改訂新版 世界大百科事典 「茜部荘」の意味・わかりやすい解説
茜部荘 (あかなべのしょう)
美濃国厚見郡(現,岐阜市茜部地区)にあった東大寺領の荘園。818年(弘仁9)に酒人内親王が美濃国勅旨田厚見荘を東大寺に施入したことにより始まる。木曾川の乱流域に立地していることなどから荒廃するが,茜部荘と改号され,960年(天徳4)に東大寺別当光智によって再開発され四至が定められた。11世紀には臨時雑役賦課や加納田をめぐって国衙と東大寺の間で相論がくり返されるが,1056年(天喜4)の官宣旨,71年(延久3)の太政官符などによって不輸不入権を確立し,領域的荘園としての基礎を固めていった。12世紀前半には,東大寺は厚見郡司王大夫政則や美濃源氏源国房などの在地勢力を退け,隣接する鶉郷や仁和寺大教院領市橋荘内内牧荘との堺相論を克服し,1147年(久安3)には預所厳実による実検を実施し,学侶100口の衣服料として毎年八丈絹100疋,綿1000両を貢進する茜部荘の内部構成を制度上確立した。このときの本田数は約77町であり,そのうち神田,預所佃,目代給,定使給,下司給などを含む除田が12町5反,得田は59町余であった。平安末までには年貢収取のために名編成がなされたと考えられる。鎌倉期になると,下司が承久の乱に京方にくみしたことによって下司職が没収され,代わって地頭職が置かれた。1223年(貞応2)東大寺別当成宝は茜部荘を地頭請所とした。地頭長井氏は地頭代を現地に派遣し茜部荘の支配を行った。鎌倉中期になって学侶等の勢力が強くなり,66年(文永3)には東大寺は地頭請の停止,年貢の納入時期,見絹・見綿による年貢納入などを要求して六波羅探題に訴訟を提示し,以後鎌倉末まで地頭との間で相論がくり返された。鎌倉幕府滅亡後,1333年(元弘3)に後醍醐天皇の綸旨によって地頭職が東大寺に寄進され,東大寺による直務支配が実現したが,39年(延元4・暦応2)に地頭が還補され,翌年,下地中分がなされた。室町期には代官請となっていたが,しだいに衰退した。
執筆者:稲葉 伸道
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報