寺尾村(読み)てらおむら

日本歴史地名大系 「寺尾村」の解説

寺尾村
てらおむら

[現在地名]秩父市寺尾

大宮郷の北西に位置し、村域は荒川左岸に沿って南北に長く展開する。南は別所べつしよ村。東は荒川を境に大野原おおのはら村など。北西は蒔田まいた村、南西は田村たむら郷。秩父巡礼道は対岸の大宮郷から梁場やなば渡を経て村内に入り、小鹿坂おがさか峠を越え、田村郷へと向かった。往古、地内に七堂伽藍を有する名刹があり、この寺の前後に村落をなしていたのが地名の由来と伝える(秩父志)。縄文時代前期・中期の岩陰遺跡がある。現島根県大田おおだ市南八幡宮蔵の大永二年(一五二二)銘の経筒に「寺尾住海(秀カ)」などとの陰刻がある。田園簿に村名がみえ、高四六二石余・此永九二貫四一九文とあり、幕府領。寛文三年(一六六三)忍藩領となる。元禄郷帳では高七五三石余。享保一八年(一七三三)幕府領に復し(「風土記稿」など)、幕末の改革組合村々取調書では旗本三氏の相給。天明六年(一七八六)の秩父郡村々石高之帳(秩父市誌)によると反別は田二七町八反余、畑一七三町一反余で、用水は村内の溜井や渓流から取水。「風土記稿」によると農耕の合間に男は薪とり、女は養蚕や機織などをしていた。


寺尾村
てらおむら

[現在地名]境川村寺尾

曾根そね丘陵に位置し、南東からは御坂みさか山地支脈の山裾が延び、芋沢いもざわ川・間門まかど川ほかの河川が北西流する。東は藤垈ふじぬた村、北から南西部にかけては上曾根村・上向山かみむこうやま(現中道町)ほか。小村に中寺尾・下寺尾・間門がある(甲斐国志)。本村の北方芋沢川左岸域が中寺尾、その北西上曾根村と接する辺りが下寺尾、間門川左岸ひがし山の東裾が間門にあたる。弘治四年(一五五八)三月二日の武田晴信印判状(桑原彦次家文書)に「てらお」とみえ、当地の彦八の奉公に対し一軒分の棟別役が免じられている。彦八は永禄三年(一五六〇)には漆進上における八代郡の触頭であった(同年一二月一七日「武田信玄印判状」同文書)。同四年の番帳に四〇番「寺尾の禰き」とあり、勤番社は諏訪神社にあたると考えられる。天正三年(一五七五)一二月二三日武田勝頼は寺尾郷に対し、竹木・藁縄の徴用には獅子の朱印状を用いると申付けているが(「武田勝頼印判状」同文書)、ほかに笛吹川沿いの落合おちあい(現甲府市)、釜無川沿いの竜王河原りゆうおうがわら宿(現竜王町)にも同文の申付けがあり、川除けの資材の確保であったとみられる。


寺尾村
てらおむら

[現在地名]綾瀬市寺尾・寺尾北てらおきた一―四丁目・寺尾中てらおなか一―四丁目・寺尾台てらおだい一―四丁目・寺尾本町てらおほんちよう一―三丁目・寺尾西てらおにし一―三丁目・寺尾釜田てらおかまた一―三丁目・寺尾南てらおみなみ一―三丁目・大上おおがみ

北方より比留ひる川が流れ、東から南は深谷ふかや村・早川はやかわ村、西は小薗こぞの村、北はかしわ(現海老名市)に接する。中央を東西に矢倉沢やぐらさわ往還・横浜道、西を南北に八王子道が通る。

寛元四年(一二四六)三月二九日渋谷定心譲状案(県史一)に「相模国吉田上庄内寺尾村」とある。定心から当地を伝えられた重経は寺尾氏を称した(寺尾氏略系図)


寺尾村
てらおむら

[現在地名]高崎市寺尾町・城山町しろやままち一―二丁目

からす川右岸のわずかに開けた平坦地と、川と並行するように延びる低丘陵部分とその裾部からなる。片岡かたおか郡に属し、北は同郡石原いしはら村、東は群馬郡和田田中わだたなか村・佐野窪さのくぼ村と烏川を挟んで対し、東南は緑野みどの根小屋ねごや村・山名やまな村。乗附のつつけ・石原とともに中世には三寺尾みてらおとよばれたと伝える。「吾妻鏡」治承四年(一一八〇)九月三〇日条にみえる「寺尾城」があったと考えられ、天正一三年(一五八五)九月晦日には「寺尾」が石原作右衛門尉に与えられている(「和田信業判物」石原家文書)。元和五年(一六一九)安藤対馬守殿御領分高覚帳(東大史料編纂所蔵)では向郷に村名がみえる(高崎藩領)


寺尾村
てらおむら

[現在地名]丹原町寺尾

周桑平野の西南部山麓に位置する。東は赤尾あかお村の飛地字安養寺あんようじ、南は楠窪くすくぼ村・志川しかわ村に、西は志川村に、北は中山なかやま川を隔てて石経いしきよう村・長野ながの村に接する。南は山を背にし、北は中山川に面する農村。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)周布しゆうふ郡の項に、高二八五石七斗七合、うち田方二一五石七斗一升一合、畑方六九石九斗九升六合とあり、「寺尾村 日損所、林山有、小川有」とみえる。元禄一三年(一七〇〇)の領分附伊予国村浦記も同石高で「松平隠岐守知行」とあり、天保郷帳では三〇〇石二斗一升八合となっている。地名由来の口伝によると、弘安四年(一二八一)北条氏の家臣寺尾三郎右衛門義之がこの地に病没したのに由来するという。


寺尾村
てらおむら

[現在地名]六日町寺尾

大杉おおすぎ新田の北、奥村おくむら新田・蓑和島みのわじま村の北西、北・東は五日町いつかまち村、西は山地。天正六年(一五七八)八月、上杉景虎方に加勢した北条氏の軍が、坂戸さかど城に攻撃をかけたとき、北条氏方に加わっていた小野寺刑部少輔の武功覚書写(小野寺文書)に「寺尾之小屋責申候」とある。この「寺尾之小屋」は、集落の裏山にある小屋場こやばと称する砦跡であろう。「上田士籍」(米沢市立図書館蔵)には当地にかかわる者に大平十左衛門がいる。


寺尾村
てらおむら

[現在地名]三和町字寺尾

草山くさやま川が土師はぜ川に合流する辺りで東の芦淵あしふち村と接し、西南は草山川中流の草山村に隣する。

寺尾村は元禄一三年(一七〇〇)丹波国郷帳、天保郷帳には村名はみえず草山村に含まれているが、実態としては一村をなしていたと考えられる。「丹波志」には

<資料は省略されています>

と記され、また佐藤信淵の「巡察記」も「山裏ノ郷十四村」の内として「草山村」「寺尾村」をあげる。

「丹波志」には、「寺尾ヨリ酉戌ノ方ノ谷ヲ寺尾山田ト云、凡十五町、出戸十五戸斗、此奥ノ嶺ヲ越、大内村ノ山田ノ奥エ出、牛馬不通、大内村壱里」とあり、西北は大内おおち(現福知山市)に通じている。


寺尾村
てらおむら

[現在地名]川越市寺尾、上福岡市北野きたの

下新河岸の南東、新河岸川西岸の低地と台地に立地。川越五河岸の一の寺尾河岸がある。村の北部から上新河岸・下新河岸両村にかけて戦国期小田原北条氏の家臣諏訪右馬亮の城跡があり、本丸・二の丸・三の丸などと思われる遺構が残るという(風土記稿)。田園簿に村名がみえ、田高四〇石余・畑高一一三石余、幕府領。元禄七年(一六九四)の柳沢保明領知目録に村名がみえ、これ以前に川越藩領になっていた。


寺尾村
てらおむら

[現在地名]勝山市村岡むろこ町寺尾

牛首うしくび道沿いの集落で、村岡山の東に位置し、南は浄土寺じようどじ村。天文八年(一五三九)一〇月一八日の平泉寺賢聖院々領所々目録(平泉寺文書)に「寺尾村分」とみえ、賢聖けんじよう院領は「本村之北川之端」や「新村之東」にあるとしている。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図記載の村高四四〇・一二石は、近世当村の村高として一貫した。正保郷帳によれば田方四〇八石余・畠方三一石余。


寺尾村
てらおむら

[現在地名]刈羽村寺尾

西元寺さいげんじ村の西。南は十日市とおかいち村、西は大湊おおみなと(現柏崎市)、北西は宮川みやがわ(現柏崎市)、北東は滝谷たきや村。集落は刈羽砂丘上にある。地内寺尾清吾家の伝えでは、寺尾家初代は滝谷の勝山かつやま城主野呂一伯で、第二代は寺尾長祐という。文明三年(一四七一)四月五日の寺尾長祐寄進状ならびに同五年八月二二日の覚園寺思範安堵状(善照寺文書)によると、寺尾長祐は領地から一〇〇苅の地を善照ぜんしよう寺増珎へ寄進している。


寺尾村
てらおむら

[現在地名]朝日村寺尾

鷹取たかとり山の南麓にあり、三面みおもて川右岸にある。北東は宮下みやのした村に接し、南は川を隔て興屋こうや(現村上市)と対する。かつては三面川は東の小川おがわ村・十川そがわ村寄りを流れており、当村は川沿いではなかった。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図では「大国但馬分寺尾村 下」とみえ、本納二一石二升・縄高四二石九斗五升六合、家六軒とある。近世は村上藩領、のち幕府領となり、幕末は米沢藩領。元和九年(一六二三)の堀直寄知行宛行目録(新潟大学蔵)には「猿沢組寺尾村」一九四石七斗一升七合が堀伝左衛門・伝五・三吉の知行所として記される。


寺尾村
てらおむら

[現在地名]妙高村寺尾

今府いまぶ村から大原おおはら新田(現新井市)への道の西側にあり、文政三年(一八二〇)の頸城郡細見絵図によれば、南西の寺尾山(花房山)を越えた北西に松崎まつざき村・二本木にほんぎ(現中郷村)が記される。正保国絵図に村名があり、高四七石余。天和三年郷帳では高三五石四斗余、うち山高二斗・漆高一斗六升。文政四年当村を含む高田藩領の二三ヵ村は、関山宝蔵せきやまほうぞう院領関山村に対し、片貝かたかい川の新規江筋をもとのように埋戻すことを要求している(「新江堀埋立願」坂田忠顕氏蔵)


寺尾村
てらおむら

[現在地名]由比町寺尾

東海道沿いに今宿いまじゆく村の西にあり、南は駿河湾、北は山が迫る狭い場所に集落が営まれた。大永三年(一五二三)一二月二四日の由比氏文書目録写(御感状之写并書翰)に「氏親様御判形在之、寺尾役所事」とみえ、当地の役所(関所)が今川氏親の頃より由比氏の知行の下にあったことが知られる。天正一三年(一五八五)一二月二四日佐野兵左衛門尉に安堵された所領のなかに、寺尾と由比のうち一七貫五〇〇文とこの増分七貫五〇〇文があった(「徳川家康朱印状写」佐野家蔵文書)。慶長一四年(一六〇九)と考えられる古検地帳写(小池家文書)がある。


寺尾村
てらおむら

[現在地名]砺波市寺尾・谷寺たにでら

井栗谷いくりだに村の西、北西流する谷内やち川の谷沿いにある。三谷みたに(現庄川町)領山のうち寺尾というところを寛永六年(一六二九)新開して村立てされ、初め寺尾新村と称したという(元禄一四年「村名由来書」川合家文書)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印には寺尾村とあり、草高一六石・免三ツ、小物成はない(三箇国高物成帳)。延宝四年(一六七六)の役家数二(「礪波郡村肝煎給米図り帳」川合家文書)。文政八年(一八二五)には般若組、天保一〇年(一八三九)以後は庄下組に属した。


寺尾村
てらおむら

[現在地名]かつらぎ町寺尾

紀ノ川左岸、渋田しぶた村の東にある。「続風土記」は地名の起りについて「古、村中山の尾崎に南蔵寺といふ寺あり、故に寺尾をもて地の小名とし、遂に一村の名となれるなるへし」と記す。永享六年(一四三四)一二月一三日の一臈良智等連署定書(勧学院文書)に「テラヲ兵衛太郎」の名がみえる。中世は高野山領六箇七ろつかしち郷に属したと考えられる。天正一九年(一五九一)一〇月日付の高野山寺領注文(勧学院文書)には高野山領として当村など五ヵ村の高六八六石余が記される。


寺尾村
てらおむら

[現在地名]静岡市内匠たくみ

中河内なかごうち川の支流西河内川の下流域の村。当村から西河内川上流の横沢よこざわ村・大沢おおさわ村までの谷沿い地域を西河内と総称する(駿河記)。東は落合おちあい村、南に大棚おおだな(一〇〇七・六メートル)がそびえる。領主は安西外あんざいそと新田と同じ。元禄郷帳では高一石余。


寺尾村
てらおむら

[現在地名]氷見市寺尾

余川よかわ川の上流域、東は上余川村、西は能登国境に接する。村の東部を北から南に余川川が流れる。八代組に属した。広大な山林を有し、集落は上寺尾・下寺尾・縁の庄えんのしよう高戸たかどの四垣内に散在する。嘉永七年(一八五四)上余川村から分村し、当時の高八八石余。熊無くまなし村との間に長さ二〇町・幅一〇町の御林がある。近世初期に上余川村と熊無村との間で山林の境界争いがあり、その地域が御林に指定されたと伝える。


寺尾村
てらおむら

[現在地名]川上村大字寺尾

吉野川左岸、大滝おおたき村の上流にあり、川を隔てて塩谷しおだに村に対する。川上郷のうち。慶長郷帳では村高八三・〇五九石、幕府領(代官大久保長安)。のち延宝検地により六三・四〇六石と村高は減石した。寺尾集落の街道端に、先年まで大石があり、傍らに御首載おくびのせ石の標柱があった。長禄元年(一四五七)一二月二日、赤松氏の遺臣中村貞友が後南朝北山宮(尊秀王)の首を持って逃げる時、対岸塩谷村で待機中の郷侍大西助五郎が豪弓をしぼって射とめ、首を奪い返し、大石の上に載せたとの伝承地である。


寺尾村
てらおむら

[現在地名]富津市寺尾

大森おおもり村の北東に位置し、みなと川が流れる。文禄三年(一五九四)上総国村高帳に村名がみえ、高二三二石で、幕末まで変わらない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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