改訂新版 世界大百科事典 「延喜天暦の治」の意味・わかりやすい解説
延喜・天暦の治 (えんぎてんりゃくのち)
平安中期の醍醐天皇(在位897-930),村上天皇(在位946-967)の治世を後世に理想化したたえたもので,ともに治世の代表的年号を冠した呼称。唐の太宗の〈貞観の治〉,玄宗の〈開元の治〉などにならったものであろう。天皇親政下に儒教的政治理念にかなった正しい政治が行われ,文運隆盛の聖代であったとされる。〈延喜の治〉は,〈寛平の治〉と称される宇多天皇の治世をうけ,荘園整理など地方行政への施策や,延喜格式・儀式や国史(《日本三代実録》)の編修,銭貨改鋳(延喜通宝)など実質的には解体しつつある律令政府の健在を誇示する事業が行われ,努力は認められるが,その実績には限界があった。また初の勅撰和歌集である《古今和歌集》の撰進など文運も盛んであった。〈天暦の治〉も承平・天慶の乱のあった朱雀天皇の治世に続き,表面上は目だった動乱がなく,天皇に対する貴族たちの信頼も厚く,学者文人も尊重され,宮廷文化も華やかであったが,律令的政治体制は一段と行詰りをみせていた。親政という面でも,949年(天暦3)藤原忠平の死後関白は置かれなかったが,忠平の子実頼,師輔が左・右大臣に並び,外戚政治の色彩は強い。国史編修も着手されたが完成せず(《新国史》),乹(乾)元大宝の鋳造は古代最後の銭貨改鋳となった。しかし天皇はじめ忠平,実頼,師輔,源高明など故実先例に明るい人々が儀式書や日記を残し,以後の宮廷儀礼の指標となっている。この両代ことに村上朝は,聖代というべき実体が伴っていたとはいえないが,11世紀初頭の一条天皇の時代にすでに理想化されている。それは華やかな宮廷文化へのあこがれ,儀式典礼の面で典拠とされたこと,ことに当時不遇であった学者文人たちが,学者が重用された時代として称揚したことなどにあずかっている。その後中世のいわゆる〈建武中興〉の時期に再び,天皇親政という立場からこの両代を理想とした。それを慕って後醍醐,後村上の追号を天皇自らえらんだのもそのあらわれである。
執筆者:黒板 伸夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報