小島城跡(読み)おじまじようあと

日本歴史地名大系 「小島城跡」の解説

小島城跡
おじまじようあと

[現在地名]川俣町小島館、月舘町下手渡

小島の北端に位置し、北流する広瀬ひろせ川が半円を描いて迂回する。同川に沿った南高北低の丘陵と麓のひがし町・西町を城域とする。城下掛田かけだ(現霊山町)梁川やながわ(現梁川町)と川俣、三春みはる(現三春町)を結ぶ街道(通称三春街道)が通り、街道を制するうえできわめて重要な位置にある。「伊達世臣家譜」の小島家譜によれば、懸田氏の家臣小島丹波が居城し、天文の乱後伊達氏に属し、豊臣秀吉奥羽仕置の天正一八年(一五九〇)まで居城したという。


小島城跡
おじまじようあと

[現在地名]春日村六合

小島山(八六三・六メートル)西麓に築かれた山城で、守護土岐氏の拠点であり、一時は美濃の中心的存在となる。遺構は現在わずかに石垣の一部を残すだけだが、調査報告などによれば、大小八〇余ヵ所にわたる築城で、最高所の第一段平地物見櫓とみられ、東西六間で南北は三―五間。本丸跡は第二―四段平地と考えられ、第一段目は東西一九間×南北六間。


小島城跡
こじまじようあと

[現在地名]古川町沼町

沼町ぬままち北部の安峰あんぽう山支脈末端部にあり、本丸と平地の比高一三七メートル。古川盆地と越中西街道を眼下にする交通の要衝に位置する。飛騨国司姉小路氏が代々居城した本城だが、築城者・年代ともに不明。「飛州志」は応永年間(一三九四―一四二八)国司姉小路尹綱が居城したという。「教言卿記」の同一三年条に散見する小島禅門常が当城を拠点としていたとも思われ、常は八九歳という高齢にもかかわらず、しばしば上京、要人に面会している。尹綱は南朝により飛騨国司に任命された人物で、応永一八年後亀山上皇の院宣を奉じて小島城(向小島城ともいう)挙兵し、戦死している(続太平記)


小島城跡
おじまじようあと

[現在地名]西尾市小島町 城山

中世の平山城跡。矢作川の流れを北西に控えた小高い独立丘上にある。背後の北側と西側および北から東側にかけてが湿地帯で典型的な中世の平山城の形態をとる。「城山しろやま」の地名が残る。「西尾草創伝」(岩瀬文庫蔵)に「広忠公茂呂に有て此小島に出城を構玉り、御縄張あり、今城山と云、古井戸も多くあり」と記す。小島城の築城がいつ頃であったか、だれの手によるものか不明。

荒川あらかわ城の出城の性格をもち、荒川義広の支配下に属し、鷹部屋鉾之助がこれを守ったが松平氏に敗れた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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