百科事典マイペディア 「鹿田荘」の意味・わかりやすい解説
鹿田荘【しかたのしょう】
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備前国御野(みの)郡にあった摂関家渡領の荘園。現岡山市北区鹿田(しかた)町一帯。〈しかたのしょう〉とも読む。旭川河口付近の肥沃な沖積平野を占め,早くから荘園化していたらしく,817年(弘仁8)藤原冬嗣は興福寺南円堂法華会料72石余に当荘地子をあて,900年(昌泰3)には長講会料に当荘地子米50石をあて,また藤原氏の氏神大原野神社の二季祭饗にも986年(寛和2)以前から当荘の年貢米があてられていた。986年備前守藤原理兼は当荘下司下野守貞と争い,数百の兵を集めて荘内に乱入し下司らの居宅ほか300余軒を破却放火して家財を奪った。下司の訴えによって理兼は解官放氏されるという事件が起こっている。鹿田荘は港をもち,998年(長徳4)には荘内の梶取佐伯吉永が美作の米186石と塩を積んで秋篠寺に運ぶ途中,摂津国武庫郡沖で難破し,船と積荷を長渚浜の住人らに奪われた記録もある。鹿田河(今の旭川)を隔てた東岸には春日社領荒野荘があり,1300年(正安2)の荒野荘開発のさいの絵図の一部が描かれているが,それには当荘に民屋が建ち並んでいたこと,市(いち)があったことが記されている。室町時代になると,松田,田所,平井氏らの在地武士の侵略に苦しみ,やがて松田氏の代官請所となって本家職をもつ摂関家,領家職をもつ興福寺の支配は有名無実化した。1497年(明応6)に中御門宣胤が当荘預所に補せられているが,知行できたかどうかは明らかではない。荘内に別峯大殊を開山とし松田明秀を檀越とする禅寺定林寺があった。当荘は,中世末まで備前の経済,運輸,文化の一拠点であったともいえる。
執筆者:石田 善人
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…下司の訴えによって理兼は解官放氏されるという事件が起こっている。鹿田荘は港をもち,998年(長徳4)には荘内の梶取佐伯吉永が美作の米186石と塩を積んで秋篠寺に運ぶ途中,摂津国武庫郡沖で難破し,船と積荷を長渚浜の住人らに奪われた記録もある。鹿田河(今の旭川)を隔てた東岸には春日社領荒野荘があり,1300年(正安2)の荒野荘開発のさいの絵図の一部が描かれているが,それには当荘に民屋が建ち並んでいたこと,市(いち)があったことが記されている。…
…条里遺構は南限が不明瞭であるが,岡山市中心部以東では山陽本線沿線,以西では国道180号線沿線に顕著に認められ,とくに後者の地域には加茂の造山(つくりやま)古墳(史),三須の作山(つくりやま)古墳(史),吉備津神社,吉備津彦神社,備中国府跡,備中国分寺跡(史),備中国分尼寺跡(史),こうもり塚古墳(史),備中総社,備中高松城跡(史)など古跡や名所が多く,吉備路風土記の丘県立自然公園に指定されている。 河川の堆積作用にともなって開発も進行し,岡山付近では古代に福岡荘,大安寺荘,鹿田荘が置かれた。16世紀末には宇喜多開発が最初の干拓地として成立した。…
…渡領とは,特定の地位に付随して渡り伝えられる所領をいい,平安中期には天皇に代々伝えられる後院渡領が成立しており,そのほか太政官の官務渡領や局務渡領などもあるが,史上とくに有名なものは藤原摂関家の渡領である。藤原氏長者の渡領については,1017年(寛仁1)道長が頼通に氏長者を譲ったときの寛仁の渡文が存したことを示す記録があり,当時すでに大和国佐保殿,備前国鹿田荘,越前国方上荘,河内国楠葉牧の4ヵ所から成る渡領が成立していたことがわかる。その後この渡文は,〈荘々送文〉とか〈荘園渡文〉とよばれ,氏長者の交替ごとに,朱器台盤などとともに新長者に渡された。…
※「鹿田荘」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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