小寺村
こでらむら
[現在地名]美原町小寺、堺市八下町一―四丁・石原町一―三丁
西除川左岸の八上郡東部の村で、北は野遠村(現堺市)、西は南より菩提村と石原村(現堺市)、南は東大饗村・西大饗村、東は北から丹南郡丹南村(現松原市)、今井村・太井村。「河内志」をはじめとして「日本地理志料」「大日本地名辞書」などは、天平神護元年(七六五)一〇月称徳天皇紀伊国行幸に際しての「続日本紀」同月二八日条にみえる「到河内国丹比郡」の記事を根拠に、丹比行宮が造営されたと考え、この行宮が当地にあったとする。「大阪府史蹟名勝天然記念物」は丹比行宮跡を小寺北部の地とする伝承をあげ、伝承地の一部に縦一一間・横三間ばかりの芝地があり、神聖視されていること、周辺字名に神殿池・馬場浦があることをもって丹比行宮小寺説を述べ、芝地付近に円正寺と称する字地があり、称徳天皇が駐したのは円正寺という寺院であったかもしれないとする。
小寺村
こでらむら
[現在地名]木津町大字木津町 内垣外
木津川に注ぐ井関川河口付近に立地する。東は大路村、東南は千童子村。木津郷の西の口にあたり、同郷の一。
「東金堂細々要記」文和二年(一三五三)七月条に「十九日六方両堂木津ニ発向、惣里ヲハ捨テ小寺ヘ籠、数十間ノ住屋焼失シテ帰ル之処、又矢ヲ射カクルニヨリ、同廿一日又発向、今度ハ小寺マテ一庄皆失」とある。「大乗院寺社雑事記」文明七年(一四七五)五月一五日条は「大内勢木津ノ西小寺口、合戦ニ、佐川・福住ト寄合ス」と記し、同書長享三年(一四八九)三月二七日条には「木津之小寺之兄弟」などともみえる。
小寺村
こでらむら
[現在地名]小松市小寺町・御宮町
梯川下流左岸にあり、西・南・北は小松町、東は園村。古寺村とも記され、平重盛(小松内大臣)が各国に建立した小松寺の門前集落と伝える。仁安二年(一一六七)真言宗三密精舎鎮華院小松寺が当地に創建され、のち小松山法界寺と改称して、寛永一七年(一六四〇)小松の東町に移転したという。同年前田利常が小松に隠居した際、跡地に家臣二七人が移住した(小松市史)。万治―寛文年間(一六五八―七三)には当村内から新鍛冶町が町立てされて小松町に編入されたが、年貢額やその納入先について小寺村と新鍛冶町との間で長く紛争が続いた(同書)。
小寺村
こでらむら
[現在地名]稲沢市小寺町
蛇行した三宅川東岸の自然堤防上にあり、東は平野村に接し、人家は村の北西に集中している(天保村絵図)。天正三年(一五七五)織田信長が道根・横野堤(萩原古川堤)を、一一ヵ郷に修築させるよう代官祖父江五郎右衛門らに命じた朱印状(氷室家文書)、同一一年織田信雄が杉浦五左衛門らを奉行として、一二ヵ郷に堤築造を命じた朱印状(杉浦家文書)に小寺とみえる。天正末、織田信雄が幅三間の支線道路築造を命じた判物(酒井家文書)にも小寺とみえ、家臣松波平右衛門の知行地であった(織田信雄分限帳)。
小寺村
こでらむら
[現在地名]池田町小寺
草深村の南西に位置する。集落の西を不破郡梅谷村(現垂井町)より発して池田山麓沿いに通る牛街道があり、街道筋には南北朝期に足利氏が推進した安国寺利生塔の一とされる安国寺がある。永禄四年(一五六一)八月晦日の養源禅院銭納下帳(龍徳寺文書)に「五百文(中略)小寺連芳」とある。慶長二年(一五九七)の池田野山年貢割帳(阿子田文書)に小寺村とみえ、入会山三五石の年貢のうち三石を負担していた。
小寺村
こでらむら
[現在地名]西区伊川谷町小寺・学園東町一―三丁目・同五丁目・同八―九丁目・学園西町一―八丁目
伊川谷左岸に位置し、南は長坂村。保延三年(一一三七)四月二一日の宗岡重貞等連署畠地施入状写(太山寺文書)によると、「小寺畠 明石郷領宗岡重貞等」が一七条一〇方二〇坪にある畠地七段を太山寺新堂に施入したことがみえるが、承久―貞応年間(一二一九―二四)と推定される覚書(同文書)によればこの畠は小寺にあり、同寺丈六堂の灯油料として保延三年に寄進されている。
小寺村
こでらむら
[現在地名]総社市小寺・総社一丁目
井尻野村の東、門田村の北に位置する。正保郷帳には井尻野村の枝村として記されるが、元禄郷帳では独立して記され旗本蒔田領。以後、幕末まで同領であるが、文久三年(一八六三)蒔田氏が大名に列せられ浅尾藩領となる。
小寺村
こでらむら
[現在地名]宮津市字小寺
栗田半島の東南部分、上司村の南に位置し栗田湾に臨む。
近世初期には慶長検地郷村帳にみえる栗田村に含まれていたと思われ、延宝三年郷村帳に「栗田小寺村」高二七〇・〇七四石と記される。同九年(一六八一)の延高で三七七石余となった(天和元年宮津領村高帳)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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