恵日寺(読み)えにちじ

日本歴史地名大系 「恵日寺」の解説

恵日寺
えにちじ

[現在地名]磐梯町磐梯

本寺もとでら集落の北部、はな川の右岸に位置する。磐梯山と号し、真言宗豊山派本尊千手観音。近世までは慧日寺とも記し、北東に接する現磐梯神社の境内地を含む広大な寺地を有していた。だが、明治初年の神仏分離で当寺守護神とされた磐梯明神を祀る境内社の磐梯神社が旧金堂(薬師堂)社殿として独立、時の住持は同社宮司となって復飾し、当寺はいったん廃寺となった。しかし、坊中の一つで観音堂別当を勤めていた厩岳山観音院が旧本坊に入って慧日寺の寺基を継承、大正二年(一九一三)同院が正式に磐梯山恵日寺と改称して寺名を再興させた。なお古くは会津大あいづおお寺・大寺おおてら薬師などともよばれていた。

当寺の草創は平安時代初期、開山は法相宗の高僧徳一(得一・徳溢などとも記される)。「私聚百因縁集」には「得一建立伽藍諸国多(中略)奥州石梯山建立清水寺会津大寺是也」とみえ、当初は「清水寺」と号していたと思われる。また同書では、開創を大同元年(八〇六)のこととする。「今昔物語集」巻一七には「陸奥国ニ恵日寺ト云フ寺有リ。此レハ興福寺ノ前ノ入唐ノ僧、得一ト云フ人ノ建タル寺也」とみえる。開山とされる徳一の出自・生没年については諸説あるが、天平宝字年中(七五七―七六五)に生れ、承和年中(八三四―八四八)に没したと思われる。また早くから徳一を藤原仲麻呂(恵美押勝)の子刷雄とする伝承があったが不詳。若くして南都で興福寺僧修円について法相宗を学び、のち都を離れて東国に下り、当寺のほか常陸中禅ちゆうぜん(現茨城県つくば市)など多くの寺院の開祖となった。弘仁六年(八一五)以降、最澄との間で三一権実論争とよばれる教理論争を戦わせたことや、空海真言宗を批判した「真言宗未決文」の著書としても著名である。「元亨釈書」では「釈徳一、学相宗于修円、甞依本宗、難破伝教大師、相徒称之、一闢常州築波山寺、門葉益茂、而嫉沙門荘侈、麁食弊衣、恬然自怡、終慧日寺、全身不壊」とあり、当寺で没したとされる。

一方、寺蔵の縁起書は当寺草創について次のように記している。往時、磐梯山は「病悩山」ともよばれる魔性がすむ山で、このため会津地方は五穀も実らず、住民は非常に苦しんだ。たびたび噴火をおこし、なかでも大同元年の爆発は凄まじく一夜で猪苗代湖が生れ、いくつもの村が水没して溺死者の数は知れなかった。このことは都にまで聞えた。


恵日寺
えにちじ

[現在地名]唐津市鏡字山添

かがみ山西山麓にある。曹源山と号し、曹洞宗。本尊は観世音菩薩

縁起によれば、開山は寂門和尚(宗祐)で永和元年(一三七五)建立という。もと天川あまかわ村(現東松浦郡厳木きゆうらぎ町)にあったが、応永年中(一三九四―一四二八)半田はだ(現半田)河内かわちに移り勝楽しようらく寺と称した。やまてらともよび、いまも寺跡がある。その後、おにヶ城主草野宗誉の崇敬厚く、矢作分やはぎぶん(現矢作)鏡山山腹に移され、永禄年中(一五五八―七〇)華谷和尚が鏡宮境内八丁芝原はつちようしばはら(俗称鏡の原)の現在地に移した。藩政期、藩主より合力米一石三斗の寄進があった。

裏庭は鏡山を借景にし、曾呂利新左衛門の作庭と伝える。


恵日寺
えにちじ

[現在地名]香我美町山北

聞楽きくらく山の東方尾根続きの恵日寺山(三七〇メートル)山頂にある。真言宗智山派。岩清水山観足院と号し、本尊は十一面観音。地元では「えんにち寺」とよぶ。

勧化序(「香美郡町村誌」所収)によれば、神亀二年(七二五)行基の開創という。鎌倉極楽寺初代忍性から土佐国守護所宛の年未詳七月二七日付恵日寺院主職補任通知状(東大史料編纂所蔵)は当寺の歴史の古さを語るもので、また暦応三年(一三四〇)一二月九日付恵日寺院主職補任状(鎌倉市覚園寺文書)は、翌四年八月二七日付大忍庄内長谷寺院主職宛行状(蠧簡集)とともに、南北朝初期の大忍おおさと庄の支配関係を知る貴重史料である。


恵日寺
えにちじ

[現在地名]稲沢市西島町 下山

小高い所にあるので、山寺やまでらとよばれる。霊島山と号し、曹洞宗。本尊観世音菩薩。境内七六二坪。創建は永享年間(一四二九―四一)(徇行記)、文安元年(一四四四)(日本洞上聯灯録)、明応九年(一五〇〇)(慧日祠堂過去霊会日鑑)の三説がある。


恵日寺
えにちじ

[現在地名]いわき市四倉町玉山

まきしたにあり、甚光山毘盧遮那院と号し、真言宗智山派。本尊大日如来。徳一が開いたと伝え、会津の恵日寺(現磐梯町)と同様の縁起をもつ。平将門の三女如蔵尼が地蔵を背負い寺の脇に庵を結んだという。

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百科事典マイペディア 「恵日寺」の意味・わかりやすい解説

恵日寺【えにちじ】

福島県磐梯(ばんだい)町にある真言宗豊山派の寺。会津大寺(あいづおおてら)・大寺薬師とも称し,慧日寺とも記す。本尊は千手観音。平安初期の草創,開山は法相宗の徳一(とくいち)。のち真言宗に改宗,磐梯山信仰とも結び,磐梯明神の神事を司る別当寺となり寺勢を伸ばし,会津四郡すべてを寺領とし,門前集落(大寺)を形成したという。1418年をはじめ数度の火災に罹災。明治の神仏分離で境内社の磐梯神社が旧金堂を社殿として独立,住持が宮司となったため廃寺になったが,子院の観音院が1913年寺名を再興。白銅三鈷杵は徳一の請来品と伝え重要文化財

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「恵日寺」の意味・わかりやすい解説

恵日寺
えにちじ

福島県耶麻(やま)郡磐梯(ばんだい)町にある真言宗豊山(ぶざん)派の寺。磐梯山(ばんたいさん)と号する。807年(大同2)徳一(とくいつ)の開基と伝える。本尊は千手観音(せんじゅかんのん)。会津仏教文化の中心をなし、会津大寺といわれ、盛時には18万石を領し、子院3800を数えたという。1589年(天正17)伊達政宗(だてまさむね)の会津侵攻で多くの堂塔伽藍(がらん)を焼失、のち保科(ほしな)氏の援助で再建されたが、明治の神仏分離で一時は廃寺となった。現在、遺跡が慧日寺(えにちじ)跡として国史跡に指定され、金堂や中門が復元されている。寺宝に国指定重要文化財の白銅製三鈷杵(さんこしょ)、ほかに鉄鉢(てっぱつ)、絹本着色「恵日寺絵図」がある。

[金岡秀友]


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デジタル大辞泉プラス 「恵日寺」の解説

恵日(えにち)寺

佐賀県唐津市、鏡山の麓にある曹洞宗の寺院。山号は曹源山。本尊の観世音菩薩は佐用姫観音とも呼ばれる。1026年に朝鮮で鋳造された銅鐘は国の重要文化財に指定。

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世界大百科事典(旧版)内の恵日寺の言及

【徳一】より

…東大寺に住した後,若くして都を去り,東国に移った。常陸国の筑波山に中禅寺を開き,また陸奥国の会津に慧日(えにち)寺(現,恵日寺)を創建した。僧侶の奢侈をにくんでみずから粗衣粗食し,民衆教化にも力を尽くして大いに尊ばれ,菩薩とたたえられた。…

【磐梯[町]】より

…福島県北西部,耶麻(やま)郡の町。人口4357(1995)。磐梯山の南西麓に位置し,JR磐越西線が通じる。平安初期に徳一によって開かれたと伝える慧日(えにち)寺の境内地が,ほぼ現在の町域であり,その門前町として発達した大寺(おおてら)が中心集落である。慧日寺の寺領は会津4郡に及び,東北の高野山とも称されていたが,たびたびの戦火によって,堂塔伽藍はことごとく失われた。現在,慧日寺跡は国の史跡に指定されている。…

【磐梯山】より

…ただし修験道の道場としては吾妻山も含む山々にまたがって展開されており,磐梯山はその一画を占めてきたとみられる。そのなかで磐梯山をきわだたせたのは,徳一の開基と伝える慧日(えにち)寺(現,恵日寺)の存在である。一時,子院3800坊,寺僧300人,僧兵数千人,寺領18万石の勢力を誇ったとも称され,その繁栄ぶりは永正8年(1511)銘のある絹本著色《恵日寺絵図》の伽藍配置や遺物などから知られるが,1589年(天正17)伊達政宗の会津侵攻によって炎上,その後再建されたものの,かつての隆盛を再現することはなかった。…

※「恵日寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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