〈やまろん〉ともいう。山林原野の用益をめぐって発生する紛争。山野利用の具体的な内容は,(1)果実等の採取,(2)狩猟,(3)薪炭等の燃料,(4)建築用材,(5)薬や染料,(6)飼料,(7)肥料,(8)鉱物等地下資源,(9)灌漑用水等,実に多様であり,かつ農民の生活と生産の再生産にとって非常に重要なものであった。
古代では養老令の雑令に〈山川藪沢の利,公私之(これ)を共にせよ〉と規定があり,一時的な占有は認められても,特定の人が永続的,排他的に占有することは排除されるべきものであった。しかしこの原則はきわめてあいまいであり,かつ占有の量的制限規制等もないことから,実際には王臣,寺社,豪民等による広大な排他的,独占的な占有が進行していった。そして10世紀には公然と山野の領有が主張されるようになるが,まだその〈四至(しいし)〉=境は漠然としたものが多かった。しかし11,12世紀すなわち中世成立期になると,そのような領域的な山野領有・支配のもとで,在地の民衆の多様な山野用益と開発が活発に展開する。そのような諸活動によって,住民相互の山野用益をめぐる利害対立が激しくなり,従来あいまいであった山野の境界をめぐる紛争が惹起してきたのである。山野の境相論は用益・開発関係が相互に入り組んでおり,かつ証拠となる公験(くげん)等が十分ではないから,いったん発生すると容易に決着のつけがたいものとなった。例えば1199年(正治1)の伊賀国黒田荘と大和国長瀬荘の境相論では,〈山野谿谷の習,際目(境目)の不審出来するの日,其沙汰煩多し〉と述べられている。こうした解決困難な中世の山論では,次のような慣習法が形成された。すなわち,(1)まず文書などによって相手方に山への立入りを禁止する通告をし,(2)それを無視して侵犯したものに対しては鎌や斧などの道具を取り上げた。(3)それに対して相手方もまた同様な行為によって報復。(4)対立が激化すると武力による実力行使に突入した。(5)そして,そのような事態を打開するための訴訟というように,段階的にエスカレートしたのである。また,中世後期になると,相論の決着を〈湯起請〉や〈鉄火〉のような神判によって行う例も多くなる。
近世の統一政権は,そのような在地住民らによる武力行使による紛争解決や神判を否定し,公儀の裁判による平和的な解決を政策とした。以後,訴訟を軸とした近世的な山論が,山野利用のいっそうの発展のもとで展開する。
執筆者:黒田 日出男
近世の山論は一般に〈山出入り〉といい〈山争い〉ともいうが,そのほとんどは山林原野の用益権または利用慣行,ないし不分明な境界をめぐっての紛争である。これら山論の争因は,当該林野において共同的に採取すべき毛上(もうじよう)(生植物)が林野地積とともに減退することにあった。もともと山林原野は河川や湖沼と同じく公私の共用に供されるべきもので,特定の有勢者の独占は許さない原則のもとに維持されてきた。それが17世紀代ともなると,大名城郭を中心とするいわゆる城下町が一斉に勃興するにつれて,狂乱的な木材需要が各地の山林に殺到したため,17世紀後半に移るころには,都市造営用材の濫採による山林の荒廃は中部,関東の未開発林にまでおよんだ。時の幕府・諸藩はこのような荒林事態に対処して林材の保存と営利を図るべく,自領内の山林に直轄保護林(御林(おはやし))の制定を急ぐと同時に,その御林へは農民の立入りを許さない方針を打ち出すようになる。こういった占有林が漸増するのに加えて,人口増に伴う林野の開墾(農地造成)が全国的に進行するため,これまで農民の共用にゆだねられていた林野の地積は減退を重ねるばかりであった。そうなってくると,農民生活に欠くことのできない肥・飼料用の草をはじめ,薪炭材や家作木を採ることがしだいに困難となるうえに,林野毛上への需要は一般的に増大する傾向にあったため,採取林野の地域と採取期間を限定し,採取量にまで制限を加えなくてはならないようになる。このような制限によって旧来の用益権が減縮することに対する共用者間の憤懣(ふんまん)の表面化したのが近世の山論で,それが後年になるほど多発また激化するのは,用益上の制限がさらに強化されることによるものである。
同じ山論でも自村内で発生する用益紛争は,おおむね高持本百姓に限られていた村持ち山の採取権を,無高層の農民ないし非農家にも分与して利用上の不平等を平均しようとする下層農の要求に基づくものであったから,村役人や上層農が全面的にこれを受け入れないまでも,既得権を譲歩または緩和することによって解決する場合が多かった。しかしその村持ち山へ1ヵ村以上の他村が入り会って毛上を採取する慣行,すなわち入会権をもつ村方がそれぞれの権利を主張して譲らないところからもつれだした争議は,利害を異にする当事者間の話合いで解決を図ることは容易でなかった。この種の紛争が近世でのごく普通の山論であるが,その解決方法としては,当事者を除く第三者(多くは近隣諸村の顔役)の斡旋によって妥結を図るのが普通であった。それでもなお決着がつかないときは,(1)領主に訴えて裁定を願う,(2)幕府評定所へ提訴して裁断を仰ぐ,の二つよりなかった。(1)は同じ領内での山論に限られ(幕府領の場合は所管の代官・郡代が裁定),(2)は自領村と幕府領を含めた他領村との山論裁きである。いずれも原告・被告の主張は慣行上の用益権であるうえに,双方の主張にはとかく懸隔がありすぎるために,公正な妥結点を見いだすことが困難である。そこで(1),(2)とも示談の勧告につとめるが,第三者の手に負えなくなっての訴訟には利害を超えた感情問題がからみ,さらに双方には利権屋が介在しがちであったため,いずれも勧告を受諾しない場合が多く,そのため裁判の結審まで数年を要することが珍しくなかった。
執筆者:所 三男
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「やまろん」ともいう。林野の境界、所有権、入会(いりあい)用益権をめぐる紛争で、ことに江戸時代各地に頻発した。農民間、村落間、あるいは農民と村落、村と領主との間に生ずるが、大半は農民や村落の間で争われた。その原因には、当該地の境や持ち主が不分明であること、土木建築用材、肥料、飼料、燃料、食料など林産物の入会用益量が過大であったり、また用益目的の変化(自家用から商品化など)に伴う入会地の独占と他者の排除などがあげられ、一様ではない。
紛争が発生すると、当事者は村役人や領主に訴えて調停や裁決を求めるが、それらの結果に不満足なときは、さらに幕府評定所(ひょうじょうしょ)へ出訴して裁許を仰ぐことができた。訴えを受けた領主・評定所は、いずれも示談による解決を勧めるが、それが不調の場合に限って審理を開始する。評定所における審理は、当事者の提出した訴状・証拠書類や、両者立会いのもとに作成された係争地の絵図(論所絵図)をもとに行われ、両者の主張を斟酌(しんしゃく)したうえで、係争地(論所)が入り組んでいる場合には、幕府みずからも実地踏査を加えて裁決を下した。それは、係争者の主張と、これに対する評定所の見解(判決)とを裏書した裁許絵図(墨引き絵図)を、当事者に交付することによって終結する。この評定所裁許の効力は絶大であって、それを覆したり、再度の出訴を行うことは許されなかった。なお、江戸初期には、これまで利用することのなかった奥地林野を入会地として開発した結果、村と村の衝突が山論に発展し、それの解決によって村・郡・国境の決定する例が多かった。またこれらの境界が、現在の行政区画の境として引き続き効力を発揮している場合が少なくない。
[飯岡正毅]
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…例えば1199年(正治1)の伊賀国黒田荘と大和国長瀬荘の境相論では,〈山野谿谷の習,際目(境目)の不審出来するの日,其沙汰煩多し〉と述べられている。こうした解決困難な中世の山論では,次のような慣習法が形成された。すなわち,(1)まず文書などによって相手方に山への立入りを禁止する通告をし,(2)それを無視して侵犯したものに対しては鎌や斧などの道具を取り上げた。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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