朝日日本歴史人物事典 「市川小団次(4代)」の解説
市川小団次(4代)
生年:文化9(1812)
幕末期の歌舞伎役者。俳名米升。屋号高島屋。江戸市村座の火縄売りの子に生まれ,幼少時,事情あって父栄蔵と上坂。文政5(1822)年,11歳のとき市川米蔵の名で大坂の子供芝居に出演。以後修業を重ね,文政12年,18歳の夏,上坂した7代目市川団十郎に入門し市川米十郎と改名した。以後20歳前後の役者ばかりで一座を組み,その座頭となって,京坂,奈良,あるいは金沢と打って回った。24歳の夏,金沢興行中,舞台で贅沢な衣裳を着た咎で金沢を追放され,帰坂して道頓堀の中芝居へ出,「四谷怪談」,「義経千本桜」(「狐忠信」)などで早替わり,宙乗りのケレンに妙技を見せて大当たりをとり,また「桂川連理柵」のお半や「伊達娘恋緋鹿子」のお七のような娘形から「伊賀越道中双六」(「沼津」)の平作のような老役まで,幅広い演技力で人気役者となった。 天保14(1843)年江戸追放の師団十郎(5代目海老蔵)が上坂した際,大芝居へ上り,翌15年小団次を襲名。弘化4(1847)年冬江戸へ下った。以後20年間江戸の舞台を勤め「東山桜荘子」の浅倉当吾などで大当たりをとり,ことに安政1(1854)年春以後は名作者河竹黙阿弥と組み,鼠小僧,忍ぶの惣太,村井長庵,鬼薊清吉,縮屋新助,御所五郎蔵などを創演。江戸の世話狂言に新風を吹き込む名演を数多く残した。小男で声も悪かったが,激しい身体訓練と細かな演出の工夫でこれを克服,市井の片隅に生きる同時代人の心情を極めて写実的に表現した。門閥の強い江戸で,下級から身を起こして大芝居の座頭にまで出世した稀に見る名優である。5代目は実子清助が継ぎ,6代以後は途絶えた。<参考文献>永井啓夫「市川小団次」,青木繁『若き小団次』
(青木繁)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報