日本歴史地名大系 「平川村」の解説
平川村
ひらかわむら
吉備高原の一画を占め、西は備後国
寛保三年(一七四三)の村明細帳(平川文書)によると東西一里一二町・南北二里一二町の村域で、家数四二一、男一千一〇〇・女九二一、牛馬四一七。
平川村
ひらかわむら
平川村
ひらかわむら
平川村
ひらがわむら
平川村
ひらかわむら
戦国末期合志氏の土地寄進を伝える寺社方家中侍中名附写(厳照寺文書)に「御神領 田弐反四畝 平川之内」とある。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳に「平河村」と記され、田二町八反八畝余、畠・屋敷一三四町五反九畝余、分米九三七石一斗とある。寛永一〇年(一六三三)の人畜改帳によると平川組に属し、戸数二八・家数二一九、人数二〇九(うち庄屋一・百姓二七・名子二〇・下人七)、牛馬九九、高九三七石余。
平川村
ひらかわむら
平川村
ひらかわむら
平川村
ひらかーむら
平川村
ひらかわむら
平川村
ひらかわむら
慶安郷帳に村名がみえ、田一〇石余・畑二〇九石余で下総古河藩領。貞享二年(一六八五)より高家畠山氏の知行になったとみられ、元禄郷帳では畠山氏と旗本間宮の相給となっている。寛政元年(一七八九)の旗本佐野氏領郷村高帳(茨城県新井清文書)に村名があり、高九一石余。
平川村
ひらこうむら
平川村
ひらかわむら
平川村
ひらかわむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報