精選版 日本国語大辞典 「相模原」の意味・読み・例文・類語
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神奈川県北部の市。2006年3月旧相模原市が相模湖(さがみこ)町と津久井(つくい)町を,さらに07年3月城山(しろやま)町と藤野(ふじの)町を編入して成立した。10年4月政令指定都市となり,中央,南,緑の3区を置いた。人口71万7544(2010)。
相模原市東部の旧市。1954年市制。人口62万8698(2005)。相模原台地の大部分を占め,南は座間市に接する。上溝(かみみぞ)は八王子街道の旧宿場町で,JR相模線に沿い,相模原の養蚕中心地として1870年(明治3)には市場も開設されるなど長い間中心的地位にあった。1937年東京から座間に陸軍士官学校が移転して以後軍用地化が進み,翌年には北部の横浜線沿いに陸軍工科学校(のち陸軍兵器学校),相模兵器製造所(のち相模陸軍造兵厰)が置かれ,これらを中心に都市計画が行われて,市の中心は上溝からしだいに横浜線相模原駅,淵野辺(ふちのべ)駅付近に移った。第2次世界大戦後,旧軍施設はアメリカ軍に接収され,旧造兵厰はアメリカ陸軍補給厰となったが,一部返還されたものは病院,大学などに利用されている。1958年東に隣接する東京都町田市とともに,首都圏整備法による市街地開発地域に指定され,都市化が促進された。北部には横浜線橋本駅を中心に相模原・田名両工業団地が造成され,中央部には麻溝台(あさみぞだい)工業団地がある。住宅地の開発は南縁を通過する小田急線沿線で促進され,首都圏有数の住宅都市として人口の増加がめざましく,江ノ島線の分岐点である相模大野は新しい商業中心となっている。
執筆者:伊倉 退蔵
相模原市北西部の旧町。旧津久井郡所属。人口1万0347(2005)。北東は東京都と接する。相模川上流の山間にあり,中央を相模川が東流し,これをせき止めた相模湖がある。中心集落の与瀬は相模川の河岸段丘上に位置し,江戸時代に甲州街道の宿場町として発達した。1964年の東京オリンピックで相模湖がカヌー競技会場となったのを契機にピクニックランドなどの観光施設の整備が進み,首都圏の日帰り行楽地となった。JR中央本線が通る。68年には中央自動車道が開通し,相模湖インターチェンジが設けられた。近年,相模川南岸の内郷地区で宅地開発が進み,八王子など中央線沿線や相模原方面への通勤者がふえている。寸沢嵐(すあらし)には石器時代の住居跡があり,国の史跡に指定されている。
相模原市中部の旧町。旧津久井郡所属。人口2万3037(2005)。丹沢山地東縁の丘陵地で,中央を相模川が貫流する。中心集落の川尻は,かつては相模川舟運の終点で,近在の物資集散地としてにぎわった。かつては養蚕を中心とした農村であったが,1970年ころから住宅地化が進み,旧相模原市,八王子市や京浜方面への通勤者がふえている。農業では栗,梅の観光農園や施設園芸が盛ん。旧津久井町との境界には相模川総合開発整備事業の一環としてつくられた城山ダム(津久井湖)があり,その北にある城山湖は城山発電所の上部調整池である。
執筆者:千葉 立也
相模原市南西部の旧町。旧津久井郡所属。人口2万8695(2005)。丹沢山地の北東部に位置し,北境を相模川の支流道志川が流れる。古くから津久井郡の中心地で,城山には戦国末期に甲斐の武田氏に備える後北条氏の支城津久井城が設けられていた。相模川南岸の段丘上にある中心の中野は,古くは川和と呼ばれた市場町で,江戸時代後期から養蚕が盛んになり,末期には八王子と並ぶ機業地となって,川和縞(かわわじま)の産地として知られた。現在は林業,酪農,養鶏が行われる。1965年城山町との境界に相模川をせき止めて城山ダム(津久井湖)が建設された。道志川上流の青根に町営の緑の休暇村があり,夏季にはにぎわっている。
相模原市北西端の旧町。旧津久井郡所属。人口1万0823(2005)。相模川上流の山間部で,中央を相模川上流の桂川,南端を道志川が東流し,東部中央に相模湖をかかえる。町域のほとんどが山林と丘陵で,谷沿いの低地や斜面に小集落が点在する。中心集落の吉野は相模川の河岸段丘上にあり,江戸時代は甲州道中の宿場町であった。かつては養蚕と薪炭が産業の中心であったが,近年は相模湖周辺での観光農業や,北部山間地での茶の栽培が増えている。人口減少が続いていたが,1970年ころから大規模な住宅地の造成とともに増加に転じ,八王子方面への通勤者が増えている。86年〈ふるさと芸術村構想〉が企てられ,芸術・文化の拠点づくりが進められている。八王子市との境にある陣馬山は首都圏近郊でも人気のあるハイキングコースである。JR中央本線,国道20号線,中央自動車道が通じる。
執筆者:千葉 立也+伊倉 退蔵
神奈川県の中央北部にあり,相模川と多摩丘陵に挟まれたほぼ長三角形の洪積台地。相模原台地ともいう。北西端から南端まで約40km,南端部では東西約8km,標高は北部で130~160m,南部で30~40mである。南端部は一段と高い高座(こうざ)・座間(ざま)丘陵に続く。相模原は相模川による河岸段丘で,相模川とほぼ並行し,〈はけ〉と呼ばれる二つの段丘崖によって三分される。最上位は最も広い相模原面で,北東端が標高160mと高く,南へしだいに低くなる。台地面はほぼ平たんで,表面は厚さ15~20mに達するローム層におおわれ,地下水面は北部で30m,南部でも15~20mと深い。相模原面の西縁は相模横山と呼ばれる比高約20mの崖が南北に続き,中位の田名原(たなはら)面を分けている。田名原面では相模横山の崖下の湧水が鳩川,姥(うば)川,道保川となって南流し,小さな谷を刻んでいる。最下位の段丘面は最も狭い陽原(みなはら)面で,この面ではローム層が最も薄く,厚さ2~4mにすぎない。相模川のはんらん原に接する段丘崖は〈火の坂はけ〉と呼ばれる。
田名原面には南北に厚木・八王子街道が通じ古い集落が見られるが,水利に恵まれない相模原面の開発は遅れ,江戸時代以降であった。明治以降は横浜貿易の発展に伴い,養蚕が盛んとなり桑園化が進んだ。相模原の土地利用が活発化したのは1937年の陸軍士官学校の座間移転に始まる軍用地化以来で,兵器厰,各種学校,病院などの軍施設が相次いで設置された。第2次世界大戦後これらの施設はアメリカ軍に接収され,アメリカ軍の基地として利用された。戦後の食糧難から相模湖からの導水による畑地灌漑事業が実施されたが,その後の経済成長により,灌漑施設は完成をみないまま都市化がすすんだ。北部は工場地に,南部は住宅地に変容し,JR横浜線,相模線のほか私鉄各線が通じ,人口の増加がめざましい。
執筆者:伊倉 退蔵
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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…その前山である大山は,山頂に阿夫利神社がまつられ,雨乞いの神として多くの農民の信仰を集めてきた。県央部には相模川を挟んで,中流部に相模原と中津原の台地,下流部には低地が開け,相模湾岸は砂丘地となっている。相模川は,1887年に完成した日本最初の洋式水道である横浜水道以来,県民の都市用水,工業および農業用水の重要な役割を果たし,水系には相模湖(1947),津久井湖(1965)も造成された。…
※「相模原」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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