弓町(読み)ゆみまち

日本歴史地名大系 「弓町」の解説

弓町
ゆみまち

[現在地名]丸岡町たつみ

丸岡城の南に東西に走る通りに南面する。善左ぜんざ町の一筋南の町で、その東詰に南北の通りがあり、その通りを南へ行くと豊原とよはら道に至り、郭外の町東瓜屋ひがしうりや町に至る。寛永年間(一六二四―四四)と推定される丸岡町絵図(佐久見家文書)には、町名はみえないが町屋で、通りの北側に牢屋がある。このため籠屋ろうや町とも別籠町ともよばれたようで、元禄八年(一六九五)前後の本多飛騨守代丸岡藩資料(「南越民俗」所収伊藤家文書)に次のようにある。


弓町
ゆみちよう

[現在地名]中央区銀座ぎんざ一―二丁目

南紺屋みなみこんや町の南と東にあり、東は新両替しんりようがえ町一丁目・同二丁目、南は休伯きゆうはく屋敷と新肴しんさかな町、西は西紺屋町。京橋南西中通に沿った両側町。町名は徳川氏入国のとき随従してきた弓箭師が居宅を構えた地であることに由来するという(東京府志料)。安永三年小間附町鑑によれば京間一七九間五尺五寸、公役銀を納める。名主は南紺屋町と同じ。東方新両替町二丁目の裏通りは里俗に観世かんぜ新道という(御府内備考)。沿革図書によると、この通りは宝暦七年(一七五七)頃に造られている。「江戸惣鹿子名所大全」は弓屋並屋が多いとし、弓師・矢師として近藤久兵衛ら七名、師として吉藤市兵衛ら三名の名をあげる。


弓町
おゆみちよう

[現在地名]大垣市きり崎町さきちよう室町むろまち

大垣城北西に東西に延びる士屋敷地域。持弓もちゆみ町・御弓町とも記す。享保城下絵図では、城下北西端のみや町の南に足軽町が並行してあり、同町の東に持弓町とみえ、その北に射場がある。もと宮村のうちで、寛永―元禄期(一六二四―一七〇四)に侍町となったとされ、町名は弓の練習場があったことによる(新修大垣市史)


弓町
ゆみちよう

[現在地名]加賀市大聖寺弓町だいしようじゆみちよう

あら町から北東に延びる北陸街道に面した徒士・足軽などの下級武士居住地。天明六年(一七八六)の大聖寺絵図では五〇戸中、徒士一二戸で残りはすべて足軽である。弘化三年(一八四六)の覚(西尾文書)にも「鉄砲町・弓町ハ足軽類之外、跡々申渡通リ被下間敷候」とみえ、下級武士以外には屋敷地は与えられなかった。


弓町
ゆみちよう

[現在地名]明石市天文町てんもんちよう一―二丁目

北は腕塚うでつか町、南は忠度ただのり町、東は両馬りよば川に、西は東片端ひがしかたは町に面している。明石藩の家士・足軽が居住した家中町の一つで、弓組三六人衆が住んでいた(明石記)。享保年間(一七一六―三六)の明石城下図、文久三年(一八六三)の明石町旧全図に町名がみえる。


弓町
ゆみちよう

[現在地名]高崎市弓町

しん町と羅漢らかん町北東部を隔てた北にある侍町。東は遠堀、北は鉦打かねうち町・九蔵くぞう町。「高崎志」に「是所モ左右組屋敷也、弓組ナル故ニ名ヅク、今ハ此辺縦横ノ通ヲ、総テ弓町ト呼也、(中略)昔ハ上羅漢町ト云シト也」とある。


弓町
ゆみちよう

[現在地名]長岡市弓町一―二丁目

長岡城郭の南東方角にできた町。台所だいどころ町の南に連なる。足軽の弓の稽古場があり、足軽長屋も建てられていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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