中世において種々の呪術的な職掌や芸能に携わった陰陽師(おんみようじ)系の芸能者。〈しょうもんじ〉〈しょもじ〉とも。用字は文献によってまちまちで唱門師,唱聞師,聖問師,唱文師,誦文師などとも記される。声聞師の源流については律令制下の中務(なかつかさ)省陰陽寮に属していた陰陽師が没落して民間に流れたものに始まるともされているが,よくわかっていない。声聞師の活動が目だってくるのは室町時代で,奈良では当時興福寺に所属する〈五ケ所〉〈十座〉と呼ばれる声聞師の群落があり,アルキ白拍子,アルキ御子,鉢タタキなどの〈七道者〉を支配しつつ,〈陰陽師,金口,暦星宮,久世舞,盆・彼岸経,毗沙門経等芸能〉をその職掌としていた(《大乗院寺社雑事記》)。ここに列挙された諸芸の内容は今日必ずしも明らかではないが,金口(金鼓)(こんく)を打ちつつ家々の門に立って各種の経文を誦すというのが声聞師の代表的なイメージであったらしい。そうした呪術的な芸能から曲舞(くせまい)(幸若舞)のようなより芸能らしい芸能へと芸域を拡大していったわけだが,やはり室町時代に京都の北畠,桜町,柳原に居住していた声聞師は禁中や貴族の邸にも推参して曲舞を舞っている。この京都の声聞師は曲舞ばかりでなく能をも演じている。彼らは大和猿楽など本来の猿楽座と区別して〈手猿楽(てさるがく)〉(素人猿楽の意)と呼ばれるが,正月の松囃子(まつばやし)などのおりに宮中や仙洞でしきりに能を演じており,能の歴史のうえでも逸することのできない存在である。
執筆者:天野 文雄
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…一人舞が基本だが,二人舞(相舞(あいまい)ともいう)のこともあり,男は直垂(ひたたれ)・大口(おおくち)姿,稚児(ちご)や女は立烏帽子(たてえぼし)に水干(すいかん)・大口姿の男装で演じ,芸とともにその容色などもよろこばれた。京都,奈良などの声聞師の中にこれをよくするものが現れ,祇園御霊会の舞車の上や勧進の場で演じられ,宮中や貴族邸にも招かれて演じられた。能の大成者の観阿弥がこの曲舞を小歌風にやわらげて取り入れ,能の中にクセ(曲)と称する語り舞の部分が成立した。…
…沖縄県島尻郡の久高(くだか)島で12年に一度,午の年に,5日間にわたって行われる入巫式イザイホーは,今もなお,舞の原形態をとどめており,また,小児遊戯の〈かごめかごめ〉は,神がかりの舞がぼやけて残った姿だといわれている。舞はこのような性格のものであったから,それが芸能化されてからも,声聞師(しようもじ)などの呪術芸能者が担当した。 舞は踊りと違って,かなり早い時期に芸能化され,古代,中世を通じて,日本舞踊史の主流をなした。…
…【安田 元久】
[伝承]
頼朝は本格的な武家政権である鎌倉幕府を開いた大人物なので,中世・近世の武家社会では偶像視され,模範とされたことはいうまでもないが,史上に名高いうえに,源義経や静御前,木曾義仲,義仲の子の清水義高らとの絡みもあって,しばしば物語,演芸,浮世草子などに登場してきた。古いところでは,室町時代末期の1533年(天文2)1月に,京都で北畠(きたばたけ)の声聞師(しようもじ)が頼朝の1190年11月の〈都入(みやこいり)〉のもようを題材とした舞(《頼朝都入》《みやこいり》《京入》などの題名がある)を演じていたことが知られている(《言継卿記(ときつぐきようき)》)。そのほかでは,慶長(1596‐1615)ごろの成立かとみられている御伽草子(おとぎぞうし)《頼朝之最期》(《頼朝最期の記》《頼朝最期物語》ともいう)があり,相模川の橋供養の帰途に落馬したのが頼朝の死因だとする通説とはちがって,畠山六郎なる武士が正体を知らずに賊とまちがえて刺殺したことにしている。…
※「声聞師」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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