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延喜・天暦の治 えんぎ・てんりゃくのち

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

延喜・天暦の治
えんぎ・てんりゃくのち

正暦4 (993) 年,大江匡衡 (まさひら) が,一条天皇に奉った奏状のなかで,醍醐天皇延喜 (901~922) と村上天皇天暦 (947~956) の時代を賛美したので,以後この時期を,公家政治の黄金時代として,このように呼んだ。この時期には,摂関政治が中断して天皇親政となり,荘園新設の禁止,班田制 (→班田収授法 ) の励行,諸法令の体系化などが行われ,『日本三代実録』が撰進され,また『古今和歌集』『後撰和歌集』などの勅撰集が撰上されるなど,政治,文化の両面に活気がみられた。一方,この間に承平・天慶の乱が起り,衰退する律令制をわずかに維持した時代でもあった。

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百科事典マイペディアの解説

延喜・天暦の治【えんぎてんりゃくのち】

延喜は醍醐天皇の,天暦は村上天皇の治世で,両治世を後世に理想化した呼称。班田の励行,荘園の新立禁止,国史(《日本三代実録》)の編集,《古今和歌集》の勅撰,格式(きゃくしき)の編集などが天皇親政下で行われた。
→関連項目建武新政平安時代

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

延喜・天暦の治
えんぎてんりゃくのち

醍醐(だいご)、村上(むらかみ)両天皇の治世を聖代として賛美した呼称。延喜(901~923)は醍醐朝の、天暦(947~957)は村上朝の代表的年号で、両朝ともほぼ摂政(せっしょう)、関白(かんぱく)を置かず、天皇親政の形をとった。すでに清和(せいわ)天皇の治世(858~876)をたたえて「貞観(じょうがん)之政」と称した記述が『三代実録』にみえるが、村上天皇の没後数年にして早くも「延喜聖代」あるいは「延喜天暦二朝之故事」を追慕する文言がみえ、宮中清涼殿(せいりょうでん)には両天皇の日記を二代御記と称して常備し、政務、故実の鑑(かがみ)とした。初めは両朝の文化的事績を高く評価する学者、文人の言説からしだいに一般廷臣の間に広まり、さらに摂関勢力の衰退に伴い、両朝を皇室と藤原氏の蜜月(みつげつ)時代と懐古賛仰する風潮も現れた。その後、武家政権を倒し、摂関政治も院政も否定した後醍醐(ごだいご)天皇(在位1318~39)は、延喜・天暦の治世を天皇親政の理想像として高く掲げ、後醍醐および次代後村上の追号を生む原因にもなった。[橋本義彦]

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