大杉村(読み)おおすぎむら

日本歴史地名大系 「大杉村」の解説

大杉村
おおすぎむら

[現在地名]小松市大杉町

大杉谷おおすぎだに川最上流部の山間地にあり、北流してきた大杉谷川は村内で屈曲して西流し、また北流する。南東のうしくび峠を越えると大日だいにち川上流に至り、北は赤瀬あかぜ村。本村を山崎やまさきまたはかみ村とよび、枝村に御保谷おぼたに・中村・下村がある。「天文日記」天文五年(一五三六)六月二一日条に、「従加州能美郡南与□内大杉衆、一銭勧進為志五貫文只今持参候」とみえる。これによれば、大杉衆は能美郡の一向一揆門徒組織南組(与)に属していたが、同四年当時能美郡粟津あわづ保内に寺基を移していた超勝ちようしよう寺と南組との抗争の際、大杉衆は南組に加わらず超勝寺に協力した。そのため本願寺への懇志を南組に預けることができず、本願寺へ直接持参することになったのである。同七年一二月八日条によれば、山から伐り出した荒木の商売をめぐって大杉村と軽海かるみ郷との相論があり、本願寺証如は往古の商売のあり方について双方の言い分の実否は分別できないとし、能美郡中の裁許が出たうえはとやかくいわず商売すべきであり、郡中として和解するよう申下した。


大杉村
おおすぎむら

[現在地名]東伯町大杉

山田やまた村の南に位置する。南東に支村の今田いまた村があり、安政(一八五四―六〇)以降の郷帳類には一村として別記されている。正保四年(一六四七)に著されたとされる瑞夢記(転法輪寺蔵)に「大杉野」とみえる。拝領高は二九七石余。藪役銀二五匁を課されており(藩史)、高木氏の給地があった(給人所付帳)。幕末の六郡郷村生高竈付によれば生高二三四石余、竈数二三。元治二年(一八六五)の八橋郡村々余業取調帳(河本家文書)では家数二三、うち余業六(綿打三・木挽二・鍬ひろさし一)


大杉村
おおすぎむら

[現在地名]北波多村大字大杉

徳須恵とくすえ川の右岸、霧差きりさし山の北西山麓の村。霧差山の谷間には、いわたになかため田堤たづつみ風呂谷ふろたにあらた牟田むたうなぎなどの溜池がある。

霧差山山麓一帯には弥生期から古墳期の遺跡が多い。弥生期のものとして、立山たてやま竹の下たけのしたに遺跡があり、溝添みぞぞえ遺跡からは土師器・土竈が出土している。昭和三〇年(一九五五)確認された立山古墳群には約二〇基、立山下古墳群には約一〇基の古墳があり、庚申山こうしんやま古墳もある。

石志文書の保延三年(一一三七)三月八日付藤原種時の松浦久の子押への解文に「注進、肥前国松浦郡西郷大枌村田畠事」とある大枌村は大杉村に比定される。


大杉村
おおすぎむら

[現在地名]大屋町大杉

笠谷かさだに村の北西、大屋川の流域に位置し、西谷にしたに道が通る。集落は同川左岸の平地北部を占める大杉、右岸山麓部にある瓜原うりはらの二つからなる。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」には「大すきの寺」「同ほうおん寺」などとみえる。近世の領主変遷大屋市場おおやいちば村に同じ。慶長一八年(一六一三)の小出吉英所領目録(金井文書)では大屋庄高九八七石余のうちに含まれて高付されていたと思われる。出石封内明細帳では拝領高一四一石余、うち荒一九石余、残高の内訳は屋敷四石余・麻畑一石余・田方五四石余・畑方六二石余、ほかに古新発高五四石余・新発高三一石余、小物成として楮役米五斗一升余・紺屋役米二斗四升などを上納。


大杉村
おおすぎむら

[現在地名]赤泊村大杉

南は海に面し、北東は杉野浦すぎのうら村、南西は赤岩あかいわ(現羽茂町)、北は山地羽茂本郷はもちほんごう(現羽茂町)に接する。海が緩やかに湾入した東の部分に住居が固まり、背後に段丘丘陵が迫る。元禄七年(一六九四)検地帳(大杉区有)によれば、田五町八反余・畑一七町五反余。村高二一二石余。天保九年(一八三八)の村書上帳(橘鶴堂文庫蔵)では家数二二軒。山役・烏賊役六千枚分・蛸役三頭分を銀納する。漁船が七艘あり、海稼に重きが置かれた。元禄検地の時の屋敷持百姓一一人を十一人衆と称した。そのなかの大百姓六人は六人衆とよばれる重立で、寺社堂などを祀り、名子を抱える者もある。元禄一五年の入会山設定証文(大杉区有)によると、六人衆が村の百姓持山二一ヵ所のうち一四ヵ所を「なわばり山」として分け持ち、ほかの山を小百姓六人の入会山とすることを取決めている。


大杉村
おおすぎむら

[現在地名]関市大杉

津保つぼ川支流の蜂屋はちや川左岸に位置し、南端にカナクズ山がある。加茂郡に属し、北は東田原ひがしたわら村。村内に西の西田原村の飛地がある。慶長郷帳に村名がみえ、村高三〇〇石。元和五年(一六一九)幕府領の一部が尾張藩領となり、二給のまま幕末に至る。正保郷帳では田方二四〇石余・畑方五六石余、桑木高二石余で、幕府領二三七石余・尾張藩領六二石余。


大杉村
おおすぎむら

[現在地名]越谷市大杉・弥栄町やさかちよう

大松おおまつ村の南に位置し、東は古利根川で限られる。集落は古利根川の自然堤防上に散在する。寛永六年(一六二九)の大松清浄院領検地(清浄院文書)に村名がみえ、清浄しようじよう院領があった。田園簿によると高は田方一八一石余・畑方六六石余、幕府領。宝永二年(一七〇五)以後の領主の変遷は下間久里しもまくり村に同じ。


大杉村
おおすぎむら

[現在地名]八尾町大杉

杉田すぎた村の南方、神通川左岸にある。もとは杉原野すぎはらの村の内。享保六年(一七二一)の村付高改帳(島倉家文書)では高六二一石余。寛政二年(一七九〇)の高物成品々手鏡でも高は変わらず、定免三ツ一歩四厘、新田高一三四石・平均免一ツ一歩五厘余、銀納畠一〇〇歩で一匁。幕末の高六五四石余・免三ツ二歩、銀納高は八九石余が免三ツ二歩、一石余が三ツ四歩(古高免小物成銀等書上)


大杉村
おおすぎむら

[現在地名]今津町杉山すぎやま

山中やまなか村の西にあり、西は若狭国境を越えて熊川くまがわ(現福井県遠敷郡上中町)。上大杉村と称し、若狭国に属する下大杉村(熊川村の内)との間に谷川があり、これを国境とする。寛永石高帳に高五五石余とあり、旗本朽木(本家)領。


大杉村
おおすぎむら

[現在地名]多賀町大杉

いち村の北東、佐目さめ村から山一つ南の谷にある。寛永石高帳に高三八石余とある。元禄八年大洞弁天寄進帳によれば男一〇一・女八四、寺社方男一。文政四年(一八二一)天台僧湛竜は当村若連中による雨乞踊歌を記録している(大杉共有文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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