延喜・天暦の治
えんぎてんりゃくのち
醍醐(だいご)、村上(むらかみ)両天皇の治世を聖代として賛美した呼称。延喜(901~923)は醍醐朝の、天暦(947~957)は村上朝の代表的年号で、両朝ともほぼ摂政(せっしょう)、関白(かんぱく)を置かず、天皇親政の形をとった。すでに清和(せいわ)天皇の治世(858~876)をたたえて「貞観(じょうがん)之政」と称した記述が『三代実録』にみえるが、村上天皇の没後数年にして早くも「延喜聖代」あるいは「延喜天暦二朝之故事」を追慕する文言がみえ、宮中清涼殿(せいりょうでん)には両天皇の日記を二代御記と称して常備し、政務、故実の鑑(かがみ)とした。初めは両朝の文化的事績を高く評価する学者、文人の言説からしだいに一般廷臣の間に広まり、さらに摂関勢力の衰退に伴い、両朝を皇室と藤原氏の蜜月(みつげつ)時代と懐古賛仰する風潮も現れた。その後、武家政権を倒し、摂関政治も院政も否定した後醍醐(ごだいご)天皇(在位1318~39)は、延喜・天暦の治世を天皇親政の理想像として高く掲げ、後醍醐および次代後村上の追号を生む原因にもなった。
[橋本義彦]
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「延喜・天暦の治」の意味・わかりやすい解説
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延喜・天暦の治
えんぎ・てんりゃくのち
醍醐天皇代の897~930年(寛平9~延長8)および村上天皇代の946~967年(天慶9~康保4)の政治を,後世「聖代」として賛美した語。延喜は醍醐天皇の,天暦は村上天皇のときの年号。摂政・関白をおかずに天皇親政のかたちをとり,たとえば醍醐天皇代には,延喜格式・儀式・交替式や「三代実録」の編纂,「古今集」の勅撰が行われるなど,政治面での積極的姿勢や文化面での隆昌がみられたとして賞賛された。この時代を聖代とする見方は,数十年とへないうちにおこったという。その反面では律令体制の解体が際だち,国家体制の転身を余儀なくされた時代でもあった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
延喜・天暦の治
えんぎ・てんりゃくのち
平安中期,醍醐 (だいご) ・村上両天皇の治世
延喜・天暦はその年号。この時代は班田の励行,荘園の新立禁止,格式・国史・勅撰和歌集の編纂,貨幣の鋳造などが行われ,のちに聖代として天皇親政の政治の模範とされた。しかし実際は公地公民制を基盤とする古代国家の崩壊期にあり,国家体制の転換を迫られた時代であった。
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