北新町(読み)きたしんまち

日本歴史地名大系 「北新町」の解説

北新町
きたしんまち

和歌山城下東北部の町人町地域名称。西は北新町川(真田堀川)を隔てて武家屋敷地区の東宇治ひがしうじ、東は中野島なかのしま村に接する。北は本町ほんまち御門より東に延びる大和街道(大坂街道)が通じ、南は鈴丸すずまる川を挟んで新町しんまち地区に対する。古くは中野島村の内であったが、元和五年(一六一九)徳川頼宣が入部して城下の町割が行われ、新町の北にあたるので北新町と称した(続風土記)

町の拡大で従来の村方が町屋となったので田畑も散在していたらしく、享保一一年(一七二六)の在中作方諸事覚書(土屋家蔵)によれば「西ハ新金屋町・御中間町・博労町・七軒丁並家敷裏限リ、北東南ハ田地限リ、欠作リ元屋敷跡、南ハ七軒丁・北新壱丁目町並屋敷限リ、西ハ入川、東ハ田地限リ」の地八二石ほどが、中野島村領として名草なくさ郡代官支配の地であった。


北新町
きたしんまち

[現在地名]高知市桜井さくらい町一―二丁目・宝永ほうえい

中新なかしん町の北側、東西に並行する両側町山田町やまだまち筋ともよばれた。西は横堀を挟んで山田町、東は下知しもじ村。正保年間(一六四四―四八)の高知城絵図および寛文九年(一六六九)の城下町絵図では町筋が東の下知村境の堤防脇まで延びており、町屋と記されるが、天保一二年(一八四一)の城下町絵図では東部から町場は消えて「田」とみえ、田地化している。これは元禄一一年(一六九八)大火後、城下の寺を集めて寺町とした地で、宝永四年(一七〇七)の大地震後、寺が他地方へ移転したためと、その跡地が田となったもの思われる。


北新町
きたしんまち

[現在地名]池田市しん

中新町の北、池田の町場の北端にある。猪名いな川に沿った新町筋と中之町なかんちよう(能勢街道)の合流地で、剣先けんさきともよばれた。穴織あやは明神(現伊居太神社)の社領地であったのを慶長年中(一五九六―一六一五)川辺かわべやまはら(現兵庫県川西市)の善右衛門なる者が町として開発したと伝える(「穴織宮拾要記」伊居太神社蔵)。元禄一〇年(一六九七)池田村絵図(伊居太神社蔵)には米屋一・茶屋二・餅屋三・饅頭屋一・塩屋四・豆腐屋一・古手屋三・小間物屋六・荒物屋四・瀬戸物屋一・鍋屋二・煙草屋一・戸屋一・檜物屋一・職業無記載一の三二戸がみられ、北の山間諸村向けの日常品の小売商人が並んでいた。


北新町
きたしんまち

[現在地名]田辺市北新町

上長かみなが町の東、熊野街道沿いに安藤氏時代になってから新しくできた町。熊野街道を挟んで南は南新みなみしん町、東はみなと村に続く。寛永期(一六二四―四四)と推定されている田辺城下図絵(田所家蔵)に「新町」とみえ、享保一二年(一七二七)の田辺町江川覚書(田所文書)に「北新町、御検地入候、年暦相知レ不申候」とある。寛文五年(一六六五)南新町の成立により北新町を名乗る。町内のほぼ中央が熊野街道中辺路(北行)と大辺路(東行)の分岐点で、今も安政四年(一八五七)再建の道分石(道標)がある。


北新町
きたしんまち

[現在地名]檜山郡江差町字新栄町しんえいちよう

近世から明治三三年(一九〇〇)まで存続した町。詰木石づみきいし町の東、中新なかしん町の北に位置する。文化四年(一八〇七)の江差図(京都大学文学部蔵)には中新町の北、愛宕社のある山際に町名がみえる。「蝦夷日誌」(二編)では横巷十九町の一、大工小路だいくこうじの上で稲荷社の前に至る間にあると記される。明治六年の「渡島国地誌提要」では江差港二六町のうちとして町名がみえる。


北新町
きたじんまち

[現在地名]今治市本町ほんまち六―七丁目・室屋むろや町七丁目の各一部

本町四丁目の北、波止浜はしはま道沿いに延宝頃までに形成された新町で、今治八町の一つ。町並は慶応けいおう町に続く。町割は、間口広狭があるが奥行はいずれも一五間。「鈴木永頼見聞録」(今治史談会蔵)によると、人口は延宝八年(一六八〇)一二二人であった。元禄一二年(一六九九)の北新町寸間改帳では町は東西の曲輪に分れるだけであるが、のち一、二丁目となった。


北新町
きたしんまち

[現在地名]篠山市北新町

篠山城北方の外堀と黒岡くろおか村の間に置かれた武家地。北新町の町名は明治五年(一八七二)に公称されたもので、城地を含む。


北新町
きたしんまち

[現在地名]氷見市中央町ちゆうおうまち比美町ひみまち

北六町の一つで、本町に属した。氷見町の北方にあり、東はいま町、南はなか町。商家が多く、蔵宿・質屋・米屋等が軒を連ねていた。元文二年(一七三七)の戸数五八、地子米は三二石余である(憲令要略)


北新町
きたしんまち

[現在地名]富山市北新町一―二丁目・東田地方町ひがしでんじがたまち一丁目

向川原むこうがわら町の北に続く両側町で、田地方のうち。寛文六年(一六六六)の御調理富山絵図に町名がみえ、前田利次による町割当初からの町。安永八年(一七七九)の本家数五六・貸家数六二で、三丁目まであった(「町方旧記抜書」前田家文書)


北新町
きたしんまち

[現在地名]米沢市直江町なおえちよう矢来やらい三丁目

矢来町の北、他屋たや町の西にある下級家臣屋敷町。東西の道に沿う両側町。享保一〇年(一七二五)の城下書上によれば町の長さ二町二三間・道幅九尺・屋敷数三三。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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