日本歴史地名大系 「恵日寺」の解説
恵日寺
えにちじ
当寺の草創は平安時代初期、開山は法相宗の高僧徳一(得一・徳溢などとも記される)。「私聚百因縁集」には「得一建立伽藍諸国多(中略)奥州石梯山建立清水寺会津大寺是也」とみえ、当初は「清水寺」と号していたと思われる。また同書では、開創を大同元年(八〇六)のこととする。「今昔物語集」巻一七には「陸奥国ニ恵日寺ト云フ寺有リ。此レハ興福寺ノ前ノ入唐ノ僧、得一ト云フ人ノ建タル寺也」とみえる。開山とされる徳一の出自・生没年については諸説あるが、天平宝字年中(七五七―七六五)に生れ、承和年中(八三四―八四八)に没したと思われる。また早くから徳一を藤原仲麻呂(恵美押勝)の子刷雄とする伝承があったが不詳。若くして南都で興福寺僧修円について法相宗を学び、のち都を離れて東国に下り、当寺のほか常陸
一方、寺蔵の縁起書は当寺草創について次のように記している。往時、磐梯山は「病悩山」ともよばれる魔性がすむ山で、このため会津地方は五穀も実らず、住民は非常に苦しんだ。たびたび噴火をおこし、なかでも大同元年の爆発は凄まじく一夜で猪苗代湖が生れ、いくつもの村が水没して溺死者の数は知れなかった。このことは都にまで聞えた。
恵日寺
えにちじ
恵日寺
えにちじ
勧化序(「香美郡町村誌」所収)によれば、神亀二年(七二五)行基の開創という。鎌倉極楽寺初代忍性から土佐国守護所宛の年未詳七月二七日付恵日寺院主職補任通知状(東大史料編纂所蔵)は当寺の歴史の古さを語るもので、また暦応三年(一三四〇)一二月九日付恵日寺院主職補任状(鎌倉市覚園寺文書)は、翌四年八月二七日付大忍庄内長谷寺院主職宛行状(蠧簡集)とともに、南北朝初期の
恵日寺
えにちじ
恵日寺
えにちじ
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報