室町中・後期の観世座大鼓役者で能作者。観世大夫音阿弥元重の第7子。通名小次郎。のちに次郎権守(ごんのかみ)。法名太雅宗松。叔父の大鼓役者観世弥三郎に師事。興福寺衆徒より名人に与えられる名誉号的称号である権守に任じられ,その神技を賞した友梅という明国人から〈催花〉の2字を大書した額(現存)を贈られるなど,大鼓名人として知られる。謡にも堪能であったらしく,1503年(文亀3)3月に三条西実隆作詞の能《狭衣》上演にあたり,作曲者として詞章の質疑のため実隆邸を訪れている(《実隆公記》)。1511年(永正8)には音曲伝書《声ツカフ事》を執筆(転写本現存),また同年の年記を持つ自筆の曲舞(くせまい)《虎送》も伝存する(現在所不明)。その事績を記す《観世小次郎信光画像讃》(《翰林葫蘆集》所収)や《四座役者目録》は,15歳で大鼓の妙技によって後花園院の叡感をこうむったこと,ワキの名手であったこと,観世流の謡を改訂して200余番の謡本を残したことなどを挙げているが,いずれも伝説の域を出ない。信光が史料に登場するのは,1475年(文明7)12月,興福寺中院で六方衆興行の能に〈故恩阿ミ(音阿弥)之末子〉とあるのが比較的早い例で,1472年4月の中院宮遷猿楽の〈楽頭観世三郎息代官〉とあるのも信光のことかもしれない(《大乗院寺社雑事記》)。このように,このころの観世の演能の多くは,1470年(文明2)に急死した観世大夫政盛の跡を継いだ幼少の之重を補佐する信光の活動かとされるがさだかでない。以後しばしば観世大夫に従って貴顕の宴席や将軍御前の能に出仕するが,その間,53歳の1487年(長享1)には再婚して観世長俊・信重・元供の3子をもうけている。97年(明応6)2月には弟子の大蔵九郎能氏に鼓伝書を相伝するなど師家としても活躍し,1509年(永正6)12月75歳で三条西邸を訪れたおりには,実隆に年齢を問われて60歳と答えるほどに壮健であったらしい(《実隆公記》)。
信光の能楽史上における最大の業績は生涯にわたる能作者としての活躍である。その作品は31曲を数え(《能本作者注文》),25曲が現存する。1452年(享徳1)2月薪猿楽社頭能で音阿弥の演じた《漢の高祖》(《高祖》)はその最も若年の作であり(《春日若宮拝殿方諸日記》),1514年(永正11)新黒谷での観世大夫元広の勧進能で新作上演された《遊行柳(ゆぎようやなぎ)》はその最晩年の作品である(《永禄十二年小野宗二郎宛観世座与左衛門国広太鼓伝書》)。信光の作品の多くは華麗な扮装や歌舞,奇抜な作り物,多数の登場人物などに代表される風流性の濃厚な作風を特色とする。脇能物の《巴園》《太施太子》《玉井》《氷上》《九世戸》などはそうした風流性を前面に押し出した作品であり,精物の《吉野天人》《胡蝶》《遊行柳》や現在能の美女物である《和泉式部》《二人神子》も優美な歌舞に主眼を置く能である。霊験物の《高祖》《皇帝》《張良》がいずれも唐土に取材する能であることに代表されるように,異郷を舞台とするような空想的,浪漫的な題材も多用され,この傾向は,鬼神・竜神・怨霊物の諸曲《大蛇(おろち)》《紅葉狩》《羅生門》《愛宕空也》《竜虎》《韋駄天》《船弁慶》などにも部分的に共通する。これらは,超自然的登場人物同士の打合いや武士と鬼・怨霊との闘争などの激しくも華やかな演技を眼目とするが,これを武士同士の合戦という設定に置き換えた斬組物(きりくみもの)《知忠》《光季》《村山》などもあり,戦闘の演技が個々別々ながらいずれも高度に舞踊化されている点に特色が認められる。
一方,作詞技法においても《胡蝶》における《源氏物語》等の古典作品の摂取のように,すぐれて理知的かつ装飾的文体が達成されている場合のあることも特筆に値しよう。すなわち世阿弥を頂点とする前代の作風の行詰りという内的状況と,乱世による能後援基盤の崩壊という外的状況のはざまにあって,それらの危機を打開する野心的試みとして,前代とはまったく異質のショー的,スペクタクル的な劇能をめざした点に信光の真面目があったわけである。その作風はのち嗣子長俊に継承されて能作史上に特異な一時代を画することとなった。
執筆者:竹本 幹夫
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室町末期の能役者、能作者。通称小次郎。音阿弥(おんあみ)の第7子。大鼓(おおつづみ)の名人として名高く、観世座の「権守(ごんのかみ)」として活躍した。これは、どの役に支障がおきてもすぐにかわりうる幅広い芸力と芸位をもった長老に与えられる称号である。幼い大夫(たゆう)の後見として一座を守り、ワキの役を得意としたともいう。作者としても能に劇的生命とショー的な絢爛(けんらん)さを加えた技量の持ち主で、歌舞伎(かぶき)にそのまま移行された作品も多い。『紅葉狩(もみじがり)』『船弁慶(ふなべんけい)』『羅生門(らしょうもん)』『張良(ちょうりょう)』などがある。『鐘巻(かねまき)』(『道成寺(どうじょうじ)』の原作)も彼の作とされる。ワキの役の活躍、登場人物や扮装(ふんそう)のにぎやかさ、変化に富んだ演出が特徴で、現代においても人気曲である。世阿弥(ぜあみ)風の詩劇的方向の作品にも『遊行柳(ゆぎょうやなぎ)』『胡蝶(こちょう)』の佳作を残している。
[増田正造]
(松岡心平)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
…非現行演目。観世信光作。シテは白拍子,実は女の怨霊。…
…四・五番目物。観世信光(のぶみつ)作。シテは黄石公(こうせきこう)。…
…近江猿楽には犬王(いぬおう)(後の道阿弥)という幽玄風の名手が出たが,後継者に恵まれず,室町中期から急速に衰えた。一方,大和猿楽は観世座を先頭に他の3座も力を伸ばし,観世元雅(もとまさ),金春禅竹(ぜんちく),観世信光(のぶみつ)らがそれぞれの持ち味の作能を行うなどして,他の地方の猿楽を圧倒した。 桃山時代の豊臣秀吉は大の能好きで,猿楽者の保護に気を配り,みずから舞台にも立った。…
…美少年が小歌,曲舞(くせまい),羯鼓(かつこ)などの芸能を尽くす《花月》,武士の鬼退治をみせる《土蜘蛛》,天人の舞が中心の《羽衣》など,人間の心理や葛藤を描くよりも見た目のおもしろさや舞台上のはなやかな動きを中心とした能を指し,広い意味では脇能(神霊が祝福を与える内容)も含まれる。なかでも観世信光作《玉井(たまのい)》《竜虎(りようこ)》《愛宕空也(あたごくうや)》,金春禅鳳(こんぱるぜんぽう)作《嵐山》《一角仙人》,観世長俊作《江野島(えのしま)》《輪蔵(りんぞう)》などは,華麗な扮装の神仏,天仙,竜神などが次々と登場して舞台を動き回り,大がかりな仕掛けの作り物を活用し,アイ(間)も《玉井》の〈貝尽し〉,《嵐山》の〈猿聟〉,《江野島》の〈道者〉のように,にぎやかにくふうを凝らす(ただし,今日これらのアイは特別な場合しか上演しない)など,全体がスペクタクル・ページェント・ショーとして統一されている。日本では,スペクタクルやショーに類するものを古来〈風流〉と称したので,この種の能を風流能と名づけた。…
…鬼物。観世信光(のぶみつ)作。シテは戸隠(とがくし)山の鬼神。…
…鬼物。観世信光作。シテは羅生門の鬼神。…
※「観世信光」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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