座るとは、疲れたら座る、座って仕事をする、座って話をする、などでわかるように、いろいろな目的のための一つの体位である。ここでは「座る」ということを大まかに「立つ」と「寝る」との中間の体位としてとらえていく。したがって道具を使用しての座ること、つまり、椅子(いす)や縁台に腰掛ける・柱に寄りかかる・馬にまたがる、などとは区別して考えてみる。
座る姿勢を少し詳しくみていくと、足の甲を床面に密着させる場合と、足底をついて座る場合とに分けられる。いずれにしても坐骨(ざこつ)を踵(かかと)部にのせ、その上に脊柱(せきちゅう)が重なることになる。人間は、乳児の時期までは寝たままの状態で、座ることも立つこともできないが、首がすわり頭が支えられるように脊柱起立筋が発達してくると、座ることができるようになる。赤ん坊は、生後6か月になると、頭と脊柱を伸ばし股(また)を曲げ開き、膝を軽く曲げ、安定した姿勢で座るようになる。一方、立つことができないのは、下肢の筋力が弱いか、骨や関節に支持性がないか、また骨や関節に痛みがあるというような場合で、生体力学的には下肢機能不全の状態をさす。
座っていることは、下肢で躯幹(くかん)を支える必要がなくエネルギー消耗の少ない姿勢であり、疲れると座って休むのは、下肢の機能を休め、回復を図る姿勢でもある。たとえば、座って仕事をする、座って話をすることは、立ってすることよりも、肉体の疲労、下肢の疲労も少なく、長く持続できる。
[森 義明]
日常生活のなかで、もっとも普通な体位は次の三つがあげられる。
[森 義明]
下肢を使うが、股(こ)関節、膝(しつ)関節は伸びている。歩く、走るなどに移る前の動作でもある。
[森 義明]
下肢を休めることや、正座、あぐら(胡座(こざ))などである(椅子に腰掛けることは、厳密には座る動作と区別して考えてみる)。
[森 義明]
仰臥(ぎょうが)位、腹臥(ふくが)位、横位などで、躯幹も下肢もあわせて休める。同時に精神をも休める。
以上のほかに、腰を曲げている姿勢があり、これは一時的なものが多く、できるだけこの姿勢は避けるように努力しなければいけない。座ることは、欧米の生活のなかではあまり縁がなく、日本独自のものが数多くあるといってよい。このうち「正座」は、わが国の独自の生活習慣であるといえよう。しかし最近では正座の機会も少なくなり、とくに第二次世界大戦後、欧米の生活様式の影響で、家具、衣服、食生活までが変化し、もはや日本流の正座を基本としたしつけ、習慣の様式もなくなりつつある。若い人たちは、従来、正座をしなければならない場合も、足を投げ出すか、横座りするか、あぐらをかくかで、正座ができないのが現状である。しかし、禅、武道、茶道、華道、礼儀作法を学び、日本古来の伝統の知恵とくふうを求める人もいないわけではない。日本人のつくった正座の文化のなかには、先人のくふうと体験から生まれ、現代まで受け継がれているものがあって、その意味を探ることはけっしてむだではない。
[森 義明]
古代の人は、土間の上に腰を下ろし、足を投げ出していた。あぐら(胡座)の姿勢でもあっただろう。しかし現在のような履き物を脱いで生活をするような家屋構造になってからは、いろいろな座り方になってきた。平安時代の絵巻物をみると、男子は「立ち膝(ひざ)」「あぐら」、女子は「横座り(鳶足(とびあし))」など自由な座り方をしていた。
外国でも、中国の秦(しん)始皇帝陵から出土した陶俑(とうよう)にも正座像がみられ、また教会のミサでの「跪座(きざ)」、イスラム教徒のモスクでの跪拝(きはい)(跪座)、座拝(正座)などがある。「あぐら」「箕座(きざ)」は、前かがみになりやすいため、座る生活のなかで、日本では、独特の姿勢保持のための正座が編み出されたものと考えられる。正座は、頭を中心に躯幹を同一線上にまっすぐにするので、肉体的にも精神的にも安定した状態を保つ。わが国で正座が正式な座り方とみなされるようになったのは案外新しく、300~400年前ころからで、それ以前には跪座が普通の座り方であった。元禄(げんろく)~享保(きょうほう)(1688~1736)のころには一般的な習慣として正座が定着したと推定でき、この習慣が広まったのは、家屋に座と称して畳が敷かれるようになったことにもかかわっている。
跪座は跪(ひざまず)くことで、尻(しり)を浮かせることも尻を踵につけることもある。これは、貴人への礼とともに、用事を命じられてもすぐに立てる姿勢でもある。これに対して、あぐらは、身分の高い人の座り方であった。しかし跪座も長くこの姿勢を続けると疲れ、煩わしいので、足趾(あしゆび)を伸ばし、足甲を床につけ、足底、踵に尻、臀部(でんぶ)をのせる正座が取り入れられるようになった。
[森 義明]
座る方法には、足の組み方によっていろいろな名称がつけられている。
[森 義明]
姿勢を正しく座る座り方で、重心が低くなるうえに下腿(かたい)が全面的に床につくため、安定性はきわめてよい。脊柱(せきちゅう)は、まっすぐに保たれているので、上体のバランスをとるのに都合がよい。
正座の方法としては、(1)大腿と下腿を重ね合わせ、その際に両母趾(りょうぼし)は互いに重ねる。重ね方は左右いずれが上でもよいとされている。(2)踵はなるべく引き寄せるが、重ねてはいけない。両膝頭の間隔は、男子では一拳(ひとこぶし)、女子ではなるべく寄せたほうがよい。ただし肥っている人は、適当に間隔をとってもかまわない。(3)腰は据え、上体を正しく保ち、うなじはまっすぐに伸ばし、心を落ち着けて(心気を丹田におさめ)、胸・肩の力を抜き楽にする。(4)肘(ひじ)は張らず、縮めず、手に力を入れず、手指は開かず大腿の上に置き、両指先は内側に向け、口を軽く閉じ、目は、鼻頭を通して2メートル先を見つめるのがよい。(5)上体は反り返らないように、下腹部と大腿の付け根を密着させないよう注意する(正座の意味については後で述べる)。
[森 義明]
正座と同じ読み方の「静座」は、文字どおり静かに座って心身を落ち着ける方法で、代表的な座り方は、坐禅(ざぜん)の際の結跏趺坐(けっかふざ)である。しかし、それに限らず、どの方法で座ってもよく、目的は、心の乱れや意識を静めて精神統一することである。その効果については、健康法だけでなく精神科の領域にも応用されている。
[森 義明]
「そんきょ」と読み、しゃがむ姿勢をいう。立位でありながら股関節と膝関節を最大限に曲げ、しゃがむ姿勢である。具体的には、相撲(すもう)の仕切りに入る前の動作や、和式便器使用時の所作がこれにあたる。
[森 義明]
尻を床につけて座る姿勢の一つ。正座に似た座り方だが、ただ下腿を外方に開き、その間に臀部(でんぶ)を挟む。したがって坐骨(ざこつ)結節は直接床面につく。
[森 義明]
なげあし(投げ足)ともいう。両足を箕(み)の形のように投げ出して座る姿勢で、股関節を直角に、膝関節を伸展位で投げ出す。
[森 義明]
拝みあしともいう。両膝を左右に横に倒し、足底を互いにあわせる。
[森 義明]
前に述べたが、跪座は、元来神職の用語であり、膝をついた低い姿勢のことで、別の動きに自在に対応できる姿勢をいう。注意すべきことは、足趾を背屈位に立たせ、踵は開かないようにする。踵と踵との間が開くと尻が落ち込み、割座になって、姿勢や構えが崩れてしまう。趾先が背屈位になっていることは、体が「生気体(いきたい)」(次の動作へいつでも移れる状態)であることを示す。武道で竹刀(しない)を持ち腰を下ろしての構えは跪座の姿勢で、ことに、そのまま足趾を使い、すぐ立てる状態であること(足趾が生きている)が重要である。足趾を伸ばしたままの姿勢(足甲、足趾の甲を床につけること)は、「死気(しき)体」(次の動作へすぐ移れない状態)であり、礼法や武道でもっとも嫌うものである。相撲ではこれを「死体(しにたい)」といっている。
日常生活をみても、襖(ふすま)を開ける・閉める動作は、座って行うときには、正座ではなく跪座である。正座から立位に移る動作の場合、生気体ではなく死気体のためのそそうがよくみられる。足がしびれたとき、立ち上がれない人やよろける人がいるが、正座から立つ際にかならず跪座になってから立つ習慣を身につけておけば、このような不手際は防げるはずである。正座では、足甲が床面についているが、立ち上がろうとする際に、趾先が立てられればしびれが治ったことである。いいかえれば、跪座は正座から立位への流れの動作であるともいえる。
[森 義明]
わが国でも生活様式の変化のために椅子(いす)を主体とした生活が多くなり、正座をする機会が少なくなってきて問題が現れてきた。その一つが成長期の学童にみられ始めた膝痛であろう。膝蓋(しつがい)骨をたたくと激痛があったり、階段の昇降、歩行困難などの膝痛を訴えたりする「膝蓋軟骨軟化症」chondromalacia patellaeは、以前にはわが国での報告例はほとんどみられなかったが、1960年代後半から欧米の報告なみに増えてきた。このことは、単に診断技術の進歩、膝痛への関心の高まりだけでは解釈できないものがある。
[森 義明]
膝蓋骨の関節側にある3ミリ前後の軟骨が部分的に膨れ上がり、軟化し、亀裂(きれつ)が入って、ついには軟骨が剥離(はくり)し、骨面を露呈するのが膝蓋軟骨軟化症である。原因は大きく二つ考えられる。(1)は、膝関節の使いすぎによるもので、軟骨が成熟しないうちに、激しいスポーツなどにより軟骨に強い力が加わる結果、軟骨が損傷を受ける場合である。(2)は、部分的に使われない軟骨に代謝障害がおこり、軟化が生じるのが原因である。ほとんどの症例が(2)のケースで、以前にはまれな症例とされていた。これは、日常生活で正座をしなくなったためにおこるものと考えることができる。注目したいのはこの場合である。
[森 義明]
膝関節の軟骨の中には血管、リンパ管、神経も存在しない。それゆえ、軟骨の代謝は、スポンジのような構造によってなされている。つまり、圧迫することにより、軟骨に含まれている滑液が排出され、圧迫が取り去られると軟骨は滑液を含み、膨らむ。この現象を「吸収と拡散」という。この働きが繰り返しなされることによって、軟骨の代謝は円滑に行われる。いいかえれば、軟骨の一部に圧迫を受けていない部分が生じると、軟骨での代謝が行われにくくなり、軟骨の軟化がおこると考えられる。膝蓋骨の軟骨はとくにこの現象をおこしやすい。
正座での膝蓋骨は、膝を深く屈曲するため、軽い屈曲位で接触しない膝蓋骨内側関節面もきちんと接触し、圧迫を受ける。したがって、軟骨の代謝である「吸収と拡散」がうまく行われるのである。
[森 義明]
前述の(1)(2)とは別に、膝関節の使いすぎによるものがある。これは、過剰の圧迫が関節軟骨の一部にだけ加わる結果、機械的に軟骨の表面に破綻(はたん)が生じ、軟骨の摩耗と骨面の露呈がみられるものである。この場合の変性は、膝蓋軟骨軟化症とは異なり、本来の変形性膝関節症であって、変性部位の接触圧迫を少なくすることが予防であり、また治療法である。
[森 義明]
膝関節は、軽い屈曲角度の場合には、膝蓋骨が関節面で相対する大腿骨の一部だけに接するため、安定した状態とはいえない。とくに膝蓋骨内側関節面は広く離れており、膝蓋骨の形態によっては離れの著しいものもある。この膝蓋骨の内側関節面は、軽い屈曲角度では、接触圧迫による吸収と拡散の軟骨の代謝という機序が行われにくくなる。実際に膝蓋骨内側関節面の不適合のあるものは、その内側の代謝が行われないために、膝蓋軟骨軟化症の例が多くみられる。
膝蓋骨はまた、膝の蓋(ふた)、皿、英語でもニーキャップkneecapなどともいわれ、大腿骨顆間窩(だいたいこつかかんか)にきちんと蓋をしたような形態をなす。したがって正座(深く膝を曲げること)は、膝蓋骨関節軟骨の変性を防ぐため、同時に治療のためにも有効であるといえる。それゆえ、若年者には正座の習慣を残したいものである。正座は、慣れない者にとって、長時間続けることは苦痛であるとよくいわれる。しかし正座を習慣としている者には、何時間でも持続できる。まず慣れることがたいせつで、初めは5分、10分と正しい座り方を練習しなければならない。
立位の際、筋力に頼らずに立っていることができるのは、大腿骨と脛骨(けいこつ)が長軸方向に重なり合っているためである。同様に正座は、膝蓋骨、大腿骨、さらに脛骨との組合せからなり、筋力はまったく関与していない。正座することで、関節面の軟骨と軟骨とが接触し圧迫しあう。そこで関節軟骨の代謝の面からみても、生活のなかに正座を取り入れる習慣は、膝関節、とくに膝蓋骨関節軟骨の変性予防の面からも、害のあることではなく、むしろ有用な方法であるといえる。
[森 義明]
椅子に座ろうとするとき、たとえば、膝関節を軽く30度に曲げると、膝蓋骨外側関節面が大腿骨外顆面に接触し始める。さらに60度に曲げると、膝蓋骨関節面は大腿骨外顆面に接触し、またさらに90度に膝を曲げ、腰掛けようとする状態では、膝蓋骨内側関節面が大腿骨内顆部から大腿骨顆間窩面にも接触するようになる。しかし膝蓋骨の形態は変化に富んでいるので、膝関節90度屈曲位になっても、膝蓋骨内側関節面は、大腿骨内顆より離れて接触しにくい状態にある。したがって、90度以上、正座までの屈曲ができないと、膝蓋骨内側関節面の接触圧迫による代謝が行われにくいので、膝蓋軟骨は変性に陥りやすい。
そこで、椅子の生活が主となる場合でも、1日のうちにつとめて正座する機会を積極的につくることが、膝痛予防のためにも十分に意味があるといえる。
[森 義明]
『入沢達吉「日本人の坐り方に就て」(『史学雑誌』31篇8号所収・1920・冨山房)』▽『姿勢研究所編・刊「日本古来の姿勢」(『姿勢研究』第2号所収・1968)』▽『山折哲雄著『坐の文化論』(1984・講談社)』
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