乗契約を結ぶ仕組みになっている。馬主になるには馬主登録審査委員会の審査を経なければならない。レースに参加する馬は競走馬登録をし、このとき血統書、預託契約の証明書などをつける。
日本中央競馬会は、各競馬の1開催を12日以内と定め、開催日程、レース番組、賞金などを決定する。法律で認められている競馬場(2009現在)は、東京(府中市)、横浜、中山(千葉県船橋市)、京都(伏見(ふしみ)区淀(よど))、阪神(兵庫県宝塚市)、中京(愛知県豊明(とよあけ)市)、小倉(北九州市小倉南区)、宮崎、新潟、福島、札幌、函館の12か所。ただし横浜、宮崎では開催されない。法律により前記12の競馬場ごとに年5回以内の開催権が認められており、日本中央競馬会は年間288日の開催権をもつ。
レースの賞金、賞品、生産者その他への助成金、競馬開催費用、日本中央競馬会運営費用などは、すべて馬券売上げの控除金でまかなわれる。控除率は25%で、10%は第一国庫納付金として国庫に入り、あとの15%が競馬施行に伴ういっさいの費用にあてられるが、剰余金はその50%が第二国庫納付金と定められている。政府は日本中央競馬会からの納付金の4分の3を畜産振興の助成金に、4分の1を社会福祉事業の助成金にあてている。
[大島輝久・日本中央競馬会]
中央競馬はサラブレッド系の平地競走と障害競走、アラブ系の平地競走の3種類のレースを施行していたが、1995年(平成7)まででアラブ系のレースは廃止された。サラブレッド系とは軽種(サラブレッド、サラブレッド系種、アングロアラブ、アラブ、アラブ系種)と、軽半血種(中間種、中半血種に連続二代軽種を交配したもの)である。アラブ系とは、軽種および軽半血種のうち、アラブ血量が25%以上の馬である。
出走馬の年齢制限は、平地競走は2歳以上とされる。日本の競馬界では馬の年齢を数え年で表していたが、2001年から生まれた年が0歳、翌年が1歳と表すようになり、出生日から満2年を経過して初めて出走できる。2歳時は2歳馬どうしのレースが組まれ、明けて3歳になると、6月ごろまで3歳馬どうしのレースが組まれ、その後は4歳以上の古馬との混合レースになる。障害競走に出走できるのは3歳以上の馬で、出生日から満3年を経過していなければならない。
レースの距離は、平地競走では、2歳馬は800メートル以上、3歳からは1000メートル以上と規定されている。2009年(平成21)には2歳競走が1000メートルから2000メートル、3歳以上は1000メートルから3600メートルまでのレースが組まれた。また、障害競走の規定は2000メートル以上で、2750メートルから4250メートルのレースが組まれた。
レースはコースの種類により、芝(ターフ)コースと砂(ダート)コースがある。また東京と中京と新潟競馬場は左回りでレースを行うが、その他の競馬場は右回りでレースを行う。
レースにあたり出走馬が背負う重量を負担重量という。騎手とその装具(鞭(むち)と帽子を除く)のほか、鞍(くら)(付属品を含む)、鞍下毛布、ゼッケン(番号ゼッケンを除く)、しりがい、綱などの合計重量である。負担重量の種類は、馬齢重量、ハンディキャップ、別定重量の3通りある。馬齢重量は、馬の年齢、性別、出走月によって負担する重量を定めたもので、牝馬は2歳の10~12月は1キログラム、3歳以降は2キログラムで、牡馬より軽く定められている。ハンディキャップは主として特別レースおよび重賞レースに採用されている。馬の能力差を負担重量によってカバーして、各出走馬に勝つチャンスを与えるもので、ハンディキャッパーに任ぜられた者が、各馬の能力、持ちタイム、脚質、最近の状態などを勘案して負担重量を決める。別定重量には大別して二つの方法がある。一つは基礎重量を定めて、これに過去の収得賞金額、勝利度数または特定レースの成績などを参考にして加増する方法、もう一つは性別または年齢別に重量差を設け、出走全馬に一定の重量を負担させる定量制である。
高額賞金の大レースには3歳馬五大クラシックの桜花(おうか)賞、皐月(さつき)賞、東京優駿(ゆうしゅん)(日本ダービー)、優駿牝馬(オークス)、菊花(きっか)賞のほか、春秋2回の天皇賞、ファン投票による有馬(ありま)記念があり、これを八大レースとよんでいる。1981年(昭和56)11月、当時としては世界の国際レースのうち3番目の高額賞金を懸けて、初の国際招待レース「第1回ジャパンカップ」が東京競馬場で行われた。それ以降この催しは毎年11月に行われ、1984年に日本馬として初めてカツラギエースが優勝し、さらに1998年には日本馬が1、2、3着を占めた。なお、1984年から重賞(とくに賞金の高い競走)にグレード制が設けられ、GⅠからGⅢまでに格づけされるようになった。GⅠレースは前記の大レースのほかに14レースある。
第1回日本ダービーは1932年(昭和7)4月24日、目黒競馬場で行われ、函館孫作(はこだてまごさく)騎乗の宮内省御料牧場産ワカタカ(父トウルヌソルはイギリス産の輸入種牡馬)が優勝した。第3回から現在の東京競馬場に移った。ダービーの出走登録は1、2歳時に各1回、3歳時に2回の計4回で、外国産馬は出走資格がなかったが、2001年(平成13)より頭数制限(2頭)つきで出走が可能となり、2009年には7頭以内の出走が可能となっている。皐月賞、ダービー、菊花賞の3レースを制覇した馬を三冠馬とよぶが、日本では1941年のセントライト、1964年のシンザン、1983年のミスターシービー、1984年のシンボリルドルフ、1994年ナリタブライアン、2005年ディープインパクトの6頭のみである。200年の歴史を誇るイギリスでも、2000ギニー、ダービー、セントレジャーの三大レースの優勝を独占しトリプルクラウン・ホースの栄に輝いたのは15頭である。天皇賞は、イギリスの王室競馬場ロイヤル・アスコットで行われるゴールド・カップにあたる。有馬記念は、1956年に日本中央競馬会2代目理事長有馬頼寧(ありまよりやす)が中山グランプリの名称で創設したもので、翌年現在名に改称された。出走馬がファン投票を中心に選定される方法が歓迎され、ダービーと肩を並べるメーンレースになっている。このほか多くの重賞レース(ジャパンカップダートなど)がシーズンごとに組まれている。
障害競走のグランプリは、中山競馬場で行われる中山グランドジャンプと中山大障害である。距離はそれぞれ4250メートル、4100メートルで行われ、高さ1メートル60、幅2メートル05の大竹柵(ちくさく)、高さ1メートル60、幅2メートル40の大いけ垣を含む計11回の障害飛越、さらにバンケット(谷)の上り下りが6回あり、スリルとバラエティーに富み、ファンを楽しませている。障害競走は落馬などで故障の危険が多く、障害レースへの出走を嫌う傾向が強いので、賞金を高くするなどの優遇策がとられている。また1999年(平成11)より障害競走にもグレード制が導入され、J・GⅠ、J・GⅡ、J・GⅢのレースが設定されている。ヨーロッパでは障害競走が盛んで、障害競走専門の競馬場もある。なかでもイギリス・エイントリー競馬場のグランドナショナル障害レースが有名である。広大な馬場を2周して4マイル4ハロン(約7200メートル)の距離を走り、30回障害を飛越する大規模なものである。
平地競走、障害競走ともウッド式スターティングゲートを改良したJSS30型発馬機からスタートする。ゴールには一定のゴールポストがあり、入線順位は決勝審判員により決定されるが、肉眼による判断のむずかしい場合には、写真を参考にして判定する。この着順判定の写真は山口式フォトチャートphoto chart(着順判定写真)を使用する。この方式は1950年4月から採用されたが、目盛りによって、着差とレース所要時間が正確にわかる仕組みになっている。各コーナーには走路監視員とパトロールフィルムの撮影者がいて、レース中の不正騎乗、反則行為を監視している。
賞金はレースの価値あるいは格を示す重要な要素の一つで、下級条件レースより上級条件レース、一般レースより特別レース、特別レースより重賞レースのほうが格が高く、賞金額も多くなる。ヨーロッパ、アメリカなど競馬先進国の賞金は、馬主たちが支払うレースの登録料を賞金に加算するステークスが主となるが、日本は法律によって登録料の最高額が低く抑えられているため(地方競馬は登録料制度を認められていない)、ステークスにあたる付加賞は欧米に比べてきわめて少ない。本賞金は主催者(日本中央競馬会)の支出による。1959年(昭和34)日本中央競馬会と中央競馬馬主協会連合会との間で「馬券売上額の6%を賞金にあてる」との申合せが交わされている。その後、馬券の場外発売制度を敷いたことから売上高の上昇は著しく、したがって賞金額も欧米をしのぐまでになった。このため、競走馬の購買価格が狂騰するなど種々の問題が生じたので、監督官庁の農林省(現農林水産省)は、大臣の私的諮問機関「競馬懇談会」に改善策を図り、競馬改善案を1974年6月に発表した。これにより、1975年度からは、従来の6%の枠を外し、中央競馬会の立案による年度予算で決定されることになった。
[大島輝久・日本中央競馬会]
勝馬投票券のことを一般に馬券という。馬券は1908年(明治41)に禁止されるまでは1枚2円と5円の2種であったが、1923年(大正12)に馬券が復活してからは、1枚5~20円、1人1競走につき1枚限り、配当は最高10倍以内に制限された。レースが大穴になり10倍配当をしたあとの余剰金は、特別配当金として外れ馬券の持ち主に還元された。第二次世界大戦後は1枚10円(10枚分100円)とし、購買枚数には制限なく、配当は無制限となった。中央競馬ではかつて200円券、500円券、1000円券があったが、のちには10万円まで買えるユニット馬券(複合馬券)となり、現在はマーク式馬券(マークシート方式で購入馬を申し込む)である。
勝馬投票券は、単勝式、複勝式、連勝単式、連勝複式の4種類である。単勝式は1着馬、複勝式は出走馬が7頭までは1、2着馬、8頭以上は3着までの的中馬券に配当がつく。連勝単式は着順どおりに連式で的中させる馬券で、1、2着馬を的中させる馬単、1、2、3着馬を的中させる3連単の2種類がある。連勝複式は組合せを連式で的中させる馬券で、枠連、馬連、ワイド、3連複の4種類がある。
勝馬投票券の発売は開催競馬場内の窓口ほか、場外発売所(愛称ウインズ)も設けられている。場外馬券は1948年(昭和23)12月、東京・銀座の発売所で初めて売られた。その後逐次増設され、中央競馬では2009年(平成21)現在、北海道では静内(しずない)(新ひだか町)、札幌、釧路(くしろ)、室蘭(むろらん)の4か所、東北では津軽(田舎館(いなかだて)村)、横手、種市(たねいち)(洋野(ひろの)町)、新白河(西郷(にしごう)村)の4か所、関東地区では銀座、新宿、後楽園、渋谷、錦糸町、浅草、新橋、汐留(しおどめ)、銀座通り、横浜、新横浜、伊勢佐木(いせざき)、石和(いさわ)、立川、田無(たなし)、高崎の16か所、関西地区では梅田、難波(なんば)、道頓堀(どうとんぼり)、京都、神戸、姫路、名古屋、広島、高松、米子(よなご)、小郡(おごおり)、博多(はかた)、八幡(やはた)、佐世保(させぼ)の14か所、全国38か所に場外発売所が設けられている。このほか、競馬を開催していない競馬場の窓口でも発売している。また日本中央競馬会以外の地方競馬場でも、盛岡、水沢、佐賀、荒尾(あらお)で発売を行っている。1974年(昭和49)からは電話投票制度が始められ、ARS(音声応答)方式で勝馬投票を行うことができる。さらに1991年(平成3)からはパソコンまたは携帯電話などを使って電話回線で日本中央競馬会のコンピュータに接続し、勝馬投票を行うA‐PAT方式も行われている。電話投票の普及により、2008年には売上げ総額の約50%が電話投票で占められている。
中央競馬会の2008年の馬券総売上高は2兆7563億円で、いまや国民のレジャーとして定着している。
[大島輝久・日本中央競馬会]
中央競馬で、馬名を冠した重賞レースは、「セントライト記念」「トキノミノル記念」「シンザン記念」の三つがある。セントライトは1941年(昭和16)に初の三冠馬となった。トキノミノルは10戦全勝、1951年第18回ダービー優勝の17日後に破傷風のため死亡したが、「まぼろしの名馬」とうたわれている。シンザンは1964年の三冠馬、翌年には天皇賞と有馬記念をも制し、「五冠馬」の新語が生まれた。
このほか、ダービー、オークス、菊花賞を制覇し11戦全勝の名牝クリフジ、第1回有馬記念優勝のメイヂヒカリ、アメリカのワシントン・バースデー・ハンデで名馬ラウンドテーブルを破って優勝したハクチカラ、史上初めて無敗で三冠を制したシンボリルドルフなどが日本の代表的名馬とされる。また、ハイセイコーやテンポイント、ディープインパクトなどは、競馬を知らない女性や子供の間でも多くの人気を集めた。
日本中央競馬会では、名馬の功績をたたえるため、顕彰馬(競馬の殿堂)を選出し、競馬博物館のメモリアルホールに展示している。2009年(平成21)3月現在、クモハタ、セントライト、クリフジ、トキツカゼ、トサミドリ、トキノミノル、ハクチカラ、セイユウ、シンザン、グランドマーチス、ハイセイコー、トウショウボーイ、ミスターシービー、シンボリルドルフ、メジロラモーヌ、コダマ、タケシバオー、スピードシンボリ、テンポイント、マルゼンスキー、メイヂヒカリ、オグリキャップ、メジロマックイーン、トウカイテイオー、ナリタブライアン、タイキシャトル、テイエムオペラオー、ディープインパクトの28頭が選ばれている。
[大島輝久・日本中央競馬会]
競馬法(昭和23年法律158号)によると、日本中央競馬会のほかに、地方自治体(都道府県など)の競馬開催権も認めている。都道府県または指定市町村が行う競馬を一般に地方競馬という。地方競馬はいわゆる「草競馬」で、1910年(明治43)産牛馬組合が始めた競馬を発祥としている。1925年(大正14)に産牛馬組合が廃止されて畜産組合がこれにかわり、1927年(昭和2)からは農林省と内務省の省令による地方競馬規程により行われた。第二次世界大戦中は軍用保護馬鍛練中央会に移り、戦後の一時期の混迷状態を経て、1946年(昭和21)都道府県別の馬匹組合連合会の経営するところとなり、2年間行われた。1948年から現在の公営競馬の形態を整えた。
2008年度(平成20)には、北海道(札幌、帯広(おびひろ)、門別(もんべつ))、東北(盛岡、水沢)、南関東(浦和、船橋、大井、川崎)、東海・北陸(金沢、笠松(かさまつ)、名古屋、中京)、近畿(園田、姫路)、中国・四国(福山、高知)、九州(佐賀、荒尾)の7ブロックで、総計1481日開催され、馬券の総売上高は3794億円であった。このうち帯広競馬場では挽曳(ばんえい)競馬も開催している。札幌、中京の各公営競馬は、中央競馬会の競馬場を借用して開催している。公営競馬のなかで、賞金、売上高、入場人員などの点で最大とされるのは東京の大井競馬場である。また、大井、川崎、門別、帯広、高知競馬場ではナイター競馬が行われている。
[大島輝久・日本中央競馬会]
世界の近代競馬は、イギリス型とアメリカ型の二つに大別することができる。イギリスではおもに芝コースでレースが行われる。起伏に富み、草深いコースで、速いタイムは出ないが持久力を競うパワー重視型で、強い馬に有利な馬齢重量戦が多い。一方、アメリカは平坦(へいたん)なダートコースがほとんどで、スピード重視型といえる。ハイペースのレースを乗り切ることによって持久力をつけ、また、レースの興趣を盛り上げるためにハンディキャップ競走も多い。フランス、ドイツなどのヨーロッパ大陸諸国やオーストラリアはおおむねイギリス型で、カナダなどはアメリカ型に近い。ロシアや、名馬キンツェムを生み出したハンガリーなどの東欧、それに北欧では、普通の競馬のほかに繋駕(けいが)速歩競走が盛んである。そのほかに、性質や形態は大きく異なるが、モンゴルやアフガニスタンなどの民族的な競馬も無視できない。
競馬の国際交流は19世紀後半から盛んになったが、第一次世界大戦直後の1920年にフランスで創設された凱旋門(がいせんもん)賞の成功は、この気運にさらに拍車をかけた。当時の世界最高賞金を懸け、南半球も含めた世界中の一流馬が集まる凱旋門賞に出走することは、出走した馬の格を高めるばかりでなく、出走馬を送り出した国の競馬熱をも高めた。1999年(平成11)には日本馬エルコンドルパサーが2着になっている。第二次世界大戦後、競走馬の空輸が容易になると、凱旋門賞に倣った国際レースが次々と生まれた。代表的なものを
に示す。このほかにもイタリアのミラノ大賞典やドイツのオイロパ賞などが国際レースとして著名である。日本のジャパンカップも国際的な声価を高めている。ますます盛んになるこの国際交流のなかから、調教をはじめとする技術の相互革新が生まれ、淘汰(とうた)され勝ち抜いた馬の血が後世に伝えられていくことになる。[大島輝久・日本中央競馬会]
『佐藤正人著『わたしの競馬研究ノート』全10巻(1968~82・日本中央競馬会)』▽『原田俊治著『世界の名馬』(1970・サラブレッド血統センター)』▽『白井透編『日本の名馬』(1971・サラブレッド血統センター)』▽『H・H・イーゼンベルト他著、佐藤正人訳『馬――その栄光の歴史』(1973・みんと)』▽『日本中央競馬会編『競馬百科』(1976・みんと)』▽『白井透著『サラブレッド血統大系』(1981・サラブレッド血統センター)』▽『E・S・ヒューイット著、佐藤正人訳『名馬の生産』(1985・サラブレッド血統センター)』▽『山野浩一著『伝説の名馬』(1997・中央競馬ピーアールセンター)』▽『野村晋一著『サラブレッド』(新潮選書)』
馬を走らせて勝負を争う競技で、「こまくらべ」「きおいうま」あるいは音読して「けいば」ともいう。また「走馬」と書かれたもののなかにも、競馬をさす例がある。5月5日の節会(せちえ)に際して競馬の行われた例は、すでに文武(もんむ)天皇の701年(大宝元)にみえ、奈良時代には平城宮の南苑(なんえん)など、平安時代には武徳殿(初め馬埒殿(うまきどの)、馬場殿ともいう)で行われた。当日は親王以下の群臣が献じた馬に、乗馬に長じた者を衛府から選んで騎乗せしめ、左右双方に分けて競わせた。普通は左右2騎を一番として十番行われ、馬場の馬出(本)から勝負の標桙(しめほこ)(末)まで馳(は)せるが、一番ごとに儲勝(もうけがち)、追勝(おいがち)、持(じ)といった判定がなされ、全番を通計して左右の勝敗が決まると、勝方は楽を奏し、負方はその年の10月に負物(輸物)を献ずることになっていた。968年(安和1)に5月5日の節会が停止されて以後、久しく絶えたのちも競馬のみは行われたが、中世以後、朝廷の行事としては衰退した。一方、臨時に王公諸臣の私邸や諸社などで競馬が行われることもあった。賀茂(かも)社のものはことに盛んで、堀河(ほりかわ)天皇のときに競馬料として荘園(しょうえん)が寄進されたこともあって、今日に至るまで往時の姿を伝えている。
[杉本一樹]
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…能力として問題となるのは役用能力,繁殖能力などであるが,役用能力,とくに輓曳能力については種々の能力検定が行われている。競走馬については競馬というきびしい能力検定の場があって,競馬場でよい成績をあげたものが種馬として高い評価を受ける。選抜された種畜を血縁関係の近いものどうし交配して,その保持している遺伝的な形質を固定するのが内交配である。…
…定められた条件のもとで2頭以上の馬を走らせ,その勝負を競う。
【歴史】
[西洋]
現代の競馬は騎馬による戦闘,戦車競走,狩猟などにその起源をもつといわれる。古くはホメロスの《イーリアス》の中にうたわれた戦車競馬にまでさかのぼることができるが,近代競馬の形態が整えられたのはイギリスにおいてである。…
…また,奇(くす)しく霊なる意味から薬の玉を室内に飾り,身につけ,邪気をはらう意があった薬玉(くすだま)は,寿命を延べることから続命縷(しよくめいる)と称し,五色の糸で作り季節の花を,それにつけて贈答する風もあった。平安時代には,天皇が武徳殿に出席して騎射(うまゆみ)と競馬が5日,6日の2日間にわたって行われ,のち宴が催された。武家時代には,印地打(いんじうち)(印地。…
…京都市北区上賀茂鎮座の賀茂別雷(わけいかずち)神社で行われる5月5日の競馬神事。〈かものくらべうま〉ともいう。…
…競馬の競走名。近代競馬発祥の地イギリスのエプソムEpsom競馬場(ロンドン郊外)で1780年に始まったもので,創設者の第12代ダービー卿スタンリーEdward Smith Stanleyの名をとって命名された。…
…スポーツ用語としてのドローの始まりは競馬である。意味は,競走馬を競馬場から引き上げさせて勝負の決着をつけない,つまり,〈無勝負〉ということにある。…
…モンゴルの革命記念日7月11日にウランバートルで行われるもの(国家ナーダム)が最も大きく有名だが,同時にアイマク(州)やソム(県),協同組合その他でも行われる。民族スポーツとは〈男の三競技〉といわれる競馬,弓射,角力(相撲)をさす。競馬は種馬,7歳馬,5歳馬,4歳馬,3歳馬,2歳馬がおのおの28,30,28,25,20,15kmを別々に走り,おのおの先着の5馬をアイルギン・タブ(馬乳酒の5頭)とよんでたたえる。…
※「競馬」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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