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(田中文英)
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平安末期の武将。清盛の子。従三位左近衛中将。剛勇をもってなり,1180年(治承4)5月源頼政を宇治に破り,12月東大寺・興福寺を焼いた。84年(元暦1)一ノ谷の戦で捕らえられる。後白河法皇は重衡を説いて宗盛に三種の神器の返還を交渉させたが実現せず,のち鎌倉に送られる。85年6月,東大寺・興福寺両寺の衆徒の要求で奈良に送られる途中木津川で斬首された。
執筆者:田中 文英
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平安後期の武将。平清盛(きよもり)の五男。1180年(治承4)の南都焼打ち事件の総大将として著名。「武勇の器量に堪う」と評され(玉葉(ぎょくよう))、81年(養和1)尾張墨俣(おわりすのまた)川の合戦で源行家(ゆきいえ)を破る。同年その功で従三位(じゅさんみ)、左中将となる。しかし、84年(元暦1)一ノ谷の合戦で敗北し、捕らえられた。のち和平交渉の仲介にあたるも不調。鎌倉に護送され、源頼朝(よりとも)のもてなしを受けるが、南都側の要求により、元暦(げんりゃく)2年6月23日、木津(きづ)川で斬(き)られた。
[樋口州男]
1157~85.6.23
平安末期の武将。清盛の五男。母は平時子。本三位中将と称する。1162年(応保2)従五位下。のち昇進し正三位左近衛権中将となる。80年(治承4)以仁王(もちひとおう)の乱を鎮圧。同年末には南都を焼打した。平家の主力として活躍したが,84年(寿永3)2月,一の谷の戦に敗れ捕虜となって鎌倉に送られた。85年(文治元)興福寺・東大寺の衆徒の要求で奈良に送られる途中,処刑された。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…【小笠原 恭子】
[平曲]
平曲の《海道下》は平物(ひらもの),フシ物。一ノ谷の戦で生け捕られた平重衡(しげひら)は,東海道を鎌倉へ護送されることになった。四宮河原(しのみやがわら)を通るときは,延喜の帝の第4皇子蟬丸の昔がしのばれた。…
…フシ物。源平の戦で捕虜になった平重衡(しげひら)が鎌倉へ護送されたので,頼朝が対面し,東大寺焼討ちの責任についてただす。重衡は一門の不運を嘆き,自分の処刑を急ぐよう願うが,奈良の寺院の意向も聞かねばというので許されない。…
…平安末期に一宮の制ができると吉備津神社が一宮とされた。1166年(仁安1)平重衡(しげひら)が後白河院に寄進して大田荘が成立すると,68年尾道村を大田荘の倉敷地(くらしきち)とする申請が認められ,尾道が港町として栄える基ができた。【坂本 賞三】
【中世】
[鎌倉時代]
1184年(寿永3)源頼朝は土肥実平(どひさねひら)を備前,備中とともに備後の守護に任じ,備後には実平の男遠平(とおひら)が代官として在国した。…
※「平重衡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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